堤小学校

(堤通 2−19− 1)
開校 昭和57年 4月 1日
校地面積 13,000u

 




 

通学区域

堤通2丁目全域                                       
             鐘淵中学校へ
 


 
教育目標
●よく考え、すすんで学ぶ子
●心ゆたかで、おもいやりのある子
●安全に心がけ、体をきたえる子
 


 
あゆみ

昭和57. 2. 1  墨田区立堤小学校設立
             初代 日野秀夫校長着任
       4. 1  堤小学校開校
      11. 2  開校記念式典挙行、校歌校章発表
昭和59. 2.29  東白髭公園植樹祭
             曽根総理大臣より書類「人生開拓」を贈呈される
          4  墨田教育委員会特色ある学校づくり推進校
       6. 2  緑を育てる会発足式
昭和61. 4. 1  第二代 小出義隆校長着任
             文部省帰国子女教育研究協力校
             (平成11年度)日本語教室開設
      10.30  開校5周年記念式典挙行
昭和63. 4. 1  墨田区教育委員会委員会研究奨励校
             人権尊重を基本とする国際理解教育
平成 1. 4. 1  第三代 田中憲二校長着任
       4. 1  ボランティア活動推進校
             ☆緑を育て、心豊かな子の育成を通して
       4. 1  東京社会福祉協議会「児童・生徒のボランティア活動普及
             事業協力校」
平成 3. 4. 1  墨田区教委区委員会特色ある学校づくり推進校
平成 4. 3     【すみだセミナーハウス】設置
       4. 1  第四代 吉田澄子校長着任
      11.12  開校10周年記念式典挙行
             ボランティア活動普及事業モデル校
平成 9. 4. 1  第五代 大槻啓二校長着任
      11.14  開校15周年記念集会・式典挙行
平成11. 2.19  コンピューター室設置
平成13. 6. 4  インターネットセットアップ
平成14. 4. 1  第六代 押尾賢一校長着任
       4. 1  日本語学級設置認可される
      11.22  開校20周年記念式典挙行
平成15. 4. 1  東京都人権尊重教育推進校
平成16. 1.29  ランチルームにて給食開始
       3.15  コンピュータ室の
PCウインドズXPに更新
       4. 1  第七代 神山安弘校長着任
 


 
隅田 

現在の千葉県市川市にあった下総国府から葛飾区の小岩・立石を経由して隅田に至る古代の官道が通っていました。また荒川の開削以前には、「奥州街道」と呼ばれる道もありました。

 江戸時代の地誌である「雨の舎(やしろ)」には「東鑑(あずまかがみ)に見へたり、隅田の宿は木母寺の前、隅田川の岸に有しとぞ、其跡今は田と成りて、土手の内にかすも町残り、奥州道のかわりし時、隅田の宿は千住へ移りて、今の千住の宿也と、里の翁の語り侍れば、彼書に見へし隅田の宿は是なるべし」とあり、「江戸砂子(すなこ)」にも「隅田川の渡 橋場(はしば)の渡し共云、隅田村木母寺へわたる所、此わたしむかしの奥州街道と云、伊勢物語の、日もくれぬはや船にのれといひしも此(この)所也とそ」という記述がみられます。

 つまり木母寺・隅田川神社付近は、下総国衙(こくが)からの官道と奥州への街道との分岐点であり、また対岸への渡河点となっていたのです。

 現在ではその面影は残っていませんが、隅田川神社には、文政2年(1819)3月に山東京伝(さんとうきょうでん)の弟・京山(きょうざん)によって建てられた「建久(けんきゅう)年間垂跡(すいせき)」という道標(みちしるべ)が残されています。この道標は、頼朝が隅田川を渡河したことにちなんで建てられたものです。

