隅田小学校 (墨田 5−49− 5)
名
前 就
任 退 任 隅田小学校校歌 ●●正福寺(真言宗智山派・蓮華寺の末寺、隅田2丁目6番地)には、いくつか話題がある。正福寺は通称「ねこ寺」と近所ではいっていた。2、3代前の住職(大塚伝雅和尚は国学者で、猫が好きでいつでも30匹位の猫を飼っていた。 ●●成林庵(臨済宗妙心寺派・湯島麟祥院末で本尊釈迦如来、墨田2丁目11番地)は数少ない尼寺の一つである。享保元年(1716)の開基で、「葛西志」によれば、尾張徳川家が初代尼僧常林尼に厚く帰依して、境内地など寄進したと伝えている。寺宝に尾張徳川家より寄贈されたという三葉葵紋の什器、硯箱など数多く保存されているということである。戦災で周囲は皆焼失したのに成林庵だけ残ったのは不思議なくらいである。 ●●円徳寺(曹洞宗・本尊薬師如来、墨田5丁目42番地)には、区登録文化財・寛文12年(1672)の石造庚申阿弥陀像が珍しい。区内で一番高い2メートル以上もある大型のもので、三猿を彫り出した台座に舟型光背を持つ阿弥陀立像はみごとである。寛文12年というと明暦の大火後15年、江戸初期の隅田村に住んでいた人々の名前が27人刻んである。 ●●多聞寺は隅田川神社の別当寺であった。別当寺とは、奈良時代から始まった寺院運営制度で、我国固有の神の信仰と渡来の仏教信仰を融合した神仏混淆(こんこう)の考えから、神社に同じに奉られた寺院をいう。 ●●稲荷神社(墨田2丁目3番地)がある。梅若小学校の校門を出て右(北方)へ50メートル先、堤寄りに鎮座している小社である。別名「火伏の稲荷」といい、大震災のときも戦災のときも付近まで焼けてきたが、この近くで火が止まって無事だった。 南葛飾郡の被害 人
口 死
者 行方不明 ケガ人 そ の
他
明治から大正・昭和へと、工場が次々と建てられました。工場で使う水や物を運ぶのに都合のよい川があることと、安く買える土地が向島に多くあったためということです。隅田の村の田や畑は減り、たくさんの人が住むようになりました。 鐘淵紡績 隅田川神社 若宮八幡神社 鐘ヶ淵 木母寺 梅若塚 荒川放水路 ■
江戸で2番目に古い七福神めぐり ■茅葺き屋根の山門が目印の多聞寺 ■ 白鬚神社の名前から寿老神に ■ 隅田川七福神の母!向島百花園 ■長命寺の名付け親は徳川家光 ■ 勝海舟も参禅した弘福寺 ■ 三囲神社の名前の由来はきつね
開校 明治16年 6月 1日
校地面積 6601u
通学区域
隅田2丁目6番〜14番、
35番5号〜8号、
37番、
39番4号〜10号、
40番〜43番
隅田5丁目全域
鐘淵中学校へ
あゆみ
閉校式典
121年の歴史に幕を閉じる〜
2月26日(土)
閉校お別れ会
隅田小学校は今年度をもって閉校します。
4月からは隅田第二小学校と統合し、新たなスタートをします。
閉校
歴代校長
初代
鶴岡角太郎
明治16年
明治18年
2
渡辺鈴太郎
18年
20年
3
三宅清次郎
20年
24年
4
源間 友雄
24年
25年
5
佐藤 運吉
25年
25年
6
田口 兼吉
25年
27年
7
矢野 政弘
27年
30年
8
酒井 愛知
30年
30年
9
三宅清次郎
30年
44年
10
中村 巽
44年
大正 8年
11
加藤 直三
大正 8年
大正 9年
12
篠崎 勘助
9年
昭和 2年
13
田中鷲五郎
昭和 2年
10年
14
望月 正治
10年
17年
15
相楽 邦三
17年
21年
16
寺田栄次郎
21年
26年
17
伊藤平八郎
27年
31年
18
土屋 勝司
31年
36年
19
鎌田 歳
36年
39年
20
伊藤 照孝
39年
42年
21
浅沼 義信
42年
45年
22
木下 邦茂
45年
48年
23
橋本 重紀
48年
53年
24
木匠 顕一
53年
56年
25
赤羽栄四郎
56年
57年
25
菊池 弘
57年
年
学校選択制度
区立小中学校への学校選択を予定している希望者は、
『希望選択票』の必要事項を記入し、自ら希望する学校
へ直接または郵送して申し込む(11月14日まで)。通学
区域内の小中学校への希望の場合は必要なし。
平成16年度 60名
伊藤平八郎 作詞/小堤貞治 作曲
1 あしたに芙蓉 仰ぎつつ
のぼる朝日の かげさせば
隅田のつつみ きりはれて
ああこれ清き 学び舎の
育む我等の 姿なり2 文化の都 大東京
平和の使命 なお重き
学び舎隅田の 名とともに
かおる心と このからだ
ああこれ清き 学び舎の
育む我等の 姿なり
下の道
墨田区で一番古い道の一つではないかといわれている道が墨田1、2、5丁目の墨堤通り沿いにある。墨田1丁目墨堤通りの白鬚公園交番脇から下へ降りる道である。その道は梅若小学校の前を通り、正福寺前を過ぎ、古代官道東海道・下総街道と交差し、更に鐘ヶ淵通りを越え、多聞寺の先の荒川放水路土手まで延びている。この道が「下の道」と呼ばれる。「鎌倉街道下の道」である。
