両国小学校
(両国4−26− 6)
開校 明治8年10月18日
校地面積 5011u

昭和26年3月1日 |
通学区域
両国1丁目全域
両国2丁目全域
両国3丁目全域
両国4丁目全域
千歳1丁目全域
千歳2丁目全域
千歳3丁目全域
両国中学校へ |
校歌
作詞:千家尊福 作曲:島崎赤太郎
1・学びの道の ひとすじに
なすべき事は 多けれど
身を立て国を いやとまし
共につくさん忠と孝 |
2・隅田の川水 行くみては
夜昼すてず いそしまん
富士と筑波を 仰ぎては
高きほまれを あらわさん |
両国
墨田区には、現在26の町があり、それぞれが独自に町名の由来や特色をもっていて、町々の歴史や名所など数多くあります。
両国という地名は、いつごろからあるのでしょうか。そもそも、両国を含めた本所一帯は、明暦の大火(1657)ののち、江戸市域を隅田川以東に拡大するために開発された地域です。
このために架けられたのが両国橋です。両国橋は、万治2年(1659)に起工され、寛文元年(1661)に竣工しました。橋ははじめ「大橋」と命名されましたが、下流に「新大橋」が架けられたために、それまで俗名であった「両国橋」が正式に名前となりました。
ではなぜ「両国橋」と呼ばれていたのでしょうか。江戸時代の歌人・戸田茂睡は「下総国本所に江戸浅草より百余間の橋をかけさせらる。武州下総両国へ掛りたる橋なるがゆゑに両国橋と名付けるなり」と記しています。
つまり、それまでは隅田川が武蔵国と下総国の国境となっていたのです。これは古代の国郡制が整備されて以来変わりませんでした。武蔵国と下総国の国境が、隅田川から江戸川にいつ変更されたのかははっきりしませんが、両国橋が架けられた前後に間違いありません。
両国という地名は、橋の名に由来しているのです。普通は、地名が先にあって、橋名はあとからつけられるのがほとんどです。このことから両国の場合には、開拓地であったという事情がよくわかります。
なお、両国橋は明治37年に鉄橋に改架されましたが、関東大震災で一部被害を受け、現在の橋になりました。中央区新川2丁目と湊1丁目を結ぶ南高橋は、明治37年に架けられた両国橋の3分の1を移築したものです。
明治時代に錦絵に描かれ、大正時代には絵はがきになっている両国橋を一部とはいえ、現在でもみることができるとは、素敵ですね。
両国といえば墨田区の両国を指しますが、実は、つい最近まで対岸の中央区にも「両国」という地名がありました。
江戸時代には、橋の西詰、中央区側は両国広小路とよばれ、見世物小屋が並ぶ繁華街でした。そして東詰、墨田区側は向両国とよばれていました。つまり川の向こうの両国ということです。
中央区の両国という地名は、昭和22年までは単に「両国」で、以後「日本橋両国」という町名でしたが、残念ながら、昭和46年の住居表示改正によって、中央区には「両国」という地名がなくなり、現在この場所は東日本橋2丁目あたりとなっています。
そのおかげで、今では「両国」といえば墨田区の両国を指す言葉として定着しました。
両国には、国技館や回向院などがあり、相撲ゆかりの地として有名ですが、その一方で芥川龍之介、舟橋聖一など文学関係の地でもあります。
まず、両国といえば、「相撲」と「花火」が代名詞といえるでしょう。「相撲」は、両国に国技館が復帰して、現在「両国といえば相撲」という昔ながらの関係が復活しました。
日本の国技ともいわれる相撲は、日本書紀によれば垂仁天皇のとき、野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(とうまのけはや)がとったことが始めとされています。
日本各地で行われてきた相撲が墨田に根を下ろしたのは1883年のことです。当時は両国回向院の野天小屋掛け本場所会場で行われました。
その後、最初の国技館が完成したのは1909年(明治42年)収容人員1万人以上という飛躍的発展をとげ、近代大相撲の幕開けとなりました。