 堤通という地名がつく前は、隅田・寺島の一部でしたが、この隅田や寺島という地名は、実は室町時代にはすでにあった地名なのです。とくに隅田は、鎌倉幕府の正史である「吾妻鏡」治承4年(1180)10月2日条に、源頼朝の乳母であった小山政光(おやままさみつ)の妻・寒河尼(さむかわに)が末子朝光(ともみつ)を伴い、隅田宿に在陣中であった頼朝のもとへ参向したという記事が残されています。つまり隅田には「宿(しゅく)」が形成されていたということなのです。一般的に中世の宿の原型は平安時代末期に形成されたといわれています。つまり隅田に宿ができたのは、平安時代にさかのぼることができるということなのです。

 実際に隅田が古くから交通の要衝であったことは、承和2年(835)6月29日の「太政官符」に記されています。この中に渡船の数を増加するという記事があり、「武蔵下総両国堺住田河(すだがわ)四艘(そう)」と見え、隅田川の渡船の数が2艘から4艘に増やされています。この「太政官符」には「墨俣河(すのまたがわ)」「大井河(おおいがわ)」などもみえ、いずれも古代の官道上の渡河点であると考えられ、同様に増やされています。

 明治に入ると、都市近郊には住宅や工場が建設されていきます。とくに大工場は水運の便や豊富に使える水を求めて河川沿いに建設されました。堤通に建てられた工場の中でも鐘淵紡績(かねがふちぼうせき)は明治22年(1889)に開設され、会社の名前もこの一帯の鐘淵という地名からつけられたものです。現在はカネボウと社名を変え、工場も閉鎖されていますが、会社の住所は墨田区に置かれています。

 堤小学校付近には、大正2年(1913)に日活の撮影所が開設されました。総ガラス張りの画期的な建物でしたが、関東大震災の影響でわずか10年しか使われませんでした。
 最南端の、現在、共栄倉庫となっているあたりは、江戸時代には自分の養女を大奥にいれて権勢をふるった中野碵翁(せきおう)の屋敷があり、その後、明治の政商(せいしょう)・大倉喜八郎(きはちろう)の別邸となったところです。

 堤通という地名は、昭和39年(1964)に生まれた新しい地名です。その由来は、墨堤通りに沿っている町ということによります。堤通という地名になる前は、町の北から順に隅田2丁目・隅田1丁目・寺島町3丁目の一部でした。

 現在は防災団地が林立していますが、江戸時代には行楽地として賑わいを見せていました。明治時代以後、この一帯はさまざまに変化していきます。


 
 
■ 英語・オランダ語を操る国際派・榎本武掲

 堤通の白鬚防災団地の一角、梅若公園の中にある、軍服姿の大きな銅像は、明治政府で逓信・文部・外務大臣を歴任し、日本の国際化に大きく貢献した
榎本武掲です。 武掲は天保7年(1836)に下谷三味線堀(現台東区小島)に生まれました。幼いころから賢く、また優しい性格の持ち主でした。幕臣の子弟を教育する昌平坂学問所や江川太郎左衛門が開いた江川塾で儒教や英語、オランダ語などを学びました。

 その後、幕府が長崎に海軍伝習所を創設すると、武掲は第2期生として入所し、蒸気機関や機械製造について学びました。ここでも成績優秀だったため、23歳で、江戸築地の海軍操練所の御軍艦操練教授に任命されました。

 27歳のときにはオランダへ留学し、航海術や造船術、砲術を学び、帰国後は
勝海舟に見込まれて軍艦「開陽丸」の艦長となりました。

 
やがて明治維新により江戸幕府が倒れ、江戸城が明け渡されると、官軍は軍艦の接収を図りました。しかし武掲はこれを拒否し、軍艦など8隻と旧幕府軍を率いて品川沖を脱出、北海道の函館に入り、官軍に抵抗して蝦夷島政府を樹立しました。最後まで幕臣としての立場を貫いた武掲でしたが、官軍の総攻撃に遭い降伏、投獄されてしまいました。