荒川放水路が出来る前は堀切菖蒲園の横を通り、南綾瀬あたりで旧陸前浜街道分道に入って亀有を抜け葛飾新宿で二手に分岐して、一つは水戸街道へ入り松戸、水戸へ。
もう一つは市川へ行く道となる。徳川家康が江戸に入府し、千住大橋を架橋し、千住を起点にして日光街道、水戸街道を開設する以前からあった古い道であると思う。恐らく平安時代の作・更級日記で菅原孝標の女(むすめ)が父の任地上総から帰京する際、江戸川を渡り松戸から隅田川へ出た道は、松戸〜金町〜亀有〜堀切〜多聞寺前〜水神のコース、即ち、下の道と同じだと思われる。
この道は土手道の中にあるからか・・・・・、地元の人は通称「中通り」とも呼んでいる。鎌倉街道下の道という名称が出てきたところで、鎌倉街道について簡単な知識を「日本史広辞典」(山川出版社)を引用して要約披露したい。
鎌倉幕府成立により鎌倉が政治の中心地となり、各地から御家人が鎌倉へ向う道ができた。鎌倉街道の道名は各地にあるが、特に関東北部にまで至る上道・中道・下道が主要な道で有名である。
上道は別称武蔵道、3道の内最も西に位置し、町田〜府中〜所沢〜町屋〜嵐山〜花園〜高崎と、信濃の国へ通じる。源頼朝が下野国に狩猟に赴(おもむ)くときに利用したといわれている。その後、上野国の武将新田義貞が鎌倉攻略で南下の際、通行し、府中市多摩川の分倍河原の戦いがおきた。
中道は上道と下道の間に位置し、荏田〜二子〜岩淵〜岩槻〜古河〜小山へ。頼朝が奥州平泉攻めの時通行した。
下道は最も東を通り六浦〜金沢〜菊名〜大井〜大手町〜鳥越〜浅草〜橋場〜隅田から、下総国へ向う。(「日本史広辞典」より)
向島の地は隅田・寺島辺りから陸地化されてきたことは、近年の歴史地理学的な方法による調査で明らかになっている。その後、徐々に陸地も広がり、人が住むようになり生活する上に必要な道が自然発生的に出来てくる。やがて、その道が地域から人・物を運び、文化を伝える街道として歴史上に登場するようになる。「下の道」はそのように古代まで遡ることができる道である。
その成り立ち過程は、向島地区を含む葛西地域は東京東部低地の中にあり、西は上野の山がある武蔵野台地、北は大宮台地、東は松戸・市川にかけての下総台地に囲まれて、かっては東京湾の海の下にあった。それが利根川諸流、荒川、入間川の氾濫と堆積作用によって陸地化が進み、三角デルタ(牛島)が出来る。特に利根川諸流、荒川、入間川がぶつかる鐘ヶ淵や水神様の辺りの地点は河川の氾濫が引くと自然堤防が残り、島(寺島)や砂洲(洲田)、排水不良の湿地帯が分布するようになる。次第に東京湾の海岸線も南部に下がって陸地(島)が増えてくる。
やがて、葛西地域としては、古代の正倉院文書に、養老5年(721)「下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」として葛飾・江戸川地域が歴史上に出てくる。次いで承和2年(835)の太政官符(官報)には「武蔵下総国境住田河4艘」という文面で隅田河岸のことが出てくる。
源頼朝が挙兵し船橋を繋いで軍政を渡した中世に入ると、伊勢物語、更級日記、吾妻鏡、梅若丸伝説等々で頻繁に「住田の渡し」が登場してくる。住田というのは、「洲田」とも書き、このうち中川(綾瀬川)を経由したものが隅田川で、もう1本が市川の方へ流れた太日川(ふといがわ)『江戸川』である。墨田区付近は古隅田川である綾瀬川と入間川が落ち合う河口にあたり、大きな低湿地が形成されたのである。
近世江戸に入ると、徳川幕府による利根川の本流を銚子に移して太平洋に落とす利根川東遷、荒川を入間川筋に瀬替えする西遷など河川改修工事が大規模に行われた。中川は単なる排水河川となり、綾瀬川も灌漑用水化した。葛西地区の低地帯も比較的安定し、干拓による本所・深川の新土地造成(新市街地開発)、向島地区の新田開発も目覚しいものになった。
というわけで、向島は古い土地柄で、古代・中世の昔から歴史史料に現れ、そこに最初に表れた道が「下の道」であるという。墨堤上にも土手上の古い道、荒川堤があった。これは江戸時代に入って幕府が洪水で溢れた水を周りに逆流させるため逆八の字形に対岸の日本堤と共に築堤させたものだが、現在の墨堤通りを作るときにその堤上の道は消滅してしまった。
その道筋は熊谷堤まで今も続いているが・・・・・。それだけに「下の道」は今では貴重な存在になっている。地元にとっては、先祖の足跡が残る大事な道。だがこの「下の道」も、現在は墨堤通りの裏道のような形になり、地味な存在になっている。お正月の七福神詣での時に、いくらか賑わう程度である。
