すみだの成り立ち
古墳時代の終わりごろの旧利根川水運の様子は、古墳の石室の構造やその出土遺物を通じて知ることができます。房州石(ぼうしゅういし)という古墳の石室に用いられた石材は、房総南部の鋸山(のこぎりやま)周辺で切り出されたものですが、はるばる東京湾を越えて隅田川の周辺地域にもたらされました。
隅田川の西部では赤羽台(あかばねだい)古墳群(北区)、東部では柴又八幡神社(しばまたはちまんやま)古墳(葛飾区)などが房州石を用いた古墳であるとされています。また、旧利根川上流の埼玉県行田(ぎょうだ)市の将軍山古墳も房州石を使っていました。房州石をめぐる交流は、房総南部、隅田川河口部、その上流の埼玉地方にまで及ぶ広範囲なものでした。
古代東海道の設営以前も、隅田川が重要な交通路であったことに変わりはありません。全国各地に巨大古墳が築かれた、西暦4〜7世紀の倭王権の時代、隅田川は水上交通の要衝となっていました。
現在は千葉県の銚子に流れている利根川の本流が、当時は埼玉県北部で南に大きく折れ曲がり、江戸川・中川・隅田川の3本の川筋に分かれて東京湾に流れ込み、今とは比較にならない大河川を形成していました。旧利根川とそれが注ぐ東京湾を通じ、様々な人や物が舟で盛んに行き交(か)っていました。
隅田川が初めて史料に登場するのは、承和2年(835)のことで、そこには「住田(すだ(すみだ))の渡」として出てきます。実は、この「住田の渡」は、都と地方を結ぶ幹線道路・古代東海道が通過する渡し場でした。
最近、隅田川を渡る古代東海道のル−トを探るてがかりになる資料が、各地で発見されています。たとえば北区西ケ原にあった武蔵国豊島郡衙(むさしのくにとしまぐんが、古代豊島郡の役所)跡から、奈良時代後半ごろの道路の跡が出土しました。
また、千葉県市川市内の遺跡からは、東海道上に置かれた交通施設である「井上(いがみ)」駅(えき)と書かれた土器も発見されました。これらの資料の検討により、奈良時代後半ごろの東海道は足立区内を通過し、平安時代になると、少し道筋が変わり、隅田川神社(現・墨田区堤通)付近を通るようになった、ということが分かってきました。
都人(みやこびと)は、この古代東海道を通り、はるばる隅田川までやって来たのです。すでに奈良時代の昔から、隅田川流域は交通の要衝(ようしょう)として重要な位置を占めていました。古墳時代の初めごろの旧利根川下流部の水上交通の様子を知る上でも、伊興遺跡は貴重なてがかりを提供します。
伊興遺跡からは、舟形という古墳時代の舟の形をした祭りの道具や、古墳時代中ごろの刳舟(木の幹をくりぬいて作った舟)の部材が出土し、大型の舟が旧利根川の下流部を行き交っていた状況が明らかになってきました。また、百済など朝鮮半島で作られた土器もここに持ち込まれていました。
今から約1500年前の隅田川にも、様々な形をした大型の舟がヤマトや朝鮮半島の物資を積んで、行き来していたのです。
古代や中世の人々は、隅田川をなんと呼んでいたのでしょうか?平安時代に書かれた「更級日記」や鎌倉時代の「とはずがたり」によれば、土地の人々が川を「あすだ川」(「あ」は接頭語なので「すだ川」と同じ意味)・「すだ川」と呼んでいたと書かれています。
そもそも「すみだ川」という言い方は、「伊勢物語」以来、都人が和歌を詠む時に使う、上品な言葉使いとされていました。実は、「万葉集」などに見える奈良時代の「すみだ川」は、紀伊(きい、和歌山県)と大和(やまと、奈良県)の国境を流れる、紀ノ川(きのかわ)の上流部を指していました。
そのために、都の歌人たちは、歌の名所(歌枕)としての「すみだ川」が、どちらの川を指すのか、混乱を起こしてしまいます。鎌倉時代の歌の本には、こうした歌枕の所在地をめぐる論争が書きとめられています。
この都人の論争は、鎌倉時代の末から室町時代にかけて決着がついたようで、最終的には東京の隅田川に軍配があがりました。
その後、この歌枕論争の影響で、ついに地元の人々にも「すみだ川」という呼び方が定着し、古代から中世初期のころの「すだ川」という呼び方は、次第に忘れ去られてしまったのです。和歌という都の文化が古代東海道を通じて、隅田川にも到来し、川の呼び方自体も変貌をとげたというわけです。
在原業平が主人公の「伊勢物語」、菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)が記した「更級日記」、そして梅若丸が登場する謡曲(ようきょく)「隅田川」。古代・中世の文学作品や伝説には、隅田川の渡し場を舞台にしたものが数多くあります。