 釈放後はその語学力や外交手腕を買われ特命全権大使・海軍中尉に任命され、ロシアに派遣されるほかさまざまな役職に就きました。 晩年はその風光に魅かれ、向島(現言問小学校の北西側)に暮らしました。自邸で花見の宴を催したり、愛馬に乗って木母寺の付近まで墨堤を散策したり、隠居生活を楽しんでいました。その中でも
向島百花園は特にお気に入りで、ここで四季折々の草花を愛でながら酒を飲むことを楽しみにしていました。



隅田川神社


 一名、水神とも呼ばれ、人々に親しまれ、信仰されています。よほど古くから在ったと見えて、平安の終わり、源氏の大将、源頼朝が、まだ、関東にいた時、この神社に参り、武運を祈ったと伝えられています。その時、ここは、隅田川の中の島(洲)で、浮島と呼ばれて、浮島神社といわれていました。

 その頃の人々の楽しみは、祭りでした。隅田川神社(水神様)のまつりは、その頃から6月14・15日でした。

水神の名は、隅田川を上り下りする舟人達の守り神として、近くはもちろん、遠くの人々にも名を知られたいました。

 祭りの日になると、神輿を舟に積んで、隅田川を練り歩き、水神の祭りに来たそうです。今でも同じ頃にまつりが行われています。

 水神様の近くに「水神の渡し」があり、南千住の方へよく行っていました。小松島の乗船場から蒸気船が出ていて、川下の吾妻橋のほうにも行っていた。

 大正の初めには、有料の白鬚橋ができました。いつも、二人のおじいちゃんがいました。関東大震災まで続き、毎日渡る人は回数券を利用すると、1銭のところを8厘で渡れました。



50若宮八幡神社


 元若宮15番地にありましたが、荒川放水路の敷地になりましたので、今の隅田川神社に一緒にまつられています。

 若宮村に、何時まつられたかは、よくわかりませんが、1000年ぐらい前からの古い社だったようです。



鐘ヶ淵


 元名元年、隅田川のほとりに普門院という寺がありました。この寺が亀戸に移る時、寺の道具や釣鐘を船に乗せて川を渡ろうとしました。その時、誤ってその船が沈んでしまいました。

 それから、暫く経って、享保の終わり頃、その頃の人が、川の中に沈んでいることを伝え聞き、数百人の人が、たくさんの綱を持って引揚げ様としました。ところが、水草が生い茂っている中に、、竜が頭から光を発し、その綱がみんな切れ、鐘を上げることが出来ませんでした。昔は、天気のよい日、船に乗ってその水底を見ると、鐘の沈んでいるのがよく見えたそうです。

 これが鐘ヶ淵の名のおこりです。



木母寺


 このお寺の本尊(おまつりしてある仏様)は、慈恵大師で、天台宗に属しています。平安期の中頃、977年(貞元2年)に、忠円阿闍梨(ちゅうえんあじゃり)が、梅若寺と名づけて開かれました。地蔵菩薩は弘法大師の作とも伝えられていますし、石碑とか塚などは、大変古く有名なものが多いので、大切な資料になっています。

 1189年(建久6年)源頼朝が、奥州征討の時、立ち寄ってお祈りしたとも伝えられています。また、1607年(慶長12年)近衛信平が、梅若寺の寺の名を木母寺(梅よりとる)と改めました。柳の枝で書き記したものがありますが、寺の宝物となっています。

 太田持資(道灌)は、寺を造り直し、1590年(天正18年)徳川家康も訪れて、梅柳山と名づけました。

 また、3代将軍家光の晩年には、木母寺境内に「隅田川御殿」が造られました。これは、代々の将軍が鷹狩りや舟遊びをする休憩所とされていましたが、実際は幕臣の水泳その他の訓練を統監するときの本営となるのが、主な用途であったとのことです。明治の初め、約20年、梅若神社と呼ばれた時がありました。



梅若塚


 木母寺の庭に梅若塚があることは、よく知っていると思います。古くからあって、人々にも、よく知られており、「謡曲」などにもたくさん謡われています。

 梅若丸の話は、母と別れて死んでいったという悲しい物語になっていますが、この話に似た話はたくさんあるので、本当かどうかは誰にもわかりません。しかし、次のような事は解ります。
 ずうっと古くから、ここは村里があったという事や、隅田川の渡しや通りは、大昔から大きな役目を持っていたという事などです。

