柳島小学校

(横川5− 2−30)
開校 明治31年 9月29日
校地面積 8473u



 






通学区域

太平2丁目10番〜19番
太平3丁目11番〜20番
太平4丁目5番〜24番
横川2丁目1番〜12番
横川3丁目1番〜10番
横川4丁目全域
横川5丁目全域                                       
                    錦糸中学校へ
業平4丁目1番〜8番
業平5丁目全域                                       
                    本所中学校へ
 




校歌

作詞 篠塚 博   作曲 福井 文彦

1 すみだの流れ とこしえに
  歴史はかおる まなびやの 
  窓に柳の 若みどり
  よいこはここに 学びゆく
  たのしいわれらの 柳 島
 
 





2 晴れてかがやく 青空に
  富士が根遠く 澄むところ
  希望のひとみ かがやかし  
  よいこはここに 育ちゆく
  たのしいわれらの 柳 島
3 文のみやしろ 天神の
  白梅のごと きよらかに
  心をみがき 身をきたえ
  よいこはここに 伸びてゆく 
  たのしいわれらの 柳 島
 






昭和32年 4月25日 制定





あゆみ

明治30年 9月17日  本所小学校柳島分校の一部を本所区柳島横川町に移す
   31年 3月31日  校名を「東京都本所区柳島尋常小学校」とする  児童数171名
   31年 9月29日  開校式を行う
   41年 4月 1日  校名を「東京市柳島尋常小学校」とする
大正12年 9月 1日  関東大震災校舎はすべて焼ける
   12年12月 7日  仮木造校舎ができる
昭和11年 2月10日  木造校舎完成する
   19年 8月26日  学童疎開のため千葉県市原に疎開する
   20年 3月 9日  空襲により校舎1階1教室半が焼ける
   20年 5月20日  岩手県和賀郡笹間村へさらに疎開する
   21年 3月14日  岩手県から東京に子どもたちが戻る
   26年 4月 1日  校名を「墨田区立柳島小学校」とする
   30年 2月18日  講堂が新しくなる
   32年 4月25日  新校歌ができる
   32年 9月29日  開校60周年記念式典が行われる
   39年 2月14日  統計教育研究発表会が開かれる
   42年 9月29日  開校70周年記念式典が行われる
   46年 4月15日  柳島幼稚園が開園する
   47年12月 1日  区研究協力校(理科)の発表会を開く
   52年11月 1日  開校80周年記念式典が行われる
   55年 7月 7日  新校舎の工事が始まる
   57年 2月     
新校舎・体育館・プール完成
   57年 3月 1日  新校舎にて授業が始まる
   57年 3月 4日  旧校舎の閉校式
   57年11月 6日  新校舎落成・開校85周年記念式典が行われる
   59年 4月〜60年3月    
区研究奨励校(理科)
   59年度        都同和教育奨励費学校グループ受給
   60年度        重点研究「自主的で創造性に富む児童の育成」をテーマに取り組む
   60年11月23日  全国同和教育研究大会会場校
   61年度       
  重点研究「自主的で創造性をも つ子の育成」をテーマに取り組む
   62年度       
  都同和教育グループ奨励
   63年度       
  重点研究「一人一人の可能性を大事にしながらともに育つ教育をめ
                ざして」をテーマに取り組む
平成 5年 6月30日  開校95周年記念式典が行われる
    9年11月13日  開校100周年記念式典が行われる
 



 

 柳島という地名は近世以前の文献には確認できないのですが、「葛西志」によると、現在の墨田区の東南に位置する広域をさしていたようです。また、地名の由来は「柳の木が多かったため」、と記されていますが詳らかではありません。

 江戸時代には武蔵国葛飾郡葛西領となり、その村域は万治年間(1658〜1661)に始まった本所開拓により、南は深川六間堀代地町に至り、北は北十間川に沿い、東は横十間川を越えて亀戸村に接していました。また、西に隅田川、東に中川が流れる墨田区の東南に位置する柳島村は、この二つの川をつなぐ北十間川や、横十間川・大横川に三方を囲まれ、水運に恵まれた地域でした。

 柳島妙見と親しまれ、安藤広重の「江戸名所四十八景」の一つにもなっている法性寺や、萩の名所として名高く萩寺ともよばれていた龍眼寺(現・江東区亀戸3丁目)などが知られています。亀戸天神社や梅屋敷など寺社や名所が数多く見られた隣の亀戸村とともに、北十間川や横十間川といった水運を利用した江戸近郊の遊覧の地でもありました。

 明治時代に至り、明治21年(1888)市制町村制が公布され、翌年、東京市が成立しました。この施行に伴い東京府下の区町村の区域名称変更が行われ、本所区は南葛飾郡から須崎・押上・小梅・請地・中ノ郷・柳島の各村の大部分を受け入れ、本所亀戸町・松代町4丁目などは南葛飾郡亀戸村に移されることとなりまし。この際、柳島村を南北に通過している横十間川が本所区と南葛飾郡亀戸村の境となったのです。