貴族たちの和歌の中には、はるかかなたの都で隅田川の風景を想像して創作したものもありますが、実際にこの地に旅して作品を作った都人たちも大勢いました。
なぜ彼らは、都から遠く離れた隅田川を舞台にした作品を、数多く作り出すことができたのでしょうか?この謎を解くには、古代・中世の時代、隅田川流域を通過していた交通路を復原していく作業が必要になります。
墨田区の北方に位置する足立区の伊興遺跡(いこういせき)から、「延暦(えんりゃく)」という平安時代初期の年号を記した木簡(もっかん)や、祭祀(さいし)遺物などが多数出土し、足立郡の官衙(かんが、役所)との関連が指摘(してき)されています。この地には、奈良時代後半から平安時代前期にかけて、隅田川をその下流部とする旧利根川筋の水上交通の拠点施設があったと考えられています。
伊興遺跡が栄えた奈良時代後半から平安時代の初めごろ、「続日本紀(しょくにほんぎ)」という史書に、足立郡司(ぐんじ、郡の長官)の武蔵宿禰(むさしのすくね)氏という豪族(ごうぞく)が、隅田川を含む旧利根川筋に強大な勢力を振るったことが書かれています。また武蔵宿禰氏は、川神の祭を執(と)り行い、堤防修築の土木技術をもっていたことが、様々な史料に出ています。
旧利根川筋の祭祀遺跡であると同時に、足立郡司の支配拠点の一つと考えられる伊興遺跡と武蔵宿禰氏のかかわりは、隅田川の古代史を知る上で大変興味深い問題です。古代東海道は、ちょうど武蔵宿禰氏が活躍した奈良後半から平安初期にかけて隅田川を通過するようになったわけですから、武蔵宿禰氏が東海道の設営にかかわった可能性も出てきます。
川の流れが地形を変えた
江戸時代以前、墨田区は東京湾に面していました。しかし、その海岸線の位置については、現在もさまざまな議論がなされ、はっきりした答えはわかっていません。今回はある土器の発見により注目が集まる、古代の隅田川東部の海岸線の位置と、隅田川河口部周辺に存在したと思われる島について、一つの考えを紹介したいと思います。
墨田区は、江戸川や隅田川などの大河川が流れる東京東部低地という低地帯の一部です。そのため、川が運んでくる土砂の堆積や海水面の上昇・下降により、川や海岸線の位置が変わり、人々の生活できる陸地は時代により大きく異なっていました。
古代の海岸線はどこにあったか?
かつて、古代の東京東部低地は海中だったいう考えがありました。しかし、各地で実施された発掘調査の結果、東京東部低地が海中だったのは縄文時代のことで、少なくとも古墳時代には、人間が居住できるほど陸地化が進んでいたことが明らかになっています。
古墳時代の遺跡は、微高地という、自然堤防や砂州などの周辺よりわずかに高くなった土地に分布しています。こうした微高地は河川の縁辺や海岸線を中心に発達するので、遺跡と微高地の位置をたどっていくと、古い時代の川の流路や海岸線を復元することができます。こうした方法により、最近、隅田川東部び古代の海岸線についても、次のような案が出されています。それは、現在の首都高速道路向島ランプ付近が隅田川の河口に当たり、そこから東南の方向に十間橋(押上一丁目と文花一丁目の境)付近までの海岸線が走り、十間橋から東は、今の北十間川が海岸線の位置にほぼ重なる、そして昔の隅田川河口部(向島ランプ付近)の南側(向島・本所付近)にはデルタ(三角洲)が形成されていた、というものです。
両国で発見された土器が語るもの
この説の可能性を高めたのが、資料館1階に展示してある、今から1500〜1700年前頃の古墳時代の壺型土器です。これは、昭和58年(1983)8月に、横網にある国技館の敷地から発見されたものです。ご覧いただければわかるとおり、土器はほぼ完全な形を保っています。このことから、隅田川上流から流されてきたというよりも、国技館の付近にこの土器を使用した人々の生活の場があったと考えられます。また、国技館の周辺には微高地も発達しています。つまり、古墳時代の国技館付近に、隅田川河口部南側に位置する陸地の存在が推測できるわけです。
牛島が古墳時代あった?
中世になるとこの河口部には「牛島」という島が存在し、島内には現在「なで牛」で有名な牛嶋神社が建てられていたことがわかっています。しかし、この島がいつ形成されたものなのかは、はっきりしていません。国技館から出土した土器は、「古墳時代の牛島」の存在を予感させるものとなっています。 |