隅田小学校

(墨田 4− 6− 5)
開校 平成17年 4月 1日
校地面積 9169u

平成17年4月1日
隅田小学校と隅田第2小学校とが
統合して新
隅田小学校ができる



221点の応募作品の中から
特賞に選ばれた作品を
一部補正したデザインで
新校の
躍進向学心友愛をイメージし
未来への発展を表現

 


通学区域

墨田2丁目6番〜14番、
                35番5号〜8号、
                37番、
                39番4号〜10号、
                40番〜43番
墨田5丁目全域
                     鐘淵中学校へ

墨田5丁目10番7号〜13号、
        14番4号〜8号、
        15番1号〜15号、
        16番、
        17番(除18号〜20号)、
        18番(除18号、19号)、
        19番〜41番
墨田4丁目1番〜59番                                   
                                             鐘淵中学校へ
 


校歌

歌詞原案 隅田小学校校歌制作委員会
作詞補作 高橋 誠
作曲 高橋 誠

1・すみだの桜 陽に映えて
  夢があふれる 学び舎に
  今日も集うよ 隅田の子
  みんな仲良く 力を合わせ
  明るく 元気に 明日を語る姿
  みんなの誇り 手をつなごう
 
2・荒川堤 清らかに
  歴史育む その流れ
  川面に光る 友の顔
  知恵と勇気で 希望の橋を
  やさしく 強く 平和つくる心
  みんなの理想 隅田小
 

隅田小、隅田第2小の児童を中心に、地域の方々から募集した
「校歌に入れたい言葉」の募集結果をもとに
両校の先生方々の協力により歌詞原案を作成し
、サウンド・プロデューサーとして広く活躍されている
「高橋 誠」氏に歌詞の補作と作曲をお願いし、完成


学校選択

 募集人員(平成17年度・2005) 70名 


幻の隅田御殿

幻といっては申し訳ないが、この影の薄い隅田御殿と対照になるのが、15代将軍慶喜公が、最後まで使っていた御浜御殿である。今も庭園として残り、広く知られている。

 同じように品川御殿も、場所を示す御殿山(現、港区八ッ山)などの呼び名で地名にも残されている。地元の地誌はまだ見ていないが、暇を見つけて見ておきたい。

 同じ価値があるはずなのに、隅田御殿となると、地名も冠して呼ばれているのに、地元の人も知らない人が多い。東京都の資料室の陳列ケースの中に、隅田御殿の絵巻図が飾ってあり、貴重書として扱われる本で、全巻は100巻に近く誰でもが買って読める本ではないし、もちろん貸し出しは禁じられている。見つかったのは絵図だけで、関係する資料は、ほとんど書かれていないが。幸いに年代だけは詳しく知ることが出来た

 隅田御殿の建立記録は、元隅田村の名主、坂田家の家宝、絵図の写しによると、明暦3酉年(1657)より、明和年中(1764〜1772で終わり)までと、記録されているが内容の説明はなく、年号だけで終わっている。

 おおよそ70年ほど前に発行された隅田町誌によると、かって、木母寺境内『将軍ご休憩所』隅田御殿があったと、ほんの1,2行の史実を伝えるだけで、これも終わっている。

 隅田御殿に関して、なぜ、このように資料が少ないのだろうかと、他の資料を集約して作った地元の町誌でも、この程度では心細い。

 実在が100余年とすると、4代家綱から始まり、10代家治までで計算はよいはずであるが、途中、弘福寺へ移転という説もあり、旧東京資料でも、諸説ありとしているので、確証は避けたい。

 江戸最盛期といわれる、文化、文政時代以前は、口から口へと伝える場合が多く、いつの間ひか薄れ、忘れられ埋もれてしまう史実も多い。

 しかし、桜堤についての記述はかなり細かく残されている。8代将軍吉宗公が、享保二酉年5月隅田御殿にお成りの折、橋場の渡しのお上がり場から、御殿の木母寺門前までの往復の道中、隅田堤から見えるものは、田んぼばかりのはずである。

 『お慰み薄き故、桜100本御植付相成候』と、なっているが、新聞などで、この件(くだり)を単的にコラム風に書く場合は『8代将軍吉宗公が桜の植樹を命じた隅田堤』と命じたという言葉を使っている。

 当時命令は、取締役から名主に伝えられ、命令となれば・つるの一声、『興が薄い』の一言で名主は自費で桜100本植えさせられることになる。これが、隅田堤桜植え付けのはじめとされている。その名主が隅田の坂田弥次右衛門と記録に残っている。(名主=広辞苑で引くと、江戸で名主、上方で庄屋、陸奥みちのく)で肝入りとなっている)坂田家の過去帳(正福寺)には、弥次右衛門ではなく弥治右衛門となっている。

