緑小学校
(緑2-12-12)
開校 明治45年 6月15日
校歌制定 大正2年 5月 日
校地面積 4535㎡

通学区域
緑 1丁目全域
緑 2丁目全域
緑 3丁目全域
両国中学校へ 緑 4丁目全域
竪川中学校へ |
校歌
作詞:坂 正臣
作曲局:島崎赤太郎
1 千代の栄えの本所
松と名に負う町々の
有るが中にも目に立つは 深き緑の学園
園の掟を守りてむ |
2 誠実一つを心とし
あしき習慣皆すてゝ
君と国とにかきつくす
道をたどらんたゆみなく
これぞ掟の要なる |
◇ 子どもたちが変わるとき、そこに教え、育てる喜びがある。
教育の営みは、子どもたちの幸 福の実現である。
人間の幸せは、自己実現を図ることであると思う。
◇ 価値ある目標に向かって、精いっぱい努力するとき個性や
特性が発揮され、子どもは変容 していくものである。
墨田区の南に位置する理想の学舎、緑の木立に囲まれた
落ち着いた環境、可能性を秘めた子どもたち。
この子どもたちの幸せにつながる教育を創造したい。
◇ 教育の原点や本質をふまえ、今日的課題を的確に把握し、
質的に高い教育を展開するとき、子どもたちは変容し幸
福は実現する。 |
歴代校長
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名前 |
就任 |
退任 |
初代 |
齋藤
民治 |
明治44年12月 |
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2 |
塚越
文雄 |
大正 5年 2月15日 |
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3 |
森田嘉一郎 |
13年 2月27日 |
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4 |
福士直次郎 |
15年 4月 1日 |
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5 |
木内榮三郎 |
昭和10年 2月11日 |
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6 |
福島
鶴吉 |
14年 6月 1日 |
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7 |
伊藤
眞吉 |
21年 4月 1日 |
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8 |
塚本
季之 |
22年 4月 1日 |
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9 |
豊岡
新藏 |
27年10月 1日 |
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10 |
我満干代作 |
30年10月11日 |
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11 |
未至磨慎終 |
33年 4月 1日 |
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12 |
阿部
重三 |
38年 4月 1日 |
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13 |
小林
慶三 |
44年 4月 1日 |
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14 |
永田
健一 |
50年 4月 1日 |
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15 |
佐々木四郎 |
56年 4月 1日 |
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16 |
本間
福夫 |
61年 4月 1日 |
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17 |
嵯峨
悦子 |
平成 4年 4月 1日 |
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18 |
石川
完治 |
7年 4月 1日 |
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19 |
出来
昭伸 |
9年 4月 1日 |
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20 |
田村
康弘 |
15年 4月 1日 |
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学校選択制度
区立小中学校への学校選択を予定している希望者は、
