梅若小学校

(墨田2−25−1)
開校 昭和10年 6月 8日
校地面積 7,522u



梅若小の第2校庭には、竹林や

校名に因む梅の木が30余本あり
梅ジャムや梅干し作りに取り組んでいる






教育目標

明るくたくましい子
よく考え最後までやりぬく子
思いやりがあり助け合う子


  『梅若』の名は古くからこの地域に伝わる『梅若丸伝説』に由来します。

通学区域

隅田1丁目全域
隅田2丁目1番〜5番、15番〜34番、35番2号、23号、24号、36番、38番、
       39番(除4号〜10号)                            向島中学校へ
35番1号〜4号、9号〜終号(除2号、23号、24号)                 鐘淵中学校へ






校歌

作詩  佐原 正三郎

作曲  富田 み  さ
1・文花のかおり ゆかしくも
  つきせぬなごり 梅若の
  ほまれをおいし 健児らが 
  学びの園に 光あれ
2・若き世代ぞ われらこそ
  正しき心 うけつぎて
  自治と文花の咲きにおう 
  新しき園に うちたてん
3・まこと真理は 一つなり 
  世界平和の 大道に
  愛もて結ぶ 梅若の
  文花の園に 栄あれ







 1936年(昭和11年)1月8日「東京市向島梅若尋常小学校」として開校しました。今の隅田小学校と第2寺島小学校の2校から児童が集り1,322名、24学級で開校しました。
 学校の校名は、昔から有名な「梅若塚」が近くにあることから、「梅若」とつけられました。この学校の土地は、根津嘉一郎という東武鉄道株式会社の社長の別荘があったところで、四方は竹とケヤキの木で囲まれた大きな池や築山があり、四季とりどりの花が咲き、沢山の鳥がさえずり、まるで公園のようだったそうです。その頃の様子を伝えるものは、正門前の大きなケヤキの木で、樹齢150年以上と言われています。学校前の通りは、今より狭く、舗装もされておらず、たまに牛車や馬車が通る程度でした。そして、学校側には、道に沿って狭い川が流れていました。その頃の様子は、幼い弟や妹を、おんぶして学校に来る友達や、給食などはなく、毎日、弁当を持参していました。俗にいう、日の丸弁当でおかずも粗末なもので、「たまご」などが入っていると「ぜいたく」だと先生に叱られることもあった。先生の中には、よそ見や、友達とお喋りしていると鉄拳が飛んでくる事もあったり、担任の先生が休みの時には、みんなが静に自習している教室を抜け出して遊んでいるところを見つかり、大目玉を食らったり楽しい日々でした。また、遠足というと、1年生が、西新井、2・3年生が上野動物園、4・5年生が高尾山、6年生の修学旅行は京都・奈良へ行った。
 段々と日本の国は、中国大陸に兵を進め、沢山の住民を苦しめていました。学校での教育も、次第に戦争につながるような内容に変えられようとしていたところです。いままで、尋常小学校といわれていた学校も1941年(昭和16年)から日本中「国民学校初等科」と名前を変え、それまで以上に戦争に役立つ勉強や訓練をする様になった。同じ年の12月8日には、とうとう、『太平洋戦争』になり、父兄が兵氏として駆り出されました。家に残った婦女子、老人達も、勤労奉仕や隣組の防火訓練などに勢いを出し、戦況に一喜一憂の思いで銃後を守り、だんだんと暗くなる戦に不安な毎日が続きました。これも、国民全体の戦として、誰もが一致団結しなければなりませんでした。学校でも、職場でも、始めの内は満州、中国、インドシナ、南洋諸島と日の丸の印が派手に増えていったが、「教室」では、先生方も「皆さんは大きくなったら工場で生産性向上や戦地行ったら武運をたてなさいと教えられ一生懸命頑張りました。