しかし、国技館は第二次大戦の空襲で被災し、浅草蔵前に移されましたが、1984年(昭和59年)、現在の両国国技館が新設され、再び相撲が両国に帰ってきました。
現在、墨田区内の20の相撲部屋では、厚い稽古が早朝から繰り広げられています。
力士の手形
国技館通りの力士の手形、両国を訪れた人なら必ず目にする着流しの力士たち。両国はほかの土地では味わえない江戸情緒あふれる相撲の町です。
両国駅西口を出て左側の歩道には歴代の横綱の手形が象られ、思い出の中の名力士たちが目に浮かんできます。
なつかしさにひたるのも両国散策ならではの楽しさでしょう。
ちゃんこの由来
ちゃんこ鍋の名前の由来、料理番を“おとっちゃん”と呼んでいたことから“ちゃん”をとって“ちゃんこ鍋”。部屋で師匠(ちゃん)と弟子(こ)が食事をすることから名前がついたという説もあり。
国技館
JR総武線の両国駅前にそびえる墨田区のというより、東京の名所・国技館。昭和59年に完成した国技館は、述べ床面積3万5千u、収容人員1万1千人を収容できる。
緑の大屋根のクラシック風の特色ある建物。土俵は電動式で地下に収納する事が出来る、格子もコンピューター操作で自由にコントロール出来る。そのため、相撲以外にもプロレス、コンサート等に利用されています。
しかも雨水利用を考慮した設計は、屋根に落ちた雨水が地下に貯水され、飲料以外の用途に使用されている。
相撲博物館
相撲に関心を持つ人、国技館の歴史を勉強したい人のために、国技館1階の相撲博物館が開放されています。展示室には、豊国、写楽描くところの相撲図絵をはじめ、江戸時代の番付表や軍配、相撲をデザインした目貫管飾りや根つけ、名力士の手形などが展示されて、収蔵品数は3万点余りあります。
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両国の川開き
一方「花火」の方ですが、かつては両国橋を挟んで上流と下流の2か所で打ち上げられていました。江戸時代の花火は「和火」といって、黒色火薬を使用したもので、今日のものと比べると色彩も鮮やかではなく、地味なものでした。しかし、原料の分量を調節したり、さまざまな仕掛けを施すなど工夫がこらされ、さらに明治時代に入ると、さまざまな化学薬品が輸入され、色彩の鮮やかな花火が作られようになりました。
現在では、両国橋よりも上流の厩橋と桜橋に会場を移し、その名も「隅田川花火大会」と銘打っています。しかし、もともと「隅田川花火大会」のルーツは、昭和36年(1961)まで行われていた「」という行事の一環としての花火でした。
それでは、両国で花火が打ち上げられるようになったのは、いつごろのことなのでしょうか。
それは、江戸時代、テレビ等でおなじみの8代将軍徳川吉宗のころまでさかのぼります。時は、享保18年(1733)5月28日のことでした。5月といっても、旧暦ですから現在の6月と考えればよいでしょう。
この年は大きな飢饉や江戸で病が流行したために、たくさんの人々が亡くなりました。その人々を供養するために、両国で川開きが催され、花火が打ち上げられました。この時から、毎年5月28日の川開きの日には花火を打ち上げるようになったのです。
以後、毎年5月28日の川開きから8月28日までが遊船期間とされました。川面には数多くの涼み船が浮かべられ、両岸には茶店などが並び多くの人でにぎわいました。こうして両国の川開きは江戸文化を象徴する年中行事となったのです。
とりわけ、納涼に訪れた人々を楽しませたのが川開きの初日に打ち上げられる花火でした。毎年7月の最終土曜日に、隅田川花火大会が開催され、隅田川の夏の風物詩として、親しまれています。
その歴史は古く、江戸時代までさかのぼることができます。ただし、かつての隅田川での花火は、現在行われている場所よりも下流の両国橋のあたりで行われていました。
幕末の両国川開きは、世相の混乱を反映して行われない年が多かったのですが、明治時代には、再び毎年行われるようになりました。花火製造技術も向上し、色彩の鮮やかなものが作られるようになり、江戸時代以上に多くの人で賑わいました。その様子は錦絵などからうかがうことができます。