 さて、寺にある「梅若権現御縁起」によると、梅若丸のことを次のように伝えています。
 今より、千年ほど昔、村上天皇の頃、吉田少将推房の子として生れました。5歳の時、父が亡くなり、7歳の時、比叡山に登って勉強しました。けれども、賢い梅若丸を憎む悪者が居ましたので、12歳の時、下山して大津に来ました。

 ここで、信夫藤太という人買いにだまされ、東へ東へと連れられ、隅田川の近くにきたときに病気になってしまいました。川辺に捨てられた梅若丸は、隅田関谷の人に介抱されましたが、その甲斐もなくこの世を去りました。

里人は、みんな涙を流して哀れみました。たまたま、天台宗のお坊さんである忠円阿闍梨(ちゅうえんあじゃり)が、通りすがりにこの話を聞いて、塚を築いて柳を植えて弔い、梅若寺と名付けました。

 あくる年の3月15日、里人が集まってお参りをしていると、気も狂わんばかかりの母が、たまたま、ここへ通りかかり、里人から、探し求めていた、わが子の変わり果てた姿を聞いて、梅若丸の塚に泣き伏してしまいました。



 ■わずか12歳でこの世を去った梅若丸
 
平安時代の中頃、
吉田少将惟房と美濃国野上の長者の一人娘・花御前の間には、梅若丸という男の子がいました。父・吉田少将が病により35歳でこの世を去った後、梅若丸は母の勧めで比叡山月林寺に登り、修行に励みました。ところが梅若丸の詠んだ和歌がきっかけで、同輩達と争いが起こってしまいました。

 このため月林寺を下山した梅若丸は、琵琶湖のほとり、大津の浜(現滋賀県)で人買いの
信夫藤太に出会います。信夫藤太は梅若丸を売り払おうと考え、奥州(現福島県)へと向かいました。2人は武蔵国と下総国の間を流れる隅田川の東岸・関屋の里までやってきますが、長旅の疲れから梅若丸は重い病にかかり、一歩も歩けなくなってしまいました。

 ところが信夫藤太は、そんな梅若丸を置き去りに去ってしまい、「尋ね来て 問はば応えよ 都鳥 隅田川原の 露と消へぬと」という辞世の句を残し、梅若丸は12歳の生涯を終えました。

 ■悲しみに暮れた母は自ら梅若丸のもとへ
 
わが子の失踪を知った花御前は狂女と化し、梅若丸を探しさまよい歩きました。隅田川の西岸まで来た花御前は、川を渡る船から東岸の柳の下で大勢の人が念仏を唱えている光景を目にします。渡守の話によると、ちょうど一年前の今日、人買いに連れられた12〜3歳の男の子が病気になって歩けずに亡くなったというのです。

 そしてその男の子の名前は、梅若丸だというのです。自分の息子がすでに他界していることを知った花御前は、嘆き悲しみながら里人とともに菩提を弔いました。すると塚の中から梅若丸の亡霊が現れ、一時の対面を果たしますが、再びその姿は消えてしまいました。その後、塚のかたわらに庵が建てられ、花御前が暮らし始めますが、結局悲しみに耐え切れず、池に身を投げ、自ら命を断ってしまいました。

 ■絵巻でみる梅若伝説
 
堤通の
梅柳山木母寺は、梅若丸を供養するために建てられた庵が起源とされています。はじめは隅田院梅若寺と号していましたが、天正18年(1590)、徳川家康が梅若丸と塚に植えられた柳にちなみ「梅柳山」の山号を与えました。寺名は、慶長12年(1607)に寺を訪れた前関白近衛信が「梅」の字の偏と旁を分解して「木母寺」と名付けたそうです。