 しかし、戦況は激しくなり、連合軍が盛り返しインドシナ、南洋諸島と敗退し、日本領土の沖縄が占領されると、日本の都市(昭和17年4月18日)への空襲が頻繁になり「集団学童疎開」始まり学校ぐるみで、梅若小学校でも昭和19年7月10日に「学童疎開」の割り当てが決まる(本所・向島区共に10,000名ずつ)と同年8月15日に450名が常磐線の南千住駅から電車に乗り茨城県の真壁町の雨引駅に着いた。あたりは長閑で、空気や水はとても美味しく、始めのうちは辛くも思いませんでしたが、だんだんと夜になると、さびしくなってきた。アメリカ軍の「B29」爆撃機による東京空襲が昭和19年11月から9ヶ月半、毎日毎晩の様に空から爆弾、焼夷弾(高熱を出して激しく燃える薬品を筒の中に入れたもの)が落とされました。このあたりの下町は昭和20年3月10日に今までにない大きな空襲があり、334機の「B29」が爆弾や焼夷弾を次々と落とし、強い風にあおられて火は、帯のようになって燃え広がり大勢の人達が、災に巻き込まれ力尽きて死だり、川に飛び込んだ人も強い火のため熱湯のようになった川の中では助かりませんでした。僅か、2時間半の空襲で、100,000人以上の人々が命を奪われました。幾日か経っても黒焦げの死体が道路のあちこちに横たわっていました。隅田公園では、大きな穴を幾つも掘り、死体いがが埋められました。被服廠跡の東京都慰霊堂(関東大震災、第2次世界大戦の空襲で亡くなった人たちの霊を慰める為に作られた)の前の庭でも何日もかかって死体を焼きました。この事は2度と繰り返さないと、日本国憲法9条、戦争放棄をうたい、戦後まがりなりにも守ってきました。梅若小学校は焼けずに残りましたが、疎開中の6年生児童が中学校受験の為東京に帰り、多数の死者が出ました。そして昭和20年5月23日に210名が茨城県真壁町から秋田県仙北郡へ2度目の疎開をしました。昭和20年8月6日(広島)・9日(長崎)には世界で始めて、原子爆弾が落とされ、皆さん、ご承知の通りの悲惨な結果になりました。日本をはじめとして、世界各地で大勢の犠牲者を出した戦争も昭和20年8月15日終戦となり、日本は、2度と戦争はしないと平和宣言をしました。昭和20年10月28日には疎開先より帰ってきました。
 戦後は、それまで670万人いた東京の人口も約250万人に減り、新しく出来た墨田区(昔の本所区と向島区)には77,595人しかいませんでした。学校も昭和22年4月1日までは国民学校初等科が「小学校」と名を変え、本校も制度が変わって東京都墨田区立向島梅若小学校となった。遠くの田舎に疎開していた人や空襲で家を焼かれた人々が元の住まいに帰ってきて、梅若小学校も、だんだんと児童数が増えて物に不自由する時代でしたが次第に活気が戻り、都営アパートの敷地で石蹴りや磁石で、くず鉄や釘拾い、水神様の原っぱや土手で相撲を取って日が暮れるまで遊んでいた。授業内容も戦前は、
国語、算数、理科、体操、音楽、地理、裁縫、習字、修身、国史、武道、工作、図画
が、
国語、算数、社会、理科、音楽、体育児童会などとなり、やがて、PTA(父母と教師の会)が生れ、校歌も出来上がり、昭和26年(1951年)には「東京都墨田区立梅若小学校」と改められて、新しく校旗もでき、運動会では、むしろやゴザを敷いて親子で弁当を食べたり、夏休みの夜、無料の映画会に蚊に指されながら見たり、まず、不味かった脱脂粉乳の給食は死んでも忘れません。学級委員が仕切る、児童会があり、活発な話し合いで様々な事が決められ実行するようになった。学校の施設も徐々によくなり昭和30年には創立20周年の記念として、校門が新しくなり、校庭も舗装された。さらに、昭和38年には、体育館が完成し、雨の日も体育が出来るようになった。昭和40年には創立30周年が行われた。
1966年(昭和43年)鉄筋校舎の建設工事始まる。
1967年(昭和44年)第1期分8教室、プール完成(それまで、鐘ヶ淵中学校を借りていた)
1969年(昭和46年)4月、第3期分建設工事が終わり、新校舎完成落成式。
             隅田川沿いの首都高速6号線の工事始まる(光化学スモッグ)注意報出             がたびたび出る。
1973年(昭和48年)1月、第4期分家庭科室、図書室完成。
1975年(昭和50年)「日立」寮跡に第2運動場。11月、創立40周年記念式典。
1982年(昭和50年)「提小学校」開校、本校より97名が移る。
 