隅田川の流れ 「玉屋ァー、鍵屋ァー」の声に乗り、下町の夏を彩る花火。
■納涼の名所「両国」
夏の暑さを避け、涼しさを味わう納涼は、両国の川開きが開催される以前から行われていました。当初の納涼の名所といえば両国ではなく、三股富永町(現中央区日本橋中洲のうち)でした。
しかし、万治2年(1659)に両国橋が架けられると、両国が納涼に訪れる人々でにぎわうようになりました。そして、川開きが始まった享保のころにはすでに納涼のメッカとなっていて、涼み船の客に花火を売ってまわる「花火船」の姿も見られました。
■共同出資で花火打ち上げ
両国川開きの花火が恒例行事となる以前は、涼み船を出して夕涼みをする人たちが、それぞれに花火を買い求め、座興に花火を楽しんでいました。しかし、当時の花火は高価で、しかもほんの一瞬で消えてしまうため、とてもぜいたくな遊びでした。
つまり、よほどの資力がないかぎり、大掛かりな花火の打ち上げはできませんでした。このため、川開きの際などは、船宿や茶店・料理店が、共同出資をして大きな花火を打ち上げていました。
■玉屋と鍵屋が花火を担当
江戸時代、両国川開きの花火を請け負い、互いに技を競っていたのが、玉屋と鍵屋でした。両国橋の上流を玉屋が、下流を鍵屋が担当していました。花火見物でお馴染みの「玉屋ァー、鍵屋ァー」の掛け声は、このことに由来するものです。
鍵屋の初代・弥兵衛は、万治2年(1659)に大和国(現奈良県)篠原村から出てきて、両国横山町(現中央区)に店を構えました。 一方玉屋は、6代目鍵屋の番頭であった清吉という人物を祖とします。
鍵屋にその才能を認められた清吉は、のれん分けすることを許され、文化7年(1810)に鍵屋から分かれて独立し、玉屋市郎兵衛と名乗りました。
■哀れ玉屋、失火を出して所払い
鍵屋とともに人気を二分した玉屋でしたが、天保14年(1843)4月17日の夜に、両国吉川町(現中央区)の自宅から火事を出してしまいました。
折しも12代将軍徳川家慶の日光社参中だったため、特に重い罪に問われ、玉屋は所払いの処分を受け、廃業することになってしまいました。
しかし、玉屋の廃業を惜しんだ人々は、玉屋がなくなってからも、花火の打ち上げの時、以前と変わらぬ「玉屋ァー、鍵屋ァー」という掛け声をかけました。こうして、玉屋は花火の掛け声にのみ、その名残りをとどめることとなりました。
■初期の花火は噴き出し花火
花火というと、まず最初に打ち上げ花火を思い浮かべると思いますが、現在の花火のような、打ち上げ筒から花火を打ち上げる方法が用いられるようになったのは、江戸時代中期以降と言われています。
それまでの花火は、噴き出し花火でした。ただ単に筒の先から噴き出すものだけではなく、棒の両端に花火をつけて回転させたり、円形に並べたり、また網を張って吊り下げるなど、さまざまな工夫が凝らされました。
■花火の原料
江戸時代の花火は「和火」といって、硝石・硫黄・木炭などを原料とした黒色火薬が使われていたため使われていました。そのため、現在の花火に比べると暗く、色彩も鮮やかなものではありませんでした。
しかし花火師は、原料の分量を調節することによって、濃淡を自由自在に使いこなし、さまざま種類の花火を作っていきました。色彩の鮮やかな花火が作られるようになったのは、明治時代になって、塩素酸カリウムなど、さまざまな化学薬品が輸入されるようになってからのことでした。
今回の企画展では、こうした花火の製法を記した文献・古文書も多数展示します。
■花火の製法は秘伝中の秘伝
製法は各流派でそれぞれ工夫されていたので、外部に対しては固く秘密にされていました。 秘伝を記した古文書のなかには、起請文(一種の誓約書)のひな型が一緒につづられているものがあります。
その内容は、他流派はもちろん、同じ流派の者でも、まだ秘伝を伝授されていない者には、決して花火の製法を教えないというものです。おそらく、事前にそうした起請文を出させて、秘伝が外に漏れるのを防いだものと思われます。