「下の道」は、「鎌倉街道下ノ道」として浅草〜橋場〜隅田〜堀切〜青戸〜金町〜松戸〜柏ルートの一部を構成する道であり、後の水戸街道の基となった道であると書かれている。また、成林庵(墨田2丁目11番)の手前で、隅田川神社からくる道(古代の官道・旧東海道)と交差している。交差して右折、交差して東行していく道が古代官道東海道・下総道(千葉街道・立石〜小岩〜国府台)である。これが源頼朝の挙兵時に数万の兵を引き連れて通ってきた道である。
一方、墨田区史では、隅田川神社から南にかけての地、古い渡津(渡し場)であることは確かで、官道はここを通過し、水駅があり、官設の渡船が常時用意されていた。
源頼朝もここから武蔵の石浜(後に橋場というようになった。花川戸から橋場への道も古代東海道である)に渡ったと思われると記している。白鬚の渡しから橋場へ渡河したのか、水神の渡しから渡河したのか、或いは、数万という大軍が渡河したというからには両方を使ったのかも知れない。
その辺の判断は昔のことであり、多少説が分かれるのも止むを得ない。いずれにせよ、「下の道」は古い地図には必ず出ている古い道であることは間違いない。
治承4年(1180)源頼朝が隅田宿に着いてからの話に、緊迫した挿話があるので紹介しましょう。10月2日に源頼朝が隅田宿に着いたとき最初に参陣したのが、中世関東の豪族葛西清重と、その父豊島清光である。
そのうち頼朝の乳母・寒河尼(さむかわに・宇都宮宗綱の娘で小山政光の妻で剃髪していた)も息子(後の朝光)を頼朝に奉公させるため連れてきた。対岸の江戸重長氏は8ヶ国の大福長者、簡単には頼朝側に参陣の意志はない。同族のよしみで葛西清重が仲介するがなかなかうまくいかない。京都から平家の軍が迫ってくる。
緒戦では江戸氏は平氏に加担して、石垣山の合戦で頼朝を安房に落ち延びさせている。その時、頼朝軍の三浦義明を滅ぼしていた。その子三浦義澄が頼朝陣営にいるのが実は気掛かりな存在だった。しかし、最終的には、葛西清重は江戸重長と三浦義澄の両者の説得に成功した。
10月4日には江戸氏は、畠山氏、河越氏ともに隅田宿に参陣してきた。「義経記」には、江戸重長は水軍力を総動員し隅田川に浮橋をかけて無事渡河させたと記録されている。関東武士団はまだ地方豪族の集まりで、天皇家の血筋を引く源頼朝を棟梁として、その統率力を求め従わざるを得ない事情もあったのである。
更に、歴史的なことをいえば、「下の道」は常陸国北部に勢力を保持し、平氏と組んで頼朝を圧迫し続けていた佐竹秀義追討のため、頼朝は治承4年(1180)に常陸へ向け、この「下の道」を進軍したといわれている。また、その後、戦国時代には市川国府城に立籠もる里見氏を攻略するために、小田原北条氏が天文7年(1538)、第1回国府台合戦のとき使用した道でもあった。
また、「下の道」は水神様のある隅田宿から墨田2丁目8番地で左折し多聞寺前を通り、綾瀬川を渡れば足立区千住へ行く道・綾瀬新道〜牛田道でもあった。
明治13年迅速測図、同42年測図(大日本帝国陸地測量部)をみると、荒川放水路は未だない。多聞寺の先を直行すれば堀切へ行く。その手前で左折する道がある。それを行くと綾瀬川を渡り、牛田へ行く道は古隅田川の土手道である。その道は南葛飾郡全図(38年発行)では綾瀬橋道となっている。この道は今は消えてない。
東武鉄道の牛田駅と京成電鉄(成田線)の関屋駅が並んでいるが、古代この辺は川が安定せず、あっちに行ったり、こっちに来たり、綾模様に入り乱れていた。その名残が今でも牛田、綾瀬の街にはある。
古隅田川(綾瀬川)は武蔵と下総の国境であり、足立と葛飾の郡境でもあった。墨田と牛田には国と郡の「関所」が置かれていたので、この地域に関屋の里という名前が残っているともいわれている。
ところで、この道は旧陸羽街道、現在の日光街道に交差するわけだが、それを越えて行くと、旧街道・大師道に入り鎌倉時代には既に集落のあった千住元町(元宿)へ。さらに西新井橋を渡り、梅田街道〜島根〜六月〜舎人〜川口〜鳩ヶ谷と続き、旧日光御成街道で浦和〜大宮〜旧中山道で桶川まで行く。
頼朝の挙兵時、隅田川渡河に手間取っているとき、真先に参陣した小山にいた乳母・寒河尼が江戸氏領内を通らずに墨田宿にきた道は恐らくこの道であろう。
ゆっくりこの道を歩くと、ちょっと道を入ったところに昔風の奥ゆかしい家があったりする。さすがは古い道だなと思うこともある。墨田2丁目17番地、鶴岡家の黒光りする質屋蔵(戦災で焼けたが何らその痕跡を残していない)、墨田5丁目10番地、勝田家、同12番地真船家の古い家屋は、昔この道が街道であったことをうかがい知る手がかりになる。