 木母寺では、梅若伝説を絵巻にした
紙本着色梅若権現縁起絵巻を所蔵しています。延宝7年(1679)に高崎藩主・安藤対馬重治によって寄進されたものです。絵巻の画家及び書家は不祥ですが、金泥によって描かれた下絵や、極彩色の美しい絵、優れた書は一見の価値があるのですが、一部が昭和20年代の空襲で被害に遭うなどの、損傷も見られます。

 そこで資料館では、この絵巻のレプリカを作成し展示をしています。レプリカといっても、多くの時間と工程を経て作られた逸品で、中世のすみだを絵画と詞書の両面から伝える資料的価値は、収蔵品の中でも秀でています。絵巻の展示場面は随時替えているので、梅若伝説をとおして、いにしえの隅田川の風景を探ってみてはいかがでしょうか。



 
すみだの原点−「堤通」

 墨田区と隅田川とのかかわりの原点は、
木母寺隅田川神社付近でした。その舞台となった「堤通」(つつみどおり)をご紹介しましょう。

 頼朝が陣を敷いた

 堤通という地名がつく前は、隅田・寺島の一部でしたが、この隅田や寺島という地名は、実は室町時代にはすでにあった地名なのです。とくに隅田は、鎌倉幕府の正史である
吾妻鏡治承4年(1180)10月2日条に、源頼朝の乳母であった小山政光(おやままさみつ)の妻・寒河尼(さむかわに)が末子朝光(ともみつ)を伴い、隅田宿に在陣中であった頼朝のもとへ参向したという記事が残されています。つまり隅田には「宿(しゅく)」が形成されていたということなのです。

 一般的に中世の宿の原型は平安時代末期に形成されたといわれています。つまり隅田に宿ができたのは、平安時代にさかのぼることができるということなのです。

 実際に隅田が古くから交通の要衝であったことは、承和2年
(835)6月29日の「太政官符」
に記されています。この中に渡船の数を増加するという記事があり、「武蔵下総両国堺住田河(すだがわ)四艘(そう)」と見え、隅田川の渡船の数が2艘から4艘に増やされています。

 この「太政官符」には「墨俣河(すのまたがわ)」「大井河(おおいがわ)」などもみえ、いずれも古代の官道上の渡河点であると考えられ、同様に増やされています。

 隅田に通じる古代の官道

 現在の千葉県市川市にあった下総国府から葛飾区の小岩・立石を経由して隅田に至る古代の官道が通っていました。また荒川の開削以前には、「奥州街道」と呼ばれる道もありました。

 江戸時代の地誌である
雨の舎(やしろ)」には「東鑑(あずまかがみ)に見へたり、隅田の宿は木母寺の前、隅田川の岸に有しとぞ、其跡今は田と成りて、土手の内にかすも町残り、奥州道のかわりし時、隅田の宿は千住へ移りて、今の千住の宿也と、里の翁の語り侍れば、彼書に見へし隅田の宿は是なるべし」とあり、江戸砂子(すなこ)」にも「隅田川の渡 橋場(はしば)の渡し共云、隅田村木母寺へわたる所、此わたしむかしの奥州街道と云、伊勢物語の、日もくれぬはや船にのれといひしも此(この)所也とそ」という記述がみられます。

 つまり木母寺・隅田川神社付近は、下総国衙(こくが)からの官道と奥州への街道との分岐点であり、また対岸への渡河点となっていたのです。

 現在ではその面影は残っていませんが、隅田川神社には、文政2年(1819)3月に
山東京伝(さんとうきょうでん)の弟・京山(きょうざん)によって建てられた「建久(けんきゅう)年間垂跡(すいせき)」という道標(みちしるべ)が残されています。この道標は、頼朝が隅田川を渡河したことにちなんで建てられたものです。

 堤通の由来

 堤通という地名は、昭和39年(1964)に生まれた新しい地名です。その由来は、墨堤通りに沿っている町ということによります。堤通という地名になる前は、町の北から順に隅田2丁目・隅田1丁目・寺島町3丁目の一部でした。