このように、花火の製法は秘伝中の秘伝とされていたのです。
■川開きの花火に幕
幕末には一時中断されたこともあった川開きの花火ですが、明治以降は再び活気を取り戻しました。ただし、明治5年(1872)に太陰暦から太陽暦に暦が改められたことにより、翌年から開催日が1カ月先の、6月28日とされました。
以後年に寄って若干開催の日にちが異なりました。 川開きの花火は、中断をはさみながらも、大正時代を経て、昭和36年(1961)まで続けられましたが、交通事情の悪化などの理由から禁止となり、この年を最後に、江戸時代以来の長い歴史に幕を下ろすことになってしまいました。
■復活、隅田川の花火
こうして川開きの花火は廃止されてしまいましたが、昭和53年(1978)7月21日、場所を以前の両国から上流に移し、「隅田川花火大会」と名前を変えて復活しました。これが現在まで続き、毎年多くの火とを楽しませています。 |
「仮名手本忠臣蔵」
皆さんご承知の「赤穂浪士の討ち入り」は、事件後ただちに歌舞伎で演じられ、多くの浮世絵にも描かれ、読本類なども出版されました。以後、この事件は「忠臣蔵」といわれ、今日に至るまで、歌舞伎・映画・テレビドラマに数多く登場しています。
また現在、両国3丁目では、地元有志の方により、毎年12月14日の午前中は義士祭、午後には吉良祭が開催されています。このように、「忠臣蔵」は江戸時代以来今日に至るまで多くの人々を熱中させました。
■「刃傷事件」は喧嘩ではなかった
この刃傷事件の裁決についてはよく「内匠頭は即日切腹。それなのに上野介は無罪放免。これではあまりにも不公平ではないか。」といわれます。しかし、考えてみれば内匠頭が一方的に上野介に斬りかかったのだから当たり前のようにも思えます。ところが当時の武家社会では「喧嘩両成敗」というルールが存在していました。「喧嘩」であるならば、双方に対してしかるべき処置がとられるはずでした。それにもかかわらず、この事件の採決は、両成敗にはなりませんでした。つまり「喧嘩」とは判断されなかったということなのです。
内匠頭は事情聴取の際、「日頃から意趣があって是非に及ばず、今日どうしても討ち果たしたかった」と答え、その理由については明かにしませんでした。これに対する上野介の答えは「そんな覚えはない」というものでした。それに加えて、事件が起きた際に上野介が刀に手をかけなかった、無抵抗だった(実際は失神状態で抵抗できる状況ではなかったようです。)という証言もあり、この事件は「喧嘩ではない」という判断が下されてしまいました。
もしこれが「喧嘩」とみなされて、上野介に何らかのお咎めがされていたとしたら、「忠臣蔵」という伝説は誕生しなかったといえるでしょう。
■辞世の句は本当に読まれたか?
刃傷事件を起こした内匠頭は切腹となりますが、この時に有名なエピソードが2つあります。1つは内匠頭の家臣であった片岡源五右衛門がやってきて最後の別れをしたこと。もう1つが切腹の直前、有名な辞世の句「風さそう 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとかせん」が詠まれたことです。これは事件当日に江戸城に登城していて、尋問にも立ち合った目付・多門伝八郎の日記に書かれているのですが、果たして本当にそうだったか、疑問視する声があります。
理由としては、現場には誰も中に入れてはいけないという命令が下っていて、かなり緊迫した状況で切腹が行われたこと。また、赤穂藩や切腹が行われた田村右京太夫建顕家の記録には、全く残されていないことなどが挙げられています。
つまり、伝八郎が討ち入り後に、浪士賞賛の世論を意識して創作したエピソードではないのかと見る説です。真相は闇の中ですが、それだけ事件に対する思い入れが深かったことを表しているといえるでしょう。
■江戸から赤穂までなんと4日半