昭和の初期まで隅田町役場(昭和7年10月1日以前は隅田村役場)が現在の富士タクシーのある場所(墨田5丁目10番6号)に、入口を「下の道」に向けて建っていた。大正時代までは「下の道」は裏街道ではなかった。
噂では猫語が話せるということで有名になり、なんでも、猫が「どこそこのお婆さんが何日に死ぬ」といったのが分かったとか、いつとはなく猫寺といわれるようになった。仕事にして猫のため浅草山谷堀のうなぎ屋へ、うなぎの頭を買いに行ったという話がある。寺の入り口左側に、首塚地蔵がある。なぜこんな名前がついたのか。
天保の頃(1830〜43)隅田川で壁土を取っていたところ、4斗樽が5つ発見され、中に髑髏(どくろ)が詰まっていた。これを当時の住職が引き取って地蔵尊をつくって供養したとのことである。室町時代、新田義興と足利尊氏が戦った石浜合戦時(1352年)の首か、それとも何かあるのか不詳であるが、首から上の病気には効きめがあるそうである。
また、この寺には区登録文化財で都内でも一番古い板碑(石製板状の卒塔婆の一種で死者追善生前冥福の祈願のため作った。鎌倉・室町時代、関東地方に流行った。
「日本史広辞典」には、在地領主層の造立したものが多いと記している)鎌倉時代の宝治2年(1248)と銘したものが、門を入り右側庫裏(くり)の前に立っている。結構大きい秩父産の青石(緑泥片岩)で、これは木母寺の近くの御前栽畑から出土したものと伝えられている。
この道の梅若小学校付近にかけては数基の板碑が出土している。これをみても向島地区は古くから荒川流域の秩父系関東鎌倉武士団の地縁も考えられる地であることを示している。
須田宿といわれた官営の渡し場があった重要な場所だっただけに、古代・中世の頃、既にこの道の周辺には大いなる町並みと人口があり、商業活動も盛んな繁栄していた土地であったことを証拠立てている。隅田川神社の宮司であった八掛方雄著「隅田川叢誌」にある須田千軒宿の伝えも十分現実性がある。
隅田地区で明治16年(1883)最初に出来た小学校の跡地が、成林庵を出て墨堤へ向うすぐ四つ角の左側、下の道の東側(墨田2町目13番地)になる。「隅田町誌」(隅田町役場発行)によれば隅田村には既に明治6年(1873)に小学校が開校していた。墨陀(すみだ)小学校という名称で多聞寺内に隅田、若宮、堀切、善左衛門、小谷野の五ケ村組合立であった。明治13年まで継続したが、同年2月28日寺島小学校に合併することになった。
その後、明治16年になって、隅田小学校と称し民家の平屋を借りて開校したのが現在の墨田2丁目13番地である。明治18年には隅田村1,545番地の木母寺の前の土手道に接した場所に移転し、また、明治22年には若宮神社社地を借り入れ校舎を新築したこともあったが、明治36年になってようやく現在地を買収し、新校舎を新築し内容外観ともに。整えたものである。
朱の山門が目立ち、赤門寺と地元ではいっている。「葛飾郡全図」には「下の道」は円徳寺から旧綾瀬川までの間は「円徳寺前道」と書かれている。
多聞寺は元隅田川神社の近くにあった。隅田川神社の御神輿倉が多聞寺境内にあり、隅田のお祭りで御霊を神輿にお迎えする儀式があるのは今では珍しい。(明治維新の神仏分離以後は別当寺ではない)多聞寺については七福神であまりにも有名なので、ここであまり語ることもないが、江戸期の区内最古の木造建造物である山門・茅葺切妻四脚門は取上げなくてはなるまい。関東大震災にも戦災にも焼失を免れた。境内正面にあるので、道からもよく見える。勿論、区登録文化財である。
この社の創立年代はわからないが、天保2年(1840)2月3日と書いた幟(のぼり)を社の奥より発見、今、鶴岡家の家宝になっているそうである。そのせいか、鶴岡家の蔵は戦災で焼けたが、内外ともに全然影響を受けなかったのではないか・・・・・・・・・・。
「下の道」も、土手上の道が墨堤通りという立派な大通りになり、ほかにも自動車道、連絡道が増えたので、今はすっかりメインから外れてしまった。しかし、荒川放水路が出来る前までは、地元だけ出なく、古代から継続してきた街道・主要道だったのである。
平安時代康平2年(1059)成立の「更科日記」に上級官僚上総介であった父の任地(上総の国『千葉県』)から帰京する菅原孝標女(すがわのたかすえのむすめ)が綴った紀行文が残っている。
江戸川を渡って松戸(松里)に来たことは記録上確実なのだが、その後、立ち寄った竹柴寺の所在がハッキリせず、また、在五中将(在原業平)が「いざこと問はむ」と読んだ''あすだ河''または''すみだ河''という川を渡ったという記録がある。
ところが、それに続いてこの川を渡って相模の国に入ったという記述がある。いろいろ論議を呼び、未だに結論が出ていない。40年以上も前を回想して書いた文章だけに、その辺の記憶は曖昧(あいまい)になったと思う。松戸から隅田川を越えて武蔵国に入ったとすれば、須田の渡しに違いないと思う。