行事

 1年生迎える会、七夕集会、クリスマス集会、豆まき集会、運動会、学芸会、展覧会、6年生の移動教室等々。
 お祭で近くの神社のお神輿を担いだり、山車を引いたりするほか子供会のキャンプに行ったり、ドジョウつかみをしたり、「びっくり市」に出かけたりするのも楽しみの一つです。
 塾や習い事(1人平均2つ)も盛んになり、友達同士で遊びたい時、「あそぼうよ」より、「あそべる?」と尋ねることがなってきたようです。
 家に帰っての遊び
(昔)、メンコ・ベーゴマ・ビー球・缶蹴り・チャンバラ・かくれんぼ・竹馬・木登り・凧上げ・魚つり・昆虫とり・三角野球・陣取り・石蹴り・おはじき・お手玉・縄跳び・ゴムだん・マリつき・鬼ごっこ・馬のり・人形・ままごと・etcなど。
(今)テレビゲーム・パソコン・携帯電話・メール・ゲームセンター・自転車・野球・サッカー・マンガ・1輪車・児童館・ケイドロ・動物・おもちゃ・etcなど。

学校周辺

 墨田区の北の方にあります。近くには、車の沢山通る堤通り、明治通りがあり、お店の多い大正通りがあります。また、東武伊勢崎線の走っています。最寄駅は東向島駅(旧玉ノ井)です。
 たくさんの工場もあります。
金属、皮革、ゴム、出版・印刷、パルプ・紙、木製品、衣類、食料品、化学、その他、などの品物を生産、販売しています。
 1982年(昭和57年)、白鬚防災団地(鐘淵紡績、久保田鉄工、一般住宅、工場、商店が立ち退き)ができ、備蓄倉庫・貯水槽を備え、防火シャッター・ドレンチャー・山水銃・スプリンクラー(各戸)・発電機などの設備があり、約8万人が避難でき、団地には約1,850戸、約6,500人が住んでいます。
 この梅若小学校を囲んでいる地域には、下町の様子が沢山残っています。お祭りなど賑やかで、こんな町が大好きです。だからこれから何年たっても下町のいい所が、残って欲しいと思います。でも、この墨田区は、東京の田舎といわれ梅若の子供も少なくなっています。皆に下町のよさを知ってもらって、いろんな人に墨田区へ住んで貰い、下町のよさを残しながら新しい町をつくりたい。これからもこの町に住み、梅若小学校の発展と墨田区の町の変化を見ていきたい。
 小学校が出来る前の、この辺りは大正通りから今の梅若小の方へかけては、蓮田が広がり、葦(よし)が生え茂った湿地帯でした。この辺りは土地が低くかったのか、一度大雨が降ると水が溢れ、縁の下まで水が入ってくる事がしばしばありました。避難の為、梅若小の方へ行った事もありました。
 そこは「東武鉄道」の根津社長の別荘で、少し土地が高くなっていたのでしょう。また、水が引いた後、縁の下にザリガニが、よく居たものです。そして、草の根っこのほうには、ドジョウがひっかかっていたこともありました。そういえば「天理教」前の川のへりには、ベンケイガニの巣があり、雨上がりの時などよく捕まえにいったものです。こんな所ですから、夏になると蚊がたくさん発生し、蚊帳なしでは、とても寝られませんでした。
 関東大震災の後、家がだんだん建てられるようになり、土を掘って運んだため、掘った跡に水がたまり、池となってしまいました。
 そこは、子供達にとって、よい遊び場でした。その頃の子供の遊びといったら、池で泳いだり、川でドジョウやカニを取ったりして、いつも外で遊びました。野球もぼちぼちやりだし「三角ベース」というのをやったものです。
 