江戸での刃傷事件の第一報をのせた2つ早駕籠が、赤穂に到着したのは事件から4日半後のことでした。江戸から赤穂までの行程は155里(約620キロ)。通常の旅ならば17〜18日かかる距離です。それをこの早駕籠は108時間、約4倍のスピードで走破しました。この当時、小さな箱1つを担いで走る継飛脚でさえ、江戸〜大阪間が96時間。その突出した速さが伺えます。同時にその速さの分駕籠に乗っていた家臣の苦労が忍ばれます。捕まるものといえば中央からぶら下がっている布だけ。昼も夜もなくただひたすらそれにすがりついて、激しい揺れに耐えなくてはならなかったのです。相当な体力を消耗したことでしょう。ところで当時の駕籠は、誰でも利用できる乗り物ではありませんでした。特に早駕籠はお金もかかる最先端の交通手段でした。ではなぜ、赤穂藩にこのようなことができたのでしょうか? それは、塩の商いで古くから宿場との付き合いがあった赤穂藩は、毎年盆暮れになると手当金を配るなど、配慮していたといわれています。このため赤穂の早駕籠となると、宿場でもより足の速い担ぎ手を用意したようです。
■「赤穂浪士」から「赤穂義士」へ
吉良邸への討ち入りに成功した浪士たちは、内匠頭が眠る泉岳寺を訪れ、その墓前に上野介の首を供えました。門前には、討ち入りの噂を聞き「赤穂義士」を一目見ようと駆けつけた人々で大混乱していました。 その後浪士たちは、細川・毛利・水野・松平の「4大名家」にお預けとなりましたが、ここでの暮らしはどんなものだったのでしょうか? 一応は「謹慎処分」であり、本当は辛い日々のはずです。ところが、世論と同じように大名家も、彼らを「義士」として迎えたのでした。出てくる料理は二汁五菜のまさに「御馳走」で、この食事について内蔵介は「少し重すぎる。もう少し、軽くしてほしい。」とこぼしたそうです。その他に酒も振る舞われ、至れり尽くせりだったようです。
■最終的には「喧嘩両成敗」に
事件に対する処分が下りました。まず赤穂浪士へは「徒党」(当時禁止されていた集団で企みをくわだてること。)を組み、飛び道具などを持参して討ち入ったことは不届きである。しかし主君の仇を討つことは、武士の大義を貫いている。よって切腹を申し付ける。」という内容でした。ここで注目すべき点は、武士にとって名誉である死であった「切腹」となったことです。場合によっては、「打ち首」や「獄門」といった処罰も考えられたからです。
一方の吉良家は、主君の首を取られながらも、ろくに応戦しなかったことは武道不届きであると、領地没収、上野介の息子・左兵衛義周は大名家にお預けとなり、奇しくも「喧嘩両成敗」という形で決着しました。
赤穂義士余聞
元緑14年の江戸城松の廊下における”殿中刃傷”に端を発し、翌年赤穂浪士による主君のあだ討ちへと発展した事件は、後世《忠臣蔵》としてあまりにも有名であるが、その舞台となった吉良邸は、現在の両国3丁目にあった。
時は元禄15年12月13日、ささ売りに身を変えて、討入りは明夜半と心に秘めた大高源吾が両国橋にさしかかる。と、背後から呼び止める声がした。俳諧の友達で江戸に高名の其角であった。源吾は俳名を子葉といい、その道では知られている方であった。久しぶりに芭蕉を語り合った後、別れ際に其角が
花も実も こうなるものか 冬木立
と上の句を詠めば、子葉は 鉄も凍れる 別れの路の霜
と下の句をつけた。さらに、其角の
年の瀬や 水の流れと 人の身は
に対して、子葉はすかさず
あした待たるる その宝舟
と返した。
其角にはその意味がすぐには理解できなかったが、この寒空に子葉の風体を見ては、哀れに思い、自分の羽織を与え、その場を立ち去ったという。
この其角と子葉との両国橋での出合いの寸話は、講談などでよく語られる話である。ただ、竹内蓬盧の「俳家奇人譚」がその出典で、史実にない作り事であるといわれる。
また、両国橋児童遊園(両国1丁目11番2号)には
日の恩や たちまち砕く 厚氷
と刻した句碑が立っている。