「下の道」は、墨田に残る歴史の道であり貴重な遺産である。歴史のなかに地元の人間が建物が何代にも、わたって関わりあってきた離れ難き絆、かけかえのない価値がそこにある。その保存は文化の保存、環境の保存にもつながる。何時までも大切にしていきたい。
隅田村
隅田村は、田や畑が多く、ところどころに農家がありました。1890(明治23年)頃には、およそ130軒の家があり、ほとんどが農業をしていました。
今のような学校が、未だなかた頃、子供達は寺子屋で勉強していました。寺子屋での勉強は「読み書き・ソロバン」といって、本を読むこと、字を書くことと簡単な計算でした。今の学校のように音楽や図工や体育などはありませんでした。
1873年(明治5年)に、学校制度が定められ、明治6年には「墨陀(すみだ)学校」が多門寺内に設けられました。その後、「墨陀(すみだ)小学」になり、一時、「寺島小学」に併合去れました。
しかし、1883年(明治16年)には、「寺島小学」から分かれ、公立隅田小学校となり隅田村地域の子供たちも新校に通いました。当時の学校は、木造平屋建の校舎で、村の人たちが提向外野(つつみむこうや)と呼んでいるところにありました。
田んぼの渕に校舎が建っているという風景だったということです。子供たちは、つんつるてんのかすりの着物を着流し、すり下駄スタイルで学校に通いました。石板(薄い石で出来た黒板のようなもの=石のノート)と石筆(細長い、ろう石のようなもの=石の鉛筆)その他の学用品を風呂敷包みにして、背中に背負って行きました。
子供たちの遊びといえば、鉄ゴマやメンコぐらいしかなく、竹馬などを作って遊びました。家では、子守りなどの手伝いました。
明治28年に隅田村尋常高等小学校入学した頃は、学校のまわりは、田んぼで、実りの秋には、授業中、教室の窓からイナゴが飛んで来た事さえありました。美しい自然に恵まれたよい環境で勉強でき、なつかしく思います。
バッタ取りや兵隊ゴッコ、ねっきり棒(木を土に刺し、相手の木を倒す)という遊びをしました。また、多門寺の縁日(毎月10日)に、よく駒を買いに行きました。夏になると、今の荒川の中ほどに新川という川があって、そこでよく泳いだものです。
1899(明治32年)に東武鉄道によって、北千住〜久喜間が開通去れました。さらに、明治35年4月には、千住から今の業平橋まで延長されました。今の鐘ヶ淵駅もこの時出来ました。
煙を吐いた小さな蒸気機関車が、小さな客車を3両ぐらい引っ張って、田んぼの中をコトコトユックリ走って行きました。学校から帰って、汽車を見に行くのも楽しみの一つでした。1日1便だけでしたので、利用する人は少なく、学校へ通う人が殆どでした。
電車の他に、船が原料や製品の輸送に大切な役割を果していました。1907年(明治40年)、千住吾妻汽船会社が出来ました。
鐘ヶ淵〜小松島(今の白鬚橋のたもと)〜言問〜吾妻橋の間を約1時間かけて通っていました。この蒸気船は、1913年(大正3年)白鬚橋ができた後も、昭和10年頃まで通っていました。
「1銭蒸気」とか「ポンポン蒸気」とかのあだ名がつけられ親しまれてきましたが、陸上交通が発達するに従い、姿を消してしまいました。
墨田の町は、古くから隅田川と大変深く結びついています。橋のなかった頃は、渡し舟が通り水上の交通路として利用されました。人々は釣りをしたり、泳いだり、舟で遊んだりして楽しみました。
しかし、この辺りは、もともと土地が低く、潮の満ち干や大雨のために、たびたび水害に遭いました。江戸時代、それまで東京湾に流れ込んで大きな水害を与えていた利根川を東の方に大きく流れを変えて、太平洋に直接流すようにしました。そのために、利根川の水で水浸しになる事少なくなりましたが、もともと、自然に流れていた川の流れを人間の力で変えたのですから、いったん土手が切れると、江戸に向ってその水が押し寄せ、大水害になりました。
今から約300年ぐらい前、隅田川の洪水を防ぐため、大堤が築かれました。その後約120年ほど経って、堤が更に高く盛り上げられました。この時、さくらの木なども植えられましたが、何回かの洪水のため、殆ど枯れてしまいました。
明治、大正年間の洪水による水害は、10回にも及んでいます。中でも、1910年(明治43年)の大水害は、利根川と荒川の氾濫が、最も大きいものでした。物凄い速さで水が増えていき、向島の土手の外側の家は、すべて床上浸水となりました。向島の東から亀戸一帯にかけて、見渡す限り、泥海となったということです。