 柳島村は、現在の横川・亀戸を中心に江戸時代に成立した村落です。村は17世紀中頃に始まる本所の開拓により町場と隣接していたことや、周囲を流れる北十間川や横十間川で江戸の市中と結ばれているという地の利を活かし、「すいか」「まくわうり」などの野菜類を栽培し、江戸の町に供給する都市近郊農村として発展しました。

 一方村の中には「萩寺」として有名な
龍眼寺や、安藤広重の「江戸名所四十八景」にも描かれ、別名「柳島妙見」とも呼ばれる法性寺があり、近くの亀戸の梅屋敷や亀戸天神社などとともに遊覧地として賑わいました。

 明治以降になると、本所地区は時計や車両、ゴムなどの製造工場が建てられ近代産業地帯として発展します。このため柳島村付近には、工場で働き始めた労働者のための貸長屋が建てられ、新たな町場が形成されました。また水運で輸送された炭などの工業燃料用の水揚げ場が運河沿いに作られました。こうして戦前の柳島は、新興産業を支える人的・物的資源の供給地として変化しました。

 
大沢家は、江戸・明治・大正時代に柳島村で暮らし、当時の生活文化を継承しています。 江戸時代の大沢家は八右衛門の名を名乗り、村役人を勤めるかたわら、新田の開発にも行っていました。このため当家には、元禄10年(1697)の検地帳などが残されています。これは近世初頭の柳島村の状況を伝える貴重な資料となっています。

 明治時代になると本所の新興産業に燃料として必要であった、薪や炭を供給する薪炭業を手掛けるようになりました。

 大沢家は文人墨客と交流が盛んだったことから、
松尾芭蕉の門弟・宝井其角の系譜を引く俳諧結社「螺風会」の中核として活動していました。三囲神社其角堂を中心に活躍し、12代目の当主が其角流の俳諧の宗匠を襲名していた時期もあり、すみだに栄えた江戸文学の担い手として、重要な役割を果たしました。

 現在も、当時の俳句帳やや屏風などが伝えられるほか、菩提寺の龍眼寺には「螺風会」の句碑(江東区登録文化財)を建立しています。

 大沢家は、
柳島小学校の設立に関わりました。 



 

本所防災館

 本所防災館の入り口には、「象」のモニュメントがあり、皆様のお越しをお迎えしています。また館内にもいたるところに「象」が搭乗しています。またまたインストラクターの制服にも「象」のワッペンが・・・。

 この「象」のワッペンも池袋、立川、本所とそれぞれ違っているのを、ご存知ですか。

 よく「おもての象さんは、なんでいるの?」という質問をうけます。反対に「皆さんはどうしてだと思いますか?」と聞いてみると、「象さんの鼻から水を出す姿と消防士さんがホースから水を出す姿とが似ているから。」という答えが一番多いですね。

 その答えも一つなのですが、「象」は陸上の動物の中で一番大きくて強い動物です。てごわい相手が来てもお互いに協力しあって相手に立ち向かいます。また、傷ついた仲間を助けるなどのやさしさも持っています。そして、皆さんの思うとおり、鼻から水を出す姿が消防官の消火活動をイメージさせることから「象」さんが防災館のマスコットに搭乗したわけです。

 大きな災害がふりかかった時、私達一人ひとりが象のように強く、そして協力して仲間を助けることのできる知恵と力を持つことができるよう願って止みません。

スポーツの秋・芸術の秋・そして防災体験の秋!という訳で本所防災館は連日大賑いです。来館された皆様が、まず最初に立ち寄られるのが、1階エントランスホールにある「受付」です。“元気印”がモットーの受付担当者は「コンニチハ!こちらへどうぞ」と笑顔で声をおかけします。

 受付では、体験カードを発行し、入館された皆様に防災館のシステムをご理解いただき、スムーズに体験、見学していただけるようご案内します。りっぱな施設とインストラクターの制服姿に、中にはちょっぴり威圧感を感じる方もいらっしゃるようです。受付でかわす会話は、そんな方の緊張感をいつのまにかときほぐします。心の通い合う、楽しい防災体験のスタートは、スマイル&ハッスルでお迎えする「受付コーナー」から始まります。

 平成7(1997)年4月、池袋・立川防災館に次ぐ3番目の防災館としてオープンしました。
 1997年10月17日、開館以来、来館者20万人達成の記念式典が行われ、江戸川区南司町会からお越しの清野幸子さんが、20万人目のお客様となり記念証と記念品が贈呈されました。

 1998年1月、阪神・淡路大震災から早3年。被害の大きさを真に受け止め、いつ発生するやもしれない大地震に備え、一人でも多くの一般の皆さんに自宅にある消火器の種類や放射時間などを聞いても答えられない人が多いことです。火災になったら怪我しないで消すことが出来るか心配です。来館者に「何か一つでも身につけてもらえれば・・・」など、参考になれば幸いです。

