東駒形


 東駒形の地域は、東を大横川、南を本所中学校南側の通り、西を隅田川、北を浅草通りの一つ南側の道に囲まれた範囲である。東駒形の町名は、関東大震災の復興事業の一つとして昭和2年5月に架けられた駒形橋からでたものであろう。駒形の名は古くから浅草側にあり、その由来は、「御府内備考」に「町内馬頭観音堂の往古より有之、依て駒形町と相唱候」とみえている。

 墨田区側の東駒形は、昭和5年8月15日の区画整理に伴う町名変更によって、新たに命名されたものである。この地域は明暦大火後の本所開拓前から開けていたもので、江戸期の地図をみても、道がくねくねと続き、寺院と大名の下屋敷が多くみられる。大正の震災の後、区画整理を行い、本所の他の地域と同じように碁盤の目のように整理されたものである。昭和41年10月の住居表示では、まったく区画変更はなかった。

 江戸時代の東駒形1丁目の地域には、中ノ郷竹町、北本所番場町、北本所表町、薬師河岸の町々があった。東駒形に入る中ノ郷竹町の範囲は少しであるが、吾妻橋から隅田川に沿った町で竹材を商う商家が多かったので竹町の名が出たという。隅田川の河岸には青物市場があって青物河岸と呼ばれていた。青物河岸の下手は薬師河岸で、多田薬師東江寺門前になっていた。東江寺は震災後葛飾区水元へ移転したが、下町では、茅場町の薬師と並んで人々に親しまれたものである。東江寺に隣接して番場町があった。

 番場町は、その昔幕府の鷭(ばん)の狩場になっていたところから名づけられたといわれる。ところで、
 
北本所表町は、「北本所之内表通り之町屋ニ而・・・・・」とその命名を「御府内備考」は記している。正徳3年(1713)市街ちなり、明治5年3月に武家地、寺地を合併し、北の字を除いて本所表町称した。町内の俗称に小三堀(しょうさんぼり)、浜長屋(浜屋敷)、中之町、達磨横町などがあった。西から神明社、本久寺、光徳寺、最勝寺と並び、その裏手の湿地が小三堀であったのであろうか。達磨横町とは達磨作りを渡世とするものが多かったことから呼ばれたものである。ここには、葛飾北斎も暫く住んでいたし、将棋の名人木村義雄もこの横町のつきあたりに育ち、明徳小学校にかよっていた。

 多田薬師の隣りあたりに、蔵前の札差板倉屋の別宅があり、俳句で知られる夏目成美が住んでいたが、ここに小林一茶も出入していた。

 東駒形2丁目の地域には、北本所表町、中之郷原庭町、新町、北本所荒井町があった。

 中之郷原庭町は原場だったところが町屋となっていったので原庭町と名付けられたものであろう。中之郷については、荘園とはいえないが、牛島郷の中心地だったことから出てきたものであろう。原庭町には、竹薮も多く「四ツ谷怪談」の大詰の場ともなった蛇山などもみえる。

 
北本所荒井町は、町内にさらし井という新規に掘った井戸が有名となり、新井とよばれていたものが地名となり、文字も荒井に変わったといわれている。

 また、
新町は、元禄9年(1696)江戸城勝手方である賄方六尺(陸尺)295名の大繩地として、本所最後に縄張りされた地によって新町と呼ばれた。縁日で賑わう栄寿院から受け継ぐ篠塚地蔵も見逃せない。また、本久寺には、初代古今亭志ん生や、日本に初めて野球を伝え、錦糸町に汽車製造会社平岡工場を作った平岡煕の墓などがある。

 
東駒形3丁目は、中之郷原庭町、中之郷元町、北本所表町、松倉町、新町の5町が集まっている。

 
中之郷元町は元村と呼ばれ、中之郷の中心地であった。現在の都営地下鉄本所吾妻橋のあたりが元町である。

 
松倉町は、北割下水(現、春日通り)の北側から細くのびた町で、元禄8年(1695)沼地を整地して、江戸城本丸小間遣152名の大繩拝領地として生まれた。もと松倉豊後守の下屋敷が含まれていたことから町名となった。

 3丁目にある本所中が学校は、明治8年に創設されて戦後廃校になった明徳小学校を引き継いだもので、昭和25年に開校している。学校の北方にあたる桃青寺は、芭蕉が江戸に来た時、初めに寄宿したところと伝え、定林寺と号していた後、芭蕉の別号桃青を寺号とした。また、其日庵2世長谷川馬光の墓もある。

 
東駒形4丁目には、小梅代地町、中之郷横川町、松倉町などがあった。

 
中之郷横川町は、大横川に沿った細長い町で、町名も、もちろん大横川からきている。この4丁目にある横川小学校に、その町名をしのぶことができる。

 
小梅代地町は、 現在の隅田公園となっているところに、元禄6年(1683)水戸屋敷をつくるに際して、代地として移された人たちの町であったが、明治5年に、本来は業平の地であるところから小梅業平町とした。この地には江戸時代から大きな長屋があり、それは今日まで木賃宿の集中地として続いてきた。賀川豊彦記念館もこの地にある。また、大相撲元関脇高見山の東関部屋もある。