1923年(大正12年)9月1日正午ごろ、東京を中心に関東一帯にとても強い地震が起こりました。ちょうどお昼ご飯の支度をする時間だったので、火が消せないでたちまち大火事になってしまいました。横網では、竜巻が起り「被服廠跡」に避難していた人々に火が移り38,000人もの人が焼け死んでしまいました。
向島では、火事はほとんどなく、家が倒れたり、壊れたりした被害がありました。いまの梅若小学校の辺りは家が余りなく、寺島の方から避難する人がいたということです。とても強い地震で、振りまわされるような幹感じで、とても立っていられませんでした。幸い火事にはなりませんでしたが、倒れた家から飛び散ったガラスの破片で切り傷をした人が大変多かった。余震がおさまるまで何日も続きました。
折しも、2学期の始業式の日で朝からどんより曇っていました。式も終わり校庭でそのまま遊んでいたり、帰り道で地震にあったり、木の電信柱に泣きながらつかまり静まるのを待っていたり、腰が抜けて四つんばいになってもがいていたり、とにかく駅前の広場に無我夢中でたどり着き家族とあえて一安心しました。
デマも広がり「井戸水を飲むと死ぬ」とか「人が殺されている」とかいうデマは子供心にも恐ろしいものでした。
238,100人
412人
121人
847人
54,173人
明治の頃の隅田村は、ほとんどが農業をしていましたが、1914年(大正4年)には、農業人口が120〜130人いるほか、工業人口が2,000人もいるようになりました。
大正12年には、家が3,000軒、人口が17,000人となって隅田町となりました。田や畑はドンドン減り、1932年(昭和7年)には、農家は1軒もなくなりました。
隅田小学校の児童数も1890(明治23年)は56人でしたが、明治36年には457人に増えました。
1922年(大正11年)には1,855人になり、大正15年には2,579人になりました。学級数も44になりました。このころの隅田小学校は、たくさんの児童がいて、朝礼の時、校庭が一杯になりました。一教室60人近くの組もあり、まさに、すし詰めでした。でも、みんな元気に勉強した。
明治に入ると、都市近郊には住宅や工場が建設されていきます。とくに大工場は水運の便や豊富に使える水を求めて河川沿いに建設されました。堤通に建てられた工場の中でも鐘淵紡績(かねがふちぼうせき)は明治22年(1889)に開設され、会社の名前もこの一帯の鐘淵という地名からつけられたものです。現在はカネボウと社名を変え、工場も閉鎖されていますが、会社の住所は墨田区に置かれています。
一名、水神とも呼ばれ、人々に親しまれ、信仰されています。よほど古くから在ったと見えて、平安の終わり、源氏の大将、源頼朝が、まだ、関東にいた時、この神社に参り、武運を祈ったと伝えられています。その時、ここは、隅田川の中の島(洲)で、浮島と呼ばれて、浮島神社といわれていました。
その頃の人々の楽しみは、祭りでした。隅田川神社(水神様)のまつりは、その頃から6月14・15日でした。
水神の名は、隅田川を上り下りする舟人達の守り神として、近くはもちろん、遠くの人々にも名を知られたいました。
祭りの日になると、神輿を舟に積んで、隅田川を練り歩き、水神の祭りに来たそうです。今でも同じ頃にまつりが行われています。
水神様の近くに「水神の渡し」があり、南千住の方へよく行っていました。小松島の乗船場から蒸気船が出ていて、川下の吾妻橋のほうにも行っていた。
大正の初めには、有料の白鬚橋ができました。いつも、二人のおじいちゃんがいました。関東大震災まで続き、毎日渡る人は回数券を利用すると、1銭のところを8厘で渡れました。
元若宮15番地にありましたが、荒川放水路の敷地になりましたので、今の隅田川神社に一緒にまつられています。
若宮村に、何時まつられたかは、よくわかりませんが、1000年ぐらい前からの古い社だったようです。
元名元年、隅田川のほとりに普門院という寺がありました。この寺が亀戸に移る時、寺の道具や釣鐘を船に乗せて川を渡ろうとしました。その時、誤ってその船が沈んでしまいました。
それから、暫く経って、享保の終わり頃、その頃の人が、川の中に沈んでいることを伝え聞き、数百人の人が、たくさんの綱を持って引揚げ様としました。ところが、水草が生い茂っている中に、、竜が頭から光を発し、その綱がみんな切れ、鐘を上げることが出来ませんでした。昔は、天気のよい日、船に乗ってその水底を見ると、鐘の沈んでいるのがよく見えたそうです。
これが鐘ヶ淵の名のおこりです。
このお寺の本尊(おまつりしてある仏様)は、慈恵大師で、天台宗に属しています。平安期の中頃、977年(貞元2年)に、忠円阿闍梨(ちゅうえんあじゃり)が、梅若寺と名づけて開かれました。地蔵菩薩は弘法大師の作とも伝えられていますし、石碑とか塚などは、大変古く有名なものが多いので、大切な資料になっています。