この句碑は、いつだれが建てたかは記していないが、句の方は其角が出羽秋田の人、梅津半右衛門へ送ったといわれる書簡の中に出てくる。この書簡によると、、討ち入りの当夜、堀部弥兵衛と大高子葉が吉良邸の隣家土屋主税の門前で、「加勢なきよう火の元用心」を頼んでそうそうに立ち去る背に、昨夜から土屋家に居合わせた其角が
我雪と おもへははかろし 笠のうえ
とよみ、これに対し、本懐を遂げて後、謝辞に再び訪れた子葉が、帰りしなに
日の恩や たちまちくだく 厚氷
と答えたとされている。
ところがこの書簡は、その末尾の宛名梅津氏の俳名を文隣としてある(文隣とは別人である)ことや、土屋家へ挨拶にいったのは本当は片岡源吾衛門と赤埴(あかばね)源蔵であったことなどから、これもまた偽物であるとされている。
討ち入り前、各自に明示された「人々心得」の覚書には、《日が決まったならば、兼ねて定めの通り、前日の夜中、内々決めてある3ヶ所へ静粛にしゅうごうすること》という内容の一条がある。この3ヶ所とは、杉野十平次宅・前原伊助宅・堀部安兵衛宅で、いずれも吉良邸の動静を探る本拠地でもあった。杉野十平次次房は武術指南松野九郎兵衛と名を変えて本所徳右衛門町1丁目(立川3丁目)に大きな町道場を開き、武林唯七や勝田新左衛門を内弟子として寄食させていた。
また、いっそう吉良屋敷に近い相生町3丁目(両国4丁目)には前原伊助宗房が雑穀、雑貨、呉服、青物などを扱う店を開業し、ここに番頭十左衛門の倉橋伝助、若い衆九十郎の岡野金右衛門包秀を同居させて昼夜間断なく上野介の動静を探った。堀部安兵衛がこの店へ遊びに来るうちに、吉良方の驍将小林平八郎の仲間(ちゅうげん)と懇意となり、その口から14日の茶会を確かめたともいわれる。この堀部安兵衛武庸は、本所林町5丁目(立川3丁目)に浪宅を構えていたという。
これら道場の跡も雑貨店の跡も今では判然としないが、とりわけて雑貨店の方は、物干しへ上がれば吉良邸の様子がほぼわかったというほど接近していたという。
旧本所松坂町、現在の両国3丁目にあった吉良家の上屋敷は広大な屋敷であった。今、両国3丁目13番に本所松坂町公園があるが、これは、当時の吉良邸の一角にすぎない。屋敷地は、東西73間3尺7寸(約133.8メートル)、南北は東側が34間2尺8寸余(約62.7メートル)、西の方が34間4尺8寸(約63.3メートル)であって、坪数2,550坪(約8,400u)と記録されている。
吉良上野介が松平登之助屋敷跡を拝領したのが、”殿中刃傷”事件の約6ヶ月後の元禄14年9月3日。義士の討ち入りがあった後、吉良家の所領と屋敷が没収されたのが元禄16年2月4日であるから、結局吉良家の上屋敷となっていたのは前後1年半に満たない短期間であった。
屋敷の表門は東側、すなわち両国小学校方向にあり、裏門は西側に位置していたが、東・西・南の三方は道路に接し、北の方だけは本多孫太郎、土屋主税の屋敷と地続きとなっていた。建坪は、母屋が388坪1合5勺(約1,280u)であり、東・西・南に建て並べた長屋は426坪(約1,400u)に及ぶ。これらを含めた総建坪は846坪1合5勺すなわち2,800uに達している。
現在吉良邸跡として残る本所松坂町公園は、当時の76分の1にあたる97.55u(29坪51)という小公園ではあるが、赤穂義士の遺跡を後世に伝えるものとして著名なものである。
この公園は、昭和年3月、地元両国3丁目町会の有志が発起人となって吉良邸跡の一部の土地を購入して東京市に寄付したもので、昭和25年9月、区に移管された。
公園の周囲は、、江戸時代に高家(皇室・公卿など朝廷との間の諸札をつかさどる家)の格式を表わす海鼠壁(なあこかべ)の長屋門を模した高さ2.1メートルのコンクリートの壁と門が当時を忍ばせている。園内の片隅には吉良邸の中庭にあったとされる「吉良首洗いの井戸」と、これも庭内にあった稲荷神社「松坂稲荷」がある。また、内部の壁面には義士関係の記録や絵画が銅板にしてはめ込まれている。
毎年12月14日、義士討ち入りの日を中心に義士際・吉良祭・元禄祭が盛大に行われている。 |
すみだ生まれの浮世絵師・小林清親