『希望選択票』の必要事項を記入し、自ら希望する学校
へ直接または郵送して申し込む(11月14日まで)。通
学区域内の小中学校への希望の場合は必要なし。
平成16年度 65名 |
緑町
明暦大火後の本所開拓によって整地された地域であるが、約35年後の元禄元年(1689)になって、浅草天王町、旅籠町、蔵前片町、浅草三好町等の火除地の代理として町屋が作られ、発展していく。隣町の相生と同様、祝賀の意味を表す町の名である。その後も付近に松坂・千歳と開運した町名が付けられていく。
現在の緑の地域は、西は清澄通り、南は竪川、東は大横川、北は総武線に囲まれたきっちりとした長方形の町となっている。
江戸時代の緑町は、1丁目から5丁目まであるが、竪川の北岸に沿った小さな町屋で後は大中小取り混ぜた武家屋敷であった。
明治5年になって武家地を編入して北にのび、南割下水(割下水通り)の所まで広がった。しかし、昭和5年に南割下水から総武線までの地域を亀沢に分裂し、三ツ目通り以東の花町、入江町、永倉町、長崎町の一部を緑町へ組み入れ、現在の区画となった。
現在の1丁目の地域は、かっては清澄通りに面したニ之橋寄りのあたりが相生町5丁目で、総武線寄りが亀沢1丁目の一部になっていた。それらの裏通りからが緑町1丁目であった。
昭和5年になってこれらを合わせ、改めて1丁目とし、同様に、2・3丁目を合わせて2丁目、4・5丁目を合わせて3丁目とした。そして、三ツ目通り以東大横川までを4丁目としたわけである。昭和42年5月の住居表示では、この地域の変更はない。
ところで、相生町5丁目は、寛文元年(1661)茶屋長意の拝領地となるが、すぐに上地され、元禄元年再度拝領地となる。そして元禄7年(1694)に御米蔵入堀常凌請負人拝領地が加わるが、元禄10年(1697)に深川元町・六軒堀代地となって初めて相生町5丁目を唱えるようになった。
この相生町5丁目には、江戸落語の発端を向島につくる狂歌・戯作をよくした大工棟梁、立川焉馬が住んでいた。また、俳人の小林一茶が、深川の愛宕神社居住のあとに文化元年(1804)頃から文化5年(1808)5月、祖母の33回忌に旅立つまで住んでもいた。
また、この地域には、墨東歌舞伎のメッカともいえる寿座が明治14年6月に緑町5丁目(現在3丁目)から移転してきている。しかし、本格歌舞伎には入場者が少なく、助高屋高助の「狐静」の演目に対して「本所へたった一幕すけ高屋、中は静でこんこん」との狂歌まで出来る始末であった。それでも明治25年の改築期限がくるまで続いた。
付近の有志は廃絶をおしみ、共同出資して緑町2丁目の緑町公園の一角(現、グルメドール裏)に明治31年5月、再開場した。木造2階建(224坪)、毎月2回の興行であった。その後、震災で焼失し、再建されたが、戦災によりその幕を閉じた。
相生町といえば、かって相生館、そして両国日活館となった現在の第1勧業銀行(更に、みずほ銀行)の所に、明治20年から40年まで、本所区役所があったものである。
緑町の緑をとって号とした明治の文学者斎藤緑雨は、明治9年から緑小学校の西側にある藤堂邸で侍医であった父のもとに10歳~28歳までを過ごしており、明治27年4月横網町に没するまで終生本所を愛した。文学者といえば「アララギ」の歌人、古泉千樫も上京後6年ばかりを緑町で過ごしている。
緑町公園一帯は、墨田区地域では唯一の上屋敷である弘前藩津軽越中守の屋敷があった。現在の緑町公園・野見宿禰神社・緑町図書館を含む一帯で、京葉道路から南割下水通りまで、7916坪もあったといわれる。また、現在の2丁目21番には、子供向け戦争文学の記念すべき作品といえる「ガラスのうさぎ」の著者、高木敏子が育ち、ここで戦災にあっている。
明治23年、保々誠次郎は芳誠舎を設立し、「菊桐石けん」、「羽車石けん」などを作るが、これが現在の「玉の肌石けん」の前身である。
現在の緑町4丁目の竪川寄りは、かっての本所花町で、江戸時代初めから万世橋の北にあった東本願寺の門前町の代地である。花町には建物の中に土間を作り、左右に小さく間仕切りした共同長屋が多く作られたりしていた。
北隣の入江町は、中橋広小路で公用地になり、霊巌島に移って入江町になった町の代地で、さらに北の長崎町も中橋広小路の代地である。
入江町の横川沿い(現在の本所診療所)あたりに、時刻を知らせる時の鐘があった。また、この付近は岡場所でも知られていた。法恩寺に入江町小茶屋中建立の無縁塔が残っている。
小林一茶(立川焉馬の住居跡 緑1-2附近)は、江戸といえば下町、下町といえば落語だが、この江戸落語、立川焉馬(鳥亭焉馬)が天明4年(1784)4月、向島の料理屋武蔵屋において自作自演で落し噺の会を開いたのが始まり。焉馬は相生町5丁目(現緑1丁目)に住む大工の棟梁和泉屋和助といい、狂歌、劇作もよくし、五世市川団十郎と交わり、『歌舞伎年代記』を著した。
また、この地には文化元年(1804)、小林一茶が5年ほどを過ごしている。 |
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