        物             の              値               段
年  代 白米10キロ 郵便はがき 理髪料 入浴料 豆腐 アンパン
1935年 2円30銭 1銭5厘 40銭 7銭 5銭 2銭5厘
1945年 6円 5銭 3円50銭 20銭 20銭  
1947年 99円70銭 50銭 10円 4円 1円  
1955年 845円 5円(1951年) 140円(1953年) 15円(々) 12円(1951年) 10円(々)
1965年 1,125円 7円(1966年) 350円(1963年280円) 32円(々) 20円(1961年) 20円
1975年 2,495円 20円 1400円 100円 70円 60円
1985年 3,765円   2800円(1984年) 240円 110円 80円
2002年   50円 4000円 400円    

下茂稲荷神社 
 この、お稲荷さんは、学校前通りの河田豆腐店の隣りにあり、昔、下総通りと上総通りの分かれ道にあったので、下茂稲荷神社といわれています。村の人たちは、火ぶせ稲荷呼んでいたようです。2月の初午には、お参りの人で賑わいます。
 お稲荷さんは、各地にありますが、その本源は、京都伏見の稲荷神社です。もともと、田や畑の神様で、稲生(いなり)とも呼ばれ、多くは、田の見渡せる所や道に社が出来ました。町にあるお稲荷さんは厄除けの神様といえます。 

白鬚神社

 日本三大白鬚明神の一つで、江戸名所図会にも書かれている古い神社です。この神社の祭神は、猿田彦命で、この一帯の守り神として信仰されてきた様です。
 祭りは、疎の頃から6月7・8日に行われていました。氏子(守り神をまつる土地に住む人たち)一堂が、神輿を担いだり、お参りをしたりして楽しみました。5月5日のぼんでん(御幣)の行事も、昔から行われていました。白鬚神社のまつりやぼんでんの行事は、農作物の豊作を祈って行われたということです。
 そのころからの人々の楽しみに、縁日が開かれ所には、かならず、人々がお参りしていた地藏とか、お稲荷とかをまつったものがあります。このお参りの人々を相手に店を張り、楽しませてくれました。
 向島七福神のひとり、寿老神をまつってあり、正月には、参拝の人で賑わいます。古い氏子(図子)制度が今でも残り、図子たちが寄り合って、ぼんでんの行事をやっています。

正福寺

 1602年(慶長7年)、今の所に建てられました。本尊は薬師如来で、新義真言宗に属します。この寺は、一名「猫寺」で有名です。大塚伝雅という人がいました。
 この人は、猫を大変可愛がりました。捨てられた猫を拾い集め、次ぎから次ぎと増えて、30匹になりましたので、お堂といわず、押入とわず、鐘をつければ鐘の中、袖をはらえば袖の中から猫が飛び出る始末になりました。けれども、この猫の中に大変和尚さんの気心をわきまえ、言葉も解るほどの猫がいました。その猫は、今日は、何処かで不幸があるということまで知らせてくれるほどになったそうです。
 この寺には、大変珍しい立派な墓があります。人が死ぬと、いろいろな埋め方をしますが、埋めた上に石碑を建てる習しは鎌倉時代より後に始められました。そのころの石碑で、しかも、板のような石が使われている墓があります。この墓の石碑のことを「板碑」といいます。この板碑は石碑の種類としては珍しく、都内最古のものといわれ、貴重なものです。