 現在は防災団地が林立していますが、江戸時代には行楽地として賑わいを見せていました。明治時代以後、この一帯はさまざまに変化していきます。

 堤小学校付近には、映画をまだ、
活動写真といっていた頃、隅田村の堤外(現在の堤通2丁目)に日活の向島撮影所があった。

 明治29年に輸入された映画は、40年代に入ると、すっかり大衆娯楽として定着してきたが、映画を作る撮影所のほうはまだまだ貧弱なものだった。

 そのころ、映画会社のひとつ日活は、新しい構想のもとに撮影所の建設を目指し、適地の物色をはじめている。その結果、大正2年(1913)に当時田園地帯で空気が澄み撮影に適した隅田川べりの別荘地を買収し、10月に日本最初の屋内ステージを持つ、敷地7,500uの日活の撮影所が開設、完成されました。

 このステージは、400uで地上12mの高さに木造の床を作り、外部は採光を良くするための総ガラス張りの画期的な建物で設備も近代的なものばかりで東洋一と評されていた。

 また、光を反射して燦然と輝くこの撮影所は、建物としても珍しく、名所雑誌に掲載されたほど有名であった。ここで幾多の名作が生れた。それらは、撮影所の地名を取って「
向島作品」と称され、過渡期の日本映画に一躍「向島時代」を築き上げた。つまり、活動写真新派劇の総本山は向島だったわけである。

 中でも当時、人々に口ずさまれていた「
カチューシャ」の歌を挿入した『カチューシャ』『後のカチューシャ』『復活』は一世を風びし、映画ファンの人気をさらった。なにしろ、この三部作で当時のお金で16万円の興行収入をもたらしたという。

 俳優の方では、カチューシャを演じた「
立花貞二郎(女形)」、ネフリュ−ドを演じた「関根達発」がおり、また、大正・昭和期を通しての名映画監督「衣笠貞之助」も、この向島撮影所の出身である。

 向島時代の作品は、今日の映画と比べるとまだまだ幼稚なものといえるが、俳優ばかりでなく制作スタッフも、新しい映画技術を目指して暗中模索の中で懸命にカメラを動かしていたのであるが、関東大震災の影響でわずか10年しか使われませんでした。

 また、時を同じくして独立プロの草分け、
高松豊次郎プロダクションも吾嬬町西4丁目(現在の京島3丁目原公園付近)にスタジオを持ち「忍術、剣術」映画を作っていた。ここでは古いファンにお馴染みの大河内伝次郎、板東妻三郎、江川宇礼雄などが活躍している。

 このように、当時の向島は、「
映画の街
」としても知られていたようである。しかし、日活向島撮影所は10年後の震災で損傷し、修理をして撮影を続行したが、時代の波には勝てず、同年、京都に移転した。

 一方、高松プロのスタジオは第2次大戦で焼失し、映画の町、向島はここに終わった。時代は変わり今日、テレビという新しい映像が出現して、大衆の趣向も映画から遠ざかった。映画館は続々廃業し、スーパー・マーケットなどに姿を変えていった。昭和46年1月、北部地域最後の映画館≪
向島金美館≫も駐車場となったが、最盛期には14館を数えたがのだから全く、隔世の感が深い。日本映画の盛衰の一面が反映されているのかも知れない。

 最南端の、現在、共栄倉庫となっているあたりは、江戸時代には自分の養女を大奥にいれて権勢をふるった
中野碵翁(せきおう)の屋敷があり、その後、明治の政商(せいしょう)・大倉喜八郎(きはちろう)の別邸となったところです。

 明治時代から現在へ

 明治に入ると、都市近郊には住宅や工場が建設されていきます。とくに大工場は水運の便や豊富に使える水を求めて河川沿いに建設されました。堤通に建てられた工場の中でも
鐘淵紡績(かねがふちぼうせき)は明治22年(1889)に開設され、会社の名前もこの一帯の鐘淵という地名からつけられたものです。現在はカネボウと社名を変え、工場も閉鎖されていますが、会社の住所は墨田区に置かれています。