「最後の浮世絵師」、「明治の広重」と呼ばれた小林清親は、弘化4年(1847)に本所御蔵屋敷(現横網1丁目)で生まれました。 幼い頃から、筆と紙さえあれば絵を描き続けたといわれています。
そんな清親ですが、文久2年(1862)父親が亡くなったため家を継いで武士となり、明治元年(1868)には、鳥羽伏見の戦いに幕府軍の一員として参加しています。その後幕府が崩壊すると、生活のため剣術興行団に加わり、剣術の試合をしながら各地を転々としました。
清親が絵師として世に出たのは、明治9年(1876)になってからです。従来の浮世絵に石版や銅版の手法を取り入れた斬新な感覚の風景版画を作り出し、一躍有名となりました。
版画以外にも有名なものでは、近代漫画のはしりといわれる、社会風刺のきいた「清親ポンチ」という漫画のシリーズがあります。 また肉筆画や新聞・雑誌・単行本などの挿絵も手掛けています。大正4年(1915)に亡くなるまで、常に新たな工夫を凝らし続けました。 |
表具とは
墨田区における表装職人は、明治・大正期には本所、特に両国・千歳周辺に多くいました。しかし、第二次世界大戦で表装業界は道具の調達が不可能となり壊滅状態に陥ちいりました。戦後、表装職人は激減し、現在はわずか数人となっています。
表装の技術は、非常に幅広いものであり、一つの分野での技術の習得に10年以上かかるといわれ、ゆえに技術の伝承が非常に困難な職業といえます。
表具は、仏教の伝来と共に経典の表装技術として伝わったと考えられています。以後、床の間の発生や茶道の興隆により需要が増え、江戸時代には上流社会の必需品となっていきました。
その技術は、軸装を主とし、襖、天井、画帖、壁、屏風などの装丁や修復など幅広い技能を要求されます。そして、すべてが依頼主の注文に応じて一点ずつ製作され、伝統的な色目使いを重んじた格調高い取り合わせを基調としています。
布や紙を貼って、巻物・掛物・書画帖・屏風・襖などに作り上げることをいい、表装または装こうともいいます。
表具をする職人さんを表具師といいますが、経師といわれる場合もあります。
今日では、表具師と経師は同じ仕事をさしますが、かつては別々の職業でした。経師というのは「三蔵の中の経蔵に通暁した人・経巻の書写を業とした人・経巻の表具をする職人・書画の幅または屏風・襖などを表具する職人」という意味があり、仏教のお経を扱う人々のことをいっていました。
今日、表装という言葉は、昭和41年に技能検定が実施されたときに労働省などと業界が相図り、「紙、布、のりを使用して、つくり上げてゆく張り作業行為」と意味づけられました。
そして、表具という場合、表装という意味で使われる場合と、表具・壁装を合わせて表装として使用される場合があります。
また表具は、平成元年に東京都から「江戸表具」として「伝統工芸品」に指定されました。
「最後の浮世絵師」、「明治の広重」と呼ばれた小林清親は、弘化4年(1847)に本所御蔵屋敷(現横網1丁目)で生まれました。
幼い頃から、筆と紙さえあれば絵を描き続けたといわれています。 そんな清親ですが、文久2年(1862)父親が亡くなったため家を継いで武士となり、明治元年(1868)には、鳥羽伏見の戦いに幕府軍の一員として参加しています。その後幕府が崩壊すると、生活のため剣術興行団に加わり、剣術の試合をしながら各地を転々としました。
清親が絵師として世に出たのは、明治9年(1876)になってからです。従来の浮世絵に石版や銅版の手法を取り入れた斬新な感覚の風景版画を作り出し、一躍有名となりました。
版画以外にも有名なものでは、近代漫画のはしりといわれる、社会風刺のきいた「清親ポンチ」という漫画のシリーズがあります。 また肉筆画や新聞・雑誌・単行本などの挿絵も手掛けています。
大正4年(1915)に亡くなるまで、常に新たな工夫を凝らし続けました |
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