1189年(建久6年)源頼朝が、奥州征討の時、立ち寄ってお祈りしたとも伝えられています。また、1607年(慶長12年)近衛信平が、梅若寺の寺の名を木母寺(梅よりとる)と改めました。柳の枝で書き記したものがありますが、寺の宝物となっています。
太田持資(道灌)は、寺を造り直し、1590年(天正18年)徳川家康も訪れて、梅柳山と名づけました。
また、3代将軍家光の晩年には、木母寺境内に「隅田川御殿」が造られました。これは、代々の将軍が鷹狩りや舟遊びをする休憩所とされていましたが、実際は幕臣の水泳その他の訓練を統監するときの本営となるのが、主な用途であったとのことです。明治の初め、約20年、梅若神社と呼ばれた時がありました。
木母寺の庭に梅若塚があることは、よく知っていると思います。古くからあって、人々にも、よく知られており、「謡曲」などにもたくさん謡われています。
梅若丸の話は、母と別れて死んでいったという悲しい物語になっていますが、この話に似た話はたくさんあるので、本当かどうかは誰にもわかりません。しかし、次のような事は解ります。
ずうっと古くから、ここは村里があったという事や、隅田川の渡しや通りは、大昔から大きな役目を持っていたという事などです。
さて、寺にある「梅若権現御縁起」によると、梅若丸のことを次のように伝えています。
今より、千年ほど昔、村上天皇の頃、吉田少将推房の子として生れました。5歳の時、父が亡くなり、7歳の時、比叡山に登って勉強しました。けれども、賢い梅若丸を憎む悪者が居ましたので、12歳の時、下山して大津に来ました。ここで、信夫藤太という人買いにだまされ、東へ東へと連れられ、隅田川の近くにきたときに病気になってしまいました。川辺に捨てられた梅若丸は、隅田関谷の人に介抱されましたが、その甲斐もなくこの世を去りました。
里人は、みんな涙を流して哀れみました。たまたま、天台宗のお坊さんである忠円阿闍梨(ちゅうえんあじゃり)が、通りすがりにこの話を聞いて、塚を築いて柳を植えて弔い、梅若寺と名付けました。
あくる年の3月15日、里人が集まってお参りをしていると、気も狂わんばかかりの母が、たまたま、ここへ通りかかり、里人から、探し求めていた、わが子の変わり果てた姿を聞いて、梅若丸の塚に泣き伏してしまいました。
お正月に、1年の幸福を祈願して行われる、すみだ恒例の行事があるのをご存知ですか?迎春を祝い、毎年多くの参拝客が訪れる「隅田川七福神めぐり」です。七福神をまつる各所は、江戸時代から向島を代表する名所として、錦絵にも多く描かれています。そこで、すみだ郷土文化資料館では平成10年12月19日(土)から平成11年1月17日(日)までの間、企画展の第1弾として、この七福神めぐりをテーマにした「すみだの名所―隅田川七福神」を開催します。
七福神の起源や隅田川七福神めぐりのはじまりについてはもちろん、各所の見所についても、「七福神宝之入船」をはじめとした錦絵や資料などで紹介します。すみだ郷土文化資料館に来るみなさんに、七福神のご利益が訪れるかもしれませんよ。
そもそもこの「七福」とは、寿命・裕福・清廉・愛敬・威光・大量を表しています。そして、この七福を神仏聖人に当てはめたものが、七福神というわけです。その始まりは室町時代といわれていて、江戸時代後期には、現在のような寿老人・大黒天・福禄寿・恵比寿・弁財天・毘沙門天・布袋の七福に定まりました。
このような七福信仰が庶民の間に広まるにつれて、江戸や関西ではお正月に七福をまつる寺社を巡る風習が生まれてきました。こうした中、隅田川七福神めぐりは誕生したのでした
隅田川の上流の荒川は、その名のように「荒れ川」で、昔から大雨の度に氾濫し人々は、水害に悩まされてきました。特に、1910年(明治43年)の大雨による被害は大きく、東京の下町一帯が泥水に浸ってしまいました。
そこで、大水から人々の生活を守るため、明治44年に、川幅を広げ、川の流れを変える荒川放水路を作る工事の計画が出来、用地の買取が始まりました。
現在の北区の岩渕から東京湾までの22キロメートル、幅455メートルの土地には田や畑があり、人々が住んでいました。永くその土地で暮らしてきた人々にとって、自分の田畑や住みなれた家を手放して他の土地で暮らすのは、大変辛い事でした。
元若宮村にあった若宮八幡神社も荒川放水路の敷地になり、今の隅田川神社に一緒にまつられるようになったということです。
1913年(大正2年)に、いよいよ工事が始まりました。水路を掘る工事は、最初、シャベルや鍬を使いました。そのうちに、エキスカという、たくさんのバケツのついた機械で掘るようになりました。掘った土は、トロッコに積んで、その土で土手を築きました。毎日、毎日掘っては土を盛り、長い長い土手を作るのは大変な苦労でした。