首塚地藏尊

 正福寺の玄関口には小さな祠があります。この塚を訪ねる人は大変多く、朝夕いつ見ても線香の煙が絶間なく昇っています。
 徳川幕府の末(今から190年位前)この辺りには、「あらきだ」といって、土壁の原料のドロを川から掘る仕事を職としている人がいました。いつものように、隅田川でドロを掘り起こしていると、鍬の先に頭がかかりました。一つや二つでなく、4斗ダルに4杯も人の首が掘り出されました。あまりの驚きに、さそっく川向の石浜神社へ奉納しました。そして、そこの村の名主さんの許しを得て、隅田村の人が正福寺の近くに葬って弔いました。その昔、南北朝時代(約500年前)に川の向こうで戦いがありました。その時の罪人の首を隅田川原に埋めました。河原はいつか流れを変えて、河原に埋めた首は川のなかに深く埋まってしまったのです。それを隅田村のドロ掘りの人が掘り出したわけです。
 月日が経つにつれて、話も変わり、首塚地蔵尊へお参りすれば、首から上の病気は何でも治ると信じられるようになり、その話が村から村へ伝わり、今でも遠くの方からお参りに来る人がいるのです。頭や首の悪いときは、地藏さんの前掛けをそっと持っていって悪い所へ掛けて祈る人もいますし、目の悪い人が地蔵さんの目をこすってお祈りする人もいるそうです。
 なお、地蔵尊の碑は、明治の初めに建てられ、一度戦災に遭いましたが、昭和33年10月に今の祠が建てられました。

隅田川神社

 一名、水神とも呼ばれ、人々に親しまれ、信仰されています。よほど古くから在ったと見えて、平安の終わり、源氏の大将、源頼朝が、まだ、関東にいた時、この神社に参り、武運を祈ったと伝えられています。その時、ここは、隅田川の中の島(洲)で、浮島と呼ばれて、浮島神社といわれていました。
 その頃の人々の楽しみは、祭りでした。隅田川神社(水神様)のまつりは、その頃から6月14・15日でした。
水神の名は、隅田川を上り下りする舟人達の守り神として、近くはもちろん、遠くの人々にも名を知られたいました。
 祭りの日になると、神輿を舟に積んで、隅田川を練り歩き、水神の祭りに来たそうです。今でも同じ頃にまつりが行われています。
 水神様の近くに「水神の渡し」があり、南千住の方へよく行っていました。小松島の乗船場から蒸気船が出ていて、川下の吾妻橋のほうにも行っていた。
 大正の初めには、有料の白鬚橋ができました。いつも、二人のおじいちゃんがいました。関東大震災まで続き、毎日渡る人は回数券を利用すると、1銭のところを8厘で渡れました。

若宮八幡神社

 元若宮15番地にありましたが、荒川放水路の敷地になりましたので、今の隅田川神社に一緒にまつられています。
 若宮村に、何時まつられたかは、よくわかりませんが、1000年ぐらい前からの古い社だったようです。

荒川放水路

 隅田川の上流の荒川は、その名のように「荒れ川」で、昔から大雨の度に氾濫し人々は、水害に悩まされてきました。特に、1910年(明治43年)の大雨による被害は大きく、東京の下町一帯が泥水に浸ってしまいました。
 そこで、大水から人々の生活を守るため、明治44年に、川幅を広げ、川の流れを変える荒川放水路を作る工事の計画が出来、用地の買取が始まりました。
 現在の北区の岩渕から東京湾までの22キロメートル、幅455メートルの土地には田や畑があり、人々が住んでいました。永くその土地で暮らしてきた人々にとって、自分の田畑や住みなれた家を手放して他の土地で暮らすのは、大変辛い事でした。
 元若宮村にあった若宮八幡神社も荒川放水路の敷地になり、今の隅田川神社に一緒にまつられるようになったということです。
 1913年(大正2年)に、いよいよ工事が始まりました。水路を掘る工事は、最初、シャベルや鍬を使いました。そのうちに、エキスカという、たくさんのバケツのついた機械で掘るようになりました。掘った土は、トロッコに積んで、その土で土手を築きました。毎日、毎日掘っては土を盛り、長い長い土手を作るのは大変な苦労でした。
 1930年(昭和5年)19年間にわたる工事が終わりました。

