横川小学校

(東駒形4−18− 4)
開校 明治35年12月20日
校地面積 6406u



 







通学区域

本所4丁目全域
東駒形2丁目全域
東駒形3丁目全域
東駒形4丁目全域
吾妻橋3丁目全域                                      
                                 本所中学校へ
 




校歌

作詞 巽  聖歌  作曲  渡辺 浦人


1 朝だ 明るい 横川の
  授業はじめの あのチャイム
  らんらん らんらん
  らんらん らんらん
  西にけだかい 富士をみて
  学ぼう みんなで なごやかに
 







2 科学する目だ この町に
  みんなのほこり 横川校
  らんらん らんらん
  らんらん らんらん
  胸に帽子に 梅の花
  築こう みんなで この郷土
 
3 にじだ 郷土の 横川に
  流れ豊かな 隅田川
  らんらん らんらん
  らんらん らんらん
  いまに 世界に とぶわれら
  歌おう みんなで 輪になって
 
 



 

あゆみ

 
明治35年12月20日、本所区中ノ郷横川58番地(現墨田区東駒形4丁目18番4号)に、本所区で9番目の学校として横川尋常小学校の設立が認可され、翌年の明治36年6月4日、児童数129名で開校する。

 本校の学区域は、江戸時代からの庶民気質を残し伝える街中にある。東京市横川尋常小学校、東京市本所区横川尋常高等小学校、東京市本所区横川尋常小学校、東京市横川国民学校と社会情勢による校名の変更はあったが、「教育を受ける児童が、本来持っている個性・能力を大切にし児童に知識を教えるよりも、むしろ、児童が知識内容を意欲的に学び取る探求の方法を学び取らせることが教育である」という『動的教育法』への取り組みで培ってきた「為すことによって学ぶ」体験的な活動や問題解決型の活動に力を入れ、実践力のある子どもたちに育てようと努力を積み重ねてきた。

 大正12年9月1日に起きた関東大震災は、校舎を全焼させ、天幕(テント)や露天、仮校舎で授業を行わなければならなかった。待ちに待った鉄筋3階建ての新校舎が昭和4年12月20日に完成するが、その校舎も昭和20年3月10日の東京大空襲により被災し、翌年の昭和21年3月31日本校は廃校となってしまった。そのため、子どもたちは、区内近接の業平、外手、小梅小学校に別れて学ぶことになった。

 それから9年、横川の地域の子どもの数も増え、「是非、同じ横川で学ばせたい」という地域、保護者、卒業生の熱い思い入れと行政の支援により昭和30年4月1日に東京都墨田区立横川小学校として復活再校された。その時の児童数は、989名。

 明治36年の開校から数えて、今年は102年目。360名の子どもたちの中には、四世代とも本校で学ぶ家庭があるなど、地域・保護者・卒業生から多くの支援・協力をいただいている。最近は「子どもの数より大人の方が多くて」と話す町会長の言葉にもあるように、各町会とも少子化、高齢化による問題等を抱えているが、「子どもたちの育ちに必要なことはできる限りするから」、「学区域外から横川に通う子どもも、うちの子供会の子と同じに見ていくから」と応援してくれている。PTA・子供会・地域町会が連携を取り合って協力してくれている。
 




篆刻家「浜村家」

 浜村家は、江戸時代から明治時代にかけて活躍した著名な篆刻家で、代々蔵六を襲名しました。蔵六とは、亀の異名で、亀鈕の銅印を所蔵していたことから号とし、銅印は蔵六居伝世の宝印として、代々に伝えられました(現在、東京国立博物館蔵)。

 初世蔵六から三世蔵六は、横川1丁目の霊山寺に葬られ(震災により墓所は紛失)、また四世蔵六・五世蔵六は向島に永く在住するなど、すみだとは縁の深い一族です。

 
初世:享保20年(1735)〜寛政6年(1794
 浜村家の祖。本姓橘。名は茂喬、字は君樹、号は蔵六(六蔵)、通称は浜村。享保20年(
1735)、父通寿の長子として武蔵国葛飾に生まれる。母は関岡氏。祖父は伊勢度会の人。

 はやくから篆刻家・高芙蓉を慕い、京都に出て芙蓉に師事して刀法を学び、その奥義を究める。のち江戸に移り、江戸篆刻界の指導者となった。巧妙な篆刻が有名で特に鋳造印の技術に巧みであった。天明4年(
1784)、芙蓉が没すると、大典禅師に撰文を請い、韓天寿が書き蔵六が石に彫った墓碣銘を江戸小石川(現文京区)の無量院に建立した。この墓碣銘は現在、東京都港区虎ノ門3丁目の天徳寺に移築されている。

 寛政6年(
1794)11月4日、江戸で没した。60歳。法名称樹院壇誉蔵六大徳。墓所は墨田区横川1丁目の霊山寺。なお二世蔵六・三世蔵六もこの墓所に合葬された。(墓石は、関東大震災により紛失)