1930年(昭和5年)19年間にわたる工事が終わりました。
隅田川七福神は、向島百花園を開いた佐原鞠塢の所蔵する陶製の福禄寿に目をつけた、太田南畝や加藤千蔭といった文人墨客たちが、すでに行われていた谷中の七福神をまねて思いついたものでした。
多聞寺の毘沙門天、長命寺の弁財天、弘福寺の布袋尊、三囲神社の恵比寿と大国天、そして白く長い鬚をたくわえる寿老人のイメージから白鬚神社を寿老人にみたてて七福神をそろえ、江戸時代後期・文化年間(1804〜1817)に始まりました。向島の風光明媚な土地柄から、その人気は谷中の七福神をしのぐほどとなります。
明治に入り、一時下火となりましたが、明治31年(1898)に隅田川七福神会が発足。同41年(1908)には、当時向島に住んでいた榎本武揚などが各所に七福神の石碑を建立したことから人気も復活し、都内随一の七福神めぐりとして現在に受け継がれています。それでは「みやこどり」版、隅田川七福神めぐりのはじまりです。
区内最古の建造物として、区の文化財に登録されている茅葺き屋根の山門が目印の多聞寺には、弘法大師作の毘沙門天像がまつられています。
またここには、狸塚といたずら狸の伝説が伝わっています。昔、境内を荒らす狸がいて、困り果てた住職が本尊の毘沙門天にお願いしたところ、毘沙門天に仕える善尼子童子が退治したというお話で、その狸を供養して建てた塚が狸塚です。これにちなんで、境内にはユーモラスな狸の像があちこちにおかれ、俗に「狸寺」ともいわれています。
江戸時代の白鬚神社は、古木の松におおわれていたことから「白鬚の森」と呼ばれていて、近くには茶屋が並び、隅田川や遠くは富士まで見渡すことができた人気のスポットでした。
その美しさから、向島八景や隅田川二十四景にも選ばれました。創建は古く天歴5年(951)、区内最古のお社の一つされています。
本来の祭神が猿田彦命である白鬚神社が寿老人に当てはめられたのは、白鬚という神社の名前と、向島百花園のあった寺島村(現東向島)の鎮守であったことによります。そのため、七福神では寿老神と表します。
文化元年(1804)、江戸の文人であった佐原鞠塢は、寺島村(現東向島)に3,000坪の土地を購入し移り住みます。そして当時交流のあった著名人たちに、梅の樹を一本ずつ寄贈してくれるよう依頼をしたところ集まった梅がなんと360本!これが向島百花園の始まりです。
当時の向島百花園は「花屋敷」や、亀戸の梅屋敷に対抗して「新梅屋敷」とも呼ばれ、春夏秋冬の風情を楽しむ行楽地としてにぎわいました。
園内には、隅田川七福神めぐりを始めるきっかけとなった鞠塢愛蔵の福禄寿尊像のはもちろん、月岡芳年翁之碑や大窪詩仏画竹碑、河竹新七(黙阿弥)しのぶ塚など、多くの石碑があります。国の名勝・史跡にも指定されているすみだを代表する観光スポットです。
寛永年間(1624〜1644)のこと。鷹狩りに来た三代将軍・徳川家光は急な腹痛に襲われ、この寺で休息をとることになります。そして境内にある井戸水で服用したところ、あっという間に回復。喜んだ家光は、その井戸を長命水と名付け、寺の名前も改めさせたというのが弁財天をまつる長命寺の名前の由来です。
残念ながら現在この井戸はありませんが、その由来を記した石碑は残されています。そのほかにも、雪景色の美しさをよんだ松尾芭蕉の句碑や、明治の三大新聞の一つである朝野新聞の社長をつとめた成島柳北の碑など、50を越える碑があります。
弘福寺は、江戸時代に中国から伝わった黄檗宗の禅寺です。比較的新しい宗派なので寺院の数は少なく、区内では唯一です。唐風建築様式で建てられた山門・本堂は威風堂々としたたたずまいをみせています。ここは延宝2年(1674)、石見国出身の鉄牛禅師が建てました。勝海舟が参禅したことでも知られています。
本尊は釈迦如来ですが、七福神めぐりの時には布袋尊もまつっています。このほか、作者である風外和尚の名前から、風邪・咳にご利益があるとされている、咳の爺婆像があります。
商売繁盛の神様として、恵比寿と大国天をまつっているのが、鳥居と石碑の多い三囲神社です。特に墨堤沿いの鳥居は錦絵の題材として桜とともによく描かれています。昔は田中稲荷と呼ばれていた三囲神社、その名前の由来を紹介します。
文和年間(1352〜1356)、近江国三井寺の僧であった源慶が、巡礼中に牛島(現向島)で荒れ果てたほこらを見つけました。源慶は、その荒廃ぶりを悲しみ修復を始めたところ、土の中から白いきつねに乗った翁の像が出てきました。そしてその時、どこからともなく白ぎつねが現れて、翁の像の回りを3度まわって、またどこかに消えて行きました。この故事から「みめぐり」の名前が付いたといわれています。