鐘ヶ淵

 元名元年、隅田川のほとりに普門院という寺がありました。この寺が亀戸に移る時、寺の道具や釣鐘を船に乗せて川を渡ろうとしました。その時、誤ってその船が沈んでしまいました。
 それから、暫く経って、享保の終わり頃、その頃の人が、川の中に沈んでいることを伝え聞き、数百人の人が、たくさんの綱を持って引揚げ様としました。ところが、水草が生い茂っている中に、、竜が頭から光を発し、その綱がみんな切れ、鐘を上げることが出来ませんでした。昔は、天気のよい日、船に乗ってその水底を見ると、鐘の沈んでいるのがよく見えたそうです。
 これが鐘ヶ淵の名のおこりです。

木母寺

 このお寺の本尊(おまつりしてある仏様)は、慈恵大師で、天台宗に属しています。平安期の中頃、977年(貞元2年)に、忠円阿闍梨(ちゅうえんあじゃり)が、梅若寺と名づけて開かれました。地蔵菩薩は弘法大師の作とも伝えられていますし、石碑とか塚などは、大変古く有名なものが多いので、大切な資料になっています。
 1189年(建久6年)源頼朝が、奥州征討の時、立ち寄ってお祈りしたとも伝えられています。また、1607年(慶長12年)近衛信平が、梅若寺の寺の名を木母寺(梅よりとる)と改めました。柳の枝で書き記したものがありますが、寺の宝物となっています。
 太田持資(道灌)は、寺を造り直し、1590年(天正18年)徳川家康も訪れて、梅柳山と名づけました。
 また、3代将軍家光の晩年には、木母寺境内に「隅田川御殿」が造られました。これは、代々の将軍が鷹狩りや舟遊びをする休憩所とされていましたが、実際は幕臣の水泳その他の訓練を統監するときの本営となるのが、主な用途であったとのことです。明治の初め、約20年、梅若神社と呼ばれた時がありました。

梅若塚

 木母寺の庭に梅若塚があることは、よく知っていると思います。古くからあって、人々にも、よく知られており、「謡曲」などにもたくさん謡われています。
 梅若丸の話は、母と別れて死んでいったという悲しい物語になっていますが、この話に似た話はたくさんあるので、本当かどうかは誰にもわかりません。しかし、次のような事は解ります。
 ずうっと古くから、ここは村里があったという事や、隅田川の渡しや通りは、大昔から大きな役目を持っていたという事などです。
 さて、寺にある「梅若権現御縁起」によると、梅若丸のことを次のように伝えています。
 今より、千年ほど昔、村上天皇の頃、吉田少将推房の子として生れました。5歳の時、父が亡くなり、7歳の時、比叡山に登って勉強しました。けれども、賢い梅若丸を憎む悪者が居ましたので、12歳の時、下山して大津に来ました。ここで、信夫藤太という人買いにだまされ、東へ東へと連れられ、隅田川の近くにきたときに病気になってしまいました。川辺に捨てられた梅若丸は、隅田関谷の人に介抱されましたが、その甲斐もなくこの世を去りました。
里人は、みんな涙を流して哀れみました。たまたま、天台宗のお坊さんである忠円阿闍梨(ちゅうえんあじゃり)が、通りすがりにこの話を聞いて、塚を築いて柳を植えて弔い、梅若寺と名付けました。
 あくる年の3月15日、里人が集まってお参りをしていると、気も狂わんばかかりの母が、たまたま、ここへ通りかかり、里人から、探し求めていた、わが子の変わり果てた姿を聞いて、梅若丸の塚に泣き伏してしまいました。