 特に応急手当は家族のためにと人工呼吸や心臓マッサージを正しくマスターするため懸命な姿が印象に残りました。

 1999年1月、本所防災館には、外国の方も多く来館されますが、特に昨年秋ごろから各国の大使をはじめ大使館職員の方々も多数来館されました。

 今回は、国際化対応のためのしくみについて紹介します。

 展示パネルについては、スペースの関係からコーナー名称のみバイリンガル表記(英語)となっていますが、映像ソフトはほとんどがバイリンガル対応となっています。

 3Dシアターでは英語のほかに中国語、韓国語にも対応しています。

 各コーナーの天井には赤外線送信機が取り付けられていて、映像に合わせて英語の音声信号が発信されます。その信号をレシーバー(赤外線受信機)の受光部で捉えてイヤホンで聞けるようになっています。

 2000年1月、環太平洋等では幾多の災害が発生しました。何といっても6月に起きたメキシコ地震を始めとして8月にトルコ、9月にはギリシャ、台湾でと、大きな地震が発生しました。これらの地震で建築物は倒壊、火災も発生し、大勢の方々が死傷され、壊滅的な被害となりました。

 地元では、未だ、再び来るかもしれない揺れに脅え、建物内に居住することすらできず、屋外で不自由な生活をしている方々が多くいると聞きます。

 もし、このような大きな地震が関東南部に発生したら・・・その被害は想像を絶するものとなるでしょう。

 2001年1月、輝かしい21世紀を迎えました。今や日本人もスペースシャトルで宇宙へ飛び立つ時代になりました。しかし、依然として様々な災害が発生し、人類は苦戦を強いられています。

 東京でも直下地震の発生危険が指摘されております。6年前の阪神・淡路大震災を覚えていますか。あれとほぼ同規模の地震がやってくる危険性があるのです。東京都がまとめた被害想定では、区部直下が震源となった場合、7,159の死者、
158,032名の重軽傷者が発生すると予測しています。みなさん、備えは十分ですか。地震は発生場所その他によって対処方法が若干異なります。ご存知ですか。

 今では、地域にもすっかり定着し、自治会・事業所・学校など、大勢のみなさんにご来館いただき、体験を通して災害時の行動力を身につける「防災館」としての重要な役割を果たしています。

 本所防災館から広がった一つの防災の輪が次々と広がり、ついに昨年11月1日、来館者数が
50万人を突破しました。

 時代を超えて起きる災害。

 来館者50万人達成!!、という節目を迎え、私達インストラクター一同、災害が起きた時に身を守り、家・住むまちを守るための防災行動力を皆様方に高めていただく施設、そして「もう一度、行ってみたい。」と、思っていただける「魅力ある防災館」をめざし、これからも努力してまいります。
 

開館時間 午前9時〜午後5時
休館日 毎週水曜日・第3木曜日(国民の祝日に当たる場合は翌日になります)
場 所 130−0003 = 東京都墨田区横川4−6−6
交 通 総武線錦糸町駅北口より徒歩10分
京成電鉄・都営浅草線押上駅より徒歩10分
東武線業平橋駅より徒歩11分
問い合わせ先 03(3621)0119   03(3621)0116



 

忠臣蔵山崎街道の場

 「頃は元禄15年12月十四日」-------。歌舞伎に”仮名手本忠臣蔵”がある。これは全場面11段にわたる大作。そのなかで、5段目はご存知”山崎街道の場”である。
 もともと、この場は、比較的観客の興味を引かない場面であり、昼時に演じられることもあって、観客が弁当を食べ出すといった具合で、弁当幕ともいわれていた。これを一躍名場面に引揚げたのが、初代中村仲蔵の定九郎であった。
 明和3年(1766)江戸市村座で、仲蔵がこの定九郎役を割り当てられた。これまでは、山賊姿の定九郎役は身分の低い役者がやるものと相場が決まっていたから、さすがの仲蔵も一時はムッとした。しかし、気を取りなおし、確かに風采の上がらない役かもしれないが、それならそれで工夫を凝らして立派に演じようと考えたのである。
 そこで、仲蔵は従来の山賊のこしら、ヘを一歩進めようと柳島妙見(王子稲荷との説もある)に日参して定九郎役の開眼を祈願した。近くにソバ屋があったので、雨宿りをしていると、月代(さかやき)は延び放題の御家人崩れが、色あせた黒紋付の着流しの尻をからげて、破れた蛇の目傘のしずくを切りながら店に入ってきた。
 仲蔵は「これだ!」と思って、この御家人の姿を頭に焼き付けた。
 初日の舞台で、妙見さまで出会った御家人の扮装で定九郎を演じたところ、観客は弁当のハシを止めて大喝采。これが出世の糸口となって、仲蔵は端役から主役へ、そして数々の新演出を試み、天明期を代表する名優となった。また、端役であった定九郎役は立物の役となり、定九郎の扮装も定着して実悪(じつあく=凄みのある悪人の役)の典型となった。定九郎の扮装、そして仲蔵の出世も、そもそも妙見さまのめぐり合わせと考えると、ご利益も相当なもの。これが、後家人定九郎誕生の舞台裏である。