 
二世 :安永元年(1772)〜文政2年(1819
 
本姓は橘、名は参、字は秉徳、号は蔵六、別号は賁斎、通称は六蔵、幼名は仙吉。安永元年(
1772)、江戸生まれ。

 伯父である初世蔵六に養われて篆刻を学び、のち養子となる。23歳のとき初世が没したので、家伝の亀紐銅印ならびに蔵六居を嗣いだ。中国の印譜・書画古器を収集し、みずから創意を加えて大成し、名人蔵六と称された。文化4年(
1807)、幕命で朝鮮通信使の返翰用の官印を彫り、賞賜銀を受けた。

 文政2年(
1819)7月18日没。48歳。墓所は墨田区横川の霊山寺。初世の墓に合葬された。

 印譜に「賁斎印譜」がある。

 
三世:寛政3年(1791)〜天保14年(1843
 
本姓小林氏、のち金山氏を称す。名は籍、字は子収、初め南渓と号し、晩年は訥斎・亀禅と号した。寛政3年(
1791)、江戸生まれ。

 15歳にして三体千字文を揮毫し、筆の運びや雄々しく勢いある字に、二世蔵六は驚き、また篆刻についても、鈍刀をもって鋭利に刻する技量に感服したという。
 二世蔵六に子がいなかったので、文政
年(1819)、28歳の時に高弟として伝家の亀紐古銅印を承け浜村家を嗣ぎ、以後ますます技量が進み、門人も増えて、その篆刻は絶妙の粋に達した。

 また妻の金山耀も遷鶯と号し、画・篆刻をよくした。

 天保14(
1843)年8月18日没。53歳。墓所は墨田区横川の霊山寺。初代の墓に合葬された。

 ちなみに篆刻家として、はじめて帝室技芸員となった中井敬所は三世蔵六の甥である。

 
四世:文政9年(1826)〜明治28年(1895
 
本姓正本氏、のちに塩見氏を称す。名は大解(正しくは【さんずいに解】)。字は観侯、通称参蔵。号は蔵六。別号は薇山・雨村。文政9年(
1826)、備前岡山(現岡山県邑久郡牛窓町)の人。嘉永5年(1852)、岡山を離れ江戸へ出る。

 万延元年(
1860)に断絶していた浜村家を継ぐ。明治元年(1868)、行政官の記録係となるが讒言により辞職。その後、宇都宮で教育改革を行い、明治4年(1871)の廃藩置県に伴い東京へ戻る。

 帰京後は向島に住み、明治15年(
1882)「日本書画價額表」によれば、東京須崎村49番地に居住していたとある。また、篆刻家連名の第番に名を連ねており、著名な篆刻家として名を馳せていた。

 明治18年(
1885)10月19日、依田学海らと共に再び白鴎社を結ぶ。明治20年(1887)5月、榎本武揚篆額・大解の碑文ならびに書による「墨堤植桜之碑」を建てる。この碑は平成11年(1999)、墨田区登録文化財に認定された。明治25年(1892)10月、向島小梅・須崎・中ノ郷各町による南葛飾郡復帰運動の請願書を総代として富田東京府知事に提出しており、文化人との交流だけでなく地域の名士としても活躍していた。

 明治27年(
1894)4月15日、須崎町の火災で家屋を焼失し、蔵六居伝世家宝・図書1000巻・法帖・金石印譜等はことごとく灰燼に帰した。幸いにも同日、榎本武揚の厚意により、榎本所有の向島須崎町135番地、元華族・岡氏の家屋を借りることができた。

 明治28年2月24日病没した。享年70歳。墓所は谷中・天王寺。

 著書に「晩悔堂印識」「蔵六居印略」がある。

 
五世:慶応2年(1866)〜明治42年(1909
 
名は裕、字は有孚、号は蔵六、別号は無咎道人・彫虫窟主人。通称立平。慶応2年(
1866)、陸奥(青森県)弘前の三谷大足の二男として生まれる。東奥義塾に洋学を修めた。

 明治22年(
1889)に上京して篆刻を金子蓑香に学び、蓑香没後は四世蔵六について学び、その養嗣子となる。明治27年(1894)5月、浜村蔵六居を嗣いだ。

 明治35年(
1902)4月、明治40年(1907)4月と二度にわたって訪中。政治家の康有為と親交が深かった。また中国篆刻界の名流と交際し、遊学中に学んだ技により、代々伝えられた刀法が一変し、初世以来最大の印人と称された。

 これは浜村家に伝わる鈕の彫り方を記した家伝書が明治27年4月の火災によって焼失したためとも考えられる。石印のほか陶印・金印制作もこなし、印面はもとより鈕形・釉彩に至るまで巧緻優雅を極めた。五世蔵六制作の印は、犬養毅・幸田露伴・早稲田大学図書館・水戸徳川家などが使用している。

 チフスを患い、明治42年11月25日没。享年44歳。墓所は谷中・天王寺。
 著書に「蔵六居印藪」、「(蔵六居士)結金石縁」、「旅窓鐵戯」、(以下は没後の刊行)「蔵六銅磁印譜」、「彫虫窟印藪」、「蔵六金印」がある。
 




第14世名人木村義雄 (1905〜1986)

