隅田小学校
古代や中世の人々は、隅田川をなんと呼んでいたのでしょうか?平安時代に書かれた「更級日記」や鎌倉時代の「とはずがたり」によれば、土地の人々が川を「あすだ川」(「あ」は接頭語なので「すだ川」と同じ意味)・「すだ川」と呼んでいたと書かれています。
そもそも「すみだ川」という言い方は、「伊勢物語」以来、都人が和歌を詠む時に使う、上品な言葉使いとされていました。実は、「万葉集」などに見える奈良時代の「すみだ川」は、紀伊(きい、和歌山県)と大和(やまと、奈良県)の国境を流れる、紀ノ川(きのかわ)の上流部を指していました。そのために、都の歌人たちは、歌の名所(歌枕)としての「すみだ川」が、どちらの川を指すのか、混乱を起こしてしまいます。鎌倉時代の歌の本には、こうした歌枕の所在地をめぐる論争が書きとめられています。この都人の論争は、鎌倉時代の末から室町時代にかけて決着がついたようで、最終的には東京の隅田川に軍配があがりました。
その後、この歌枕論争の影響で、ついに地元の人々にも「すみだ川」という呼び方が定着し、古代から中世初期のころの「すだ川」という呼び方は、次第に忘れ去られてしまったのです。和歌という都の文化が古代東海道を通じて、隅田川にも到来し、川の呼び方自体も変貌をとげたというわけです。