 将棋の発祥地はインドといわれるが、日本に伝来後わが国独特のゲームとして発展した。江戸時代も後半になると、将棋は上流階級から広く庶民の間に普及し、墨田川べりの本所、浅草界隈は、専門棋士の出入りも多く、特に、将棋の盛んな土地柄となった。

 ここ墨田にも、江戸末期から昭和にかけて、本所の地にゆかりの深い名人棋士が3人もいたのである。第11世名人伊藤宗印、第13世名人関根金次郎、第14世名人木村義雄がその人である。彼らはいずれも棋界に大きな業績を残し、伊藤名人は明治26年(1893)1月6日、68歳で、関根名人は昭和21年(1846)3月12日、79歳で、木村名人は昭和61年(1986)11月17日82歳で没した。

 さて、伊藤宗印は文政9年(1826)、神田松永町に生まれ、前名は上野房次郎といった。11歳にして11代大橋宗桂の門に入り初段を許されるが、20歳の時、7代伊藤宗寿の養子となって8代を継ぎ、5段に進んだ。27歳で7段に昇ると、宗印を名乗り、文久元年(1861)、御城将棋を勤めることになった。当時の将棋界は家元制度で大橋家、伊藤家などは幕府の保護下にあったが、明治維新で幕臣を解かれ禄を離れた。

 その後の棋界は衰微の一途をたどり、宗印など有名棋士の生活も不安定となった。宗印は後に第12世名人となる小野五平に呼びかけ、将棋界の再建に乗り出すが、そんな折、本所相生町(現・両国4丁目30番4号)の宗印を訪ねたのが関根金次郎である。その時、金次郎は12歳で、千葉から単身、本所の親戚を頼って上京、宗印に弟子入りしたのであった。

 関根金次郎は 明治元年(1868)4月1日、千葉県東葛飾郡ニ川村大字宝珠花(現・関宿町)に生まれた。鍼灸を業とする父の積次郎は将棋好きで、その影響か幼少より将棋の神童ともてはやされた。宗印の内弟子となった彼が、精進して2段を許されたのは16歳の時である。

 翌年、宗印の勧めもあって将棋修業の旅に出るが、2度目の旅で宿命のライバル坂田三吉に出会った。また、彼の門下となった土居市太郎(後に名誉名人となる)を見出したのも下関の旅先である。

 帰京後の金次郎は、師、宗印の遺志を継ぎ、将棋界の再建に心を砕いた。その頃、新聞将棋が登場、大新聞の「万朝報」が将棋欄を設けると、各紙がこれにならい、将棋ファンの熱をあおった。

 明治38年(1905)8段に昇進した彼は、井上8段をはじめ有名棋士と次々に対局、中でも棋傑坂田三吉との数次に渡る東西の対決は、全国ファンの興奮を呼んだ。彼は大正10年(1921)、第13世名人の座に就いたが、やがて、この終生名人制度を廃止して実力名人戦を創設するなど、数々の改革を断行した。近代将棋の父と仰がれる彼の第1歩は、ここ墨田の一角から踏み出したのである。余談ながら、向島に住んだ幸田露伴に将棋4段を贈ったのは、ほかならぬ関根名人である。

 さて、木村義雄は、明治38年(1905)2月21日、本所達磨横町の近く、本所表町(現・
東駒形1丁目18番6号)に下駄職人鎌吉の次男として生まれ、地元の明徳尋常小学校(戦後廃校・跡地に本所中学校)に進んだ。

 卒業後、関根金次郎に入門、通い弟子となる。家が貧しく、芝の柳沢伯爵の邸宅で書生をしながら慶応普通部に通わせてもらうが、母のよしが没して家に戻り、外務省の給仕をしながら夜間中学に通うなど辛酸をなめた。

 そんな中で、朝日新聞の新聞将棋出場が契機となって頭角を現し、次々に昇段、棋界の注目を浴びる。また、家主に追いたてられて転々としていた一家も柳島元町(現・業平5丁目辺り)の八軒長屋に引っ越し、ようやく安住の地を得た。

 大正13年(1924)、6段に昇った彼は、報知新聞社に入社、以後10年余にわたり将棋観戦記を担当した。2年後の22歳の若さで8段に昇進。

 昭和12年(1937)には、花田長太郎を破って新設の第1期(実力)名人位に就く。

 その後、5期にわたって名人位を守り、第一人者の実力を誇るが、第6期名人戦で塚田正夫に苦杯を喫する。しかし、8期戦で再び名人位に返り咲いた。そして、9期、10期戦で大山康晴、升田幸三を退けたものの第11期名人戦で大山に敗れると、潔く引退した。

 通算8期、10年間実力名人位を保持した功績により、第14世名人位を名乗り、後年、棋界初の紫綬褒章を受けたのである。

 今日の将棋界の隆盛には目を見張るものがあり、今昔の感を禁じ得ないが、その基礎を築いたのはこの3名人である。しかも、3人とも墨田にゆかりのある棋士であることが嬉しい。

 因みに、伊藤宗印の墓所は区内の本法寺にあるが、名優長谷川一夫の分骨も同寺に葬られている。