 初めて桜が植えられてから、110年余が過ぎて文化文政時代には入ると、江戸は爛熟期といわれているように、文化の花盛りである。

 写本も武士の内職として、書けばすぐ売れて金も入る。従って桜樹の植付記録もさらに細かく書き残されている。

 その頃、天保2卯年3月(1831)12代家斉公の頃、寺島村へ82本、須崎村へ91本、小梅村へ29本、合計203本坂田三七郎自費をもって。植付と記録されている

 三七郎は弥治右衛門から見て、記録はないが4代目か5代目に当たるという。寺は寺島法泉寺dが、なぜか正福寺にも幼い子どもたちの墓がある。

 この桜は、はじめ隅田の100本分を合わせると300本余りとなり、他の記録を調べると桜のほか(外)に、桃、柳も植えられたがそのうち桜だけが残ったそうである。以上が、隅田御殿付近の概要であるが、資料が少ないため人々の、耳、目にとどかなぬまま埋もれかかっていた幻のような隅田御殿だったが・・・・・・。

 後になって、武蔵随一と絵図にも残った桜の名所向島も、御殿のお蔭で花が咲いた。その陰に隅田の名主の奉仕で実を結んだことも、史実として見逃せないのではないでしょうか。

 やや下流の須崎村の当時は、向島と呼ばれ東京の奥座敷という別名もある。往古将軍が御殿を造ったといわれる向島で、当時は静かな村だったと思う。

 その付近に、当時文人墨客をひょうひょうとして遊ばせてくれた花屋敷(現、百花園)があり、政界、財界、軍人の熟年の人々や風流な人たちの集まる場として、当時有名だった。

 その中の一人に、榎本武揚がいたわけで、文武二刀流で特に漢詩は昌平橋学問所(昌平黌、後の大学に当たる)出身だけに漢学者として、文人墨客の連中の注目を浴び、外交官特有のやさしさが非常に人に愛されている。

 向島の桜は、当時東京随一、その墨堤を馬に乗って木母寺あたりまでの散歩を日課として楽しまれたと伝えられている。晩年の姿が目に浮かぶようです。

 明治41年に帰らぬ人となった武揚を、百花園の句会の常連、財界や名士の仲の良かった人々の発案で彼の好きだった木母寺、梅若の境内に銅像を造ろうという話が持ち上がり当時の百花園のお客様は、金持ちで、話のわかる気風(きっぷう)のよい御隠居様の方ばかりで銅像の一つや二つは、さして苦にならない。たちまち資金は集まり、政府に相談することなく、すんなり銅像は建てられた。これが銅像建立の縁起である。

 これは地元の人たちにも知っておいて貰いたいと同時に、壮年時代の彼が国の発展のためロシア・ペトログラードへ初代公使として派遣され、帰り道に酷寒のシベリアを馬車で横断した。

 シベリア日記などを読むと、その一節だけで呼んでも苦労と偉大さに頭が下がる。その他の伝記もたくさん出ている。地元の銅像の由来を子どもたちにもいい伝えたいものだ。
 


 
明治43年の大洪水

 隅田村は、三才村、善左衛門村若宮村と計4村が合併して明治11年以降隅田村に編入した。明治43年8月6日から丸3日間連日豪雨に見舞われ、元々、荒れる川といわれている荒川を上流にもつ隅田川沿いは大洪水になり、生々しい記録がたくさん残っている。そのころ、大水は下町の俗語で、隅田川は大川、放水路は新川、堤防は新土手などといわた。

 その状況に、東京府が治水に乗り出したのが、大正初期の荒川放水路の掘削だった。その一つ若宮村は、ほぼ全村が放水路の為に水底の村となり、長閑な水田地帯は帰らないふるさととなり、我が家も氏神様の若宮八幡神社も川の真下に。

 先祖から代々住み付いた土地から離れていったかと思うとそのような陰に隠れて犠牲になった人々のお蔭で、その後、隅田川には大きな水害はなくなった。ただし、堤外といわれる旧須田村にあたる場所は、今団地がずらりと並んだ付近だ。台風の季節になると毎年出水を繰り返していた。これらは第二次世界大戦後でも下水道の完備されまでは、この地の風物詩でもあった。

 隅田川神社は対岸から見ると出水の時や大潮の時には、水神の森は全くの浮島に見えるが、水神社を別名浮島と書かれた本も残っている。江戸末期の詩人亀田鵬斉はこの様子を『墨堤十里』で始まる漢詩にして最後を『水晶村』と結んでいる。 

 これに似た話が、旧西多摩郡にもある。周知の通り、昭和7年水力発電のため小河内ダム建設計画が発表され、着工までの6年、関係のある村人達には大きなショックを与えたと思う。湖底となる人々の悲しみを歌った東海林太郎の『湖底の故郷』や記録映画の『小河内ダム』は人々にも悲しみの共感を呼び、一躍有名になった。
 


 
多聞寺

 
1945年(昭和20年)3月10日未明、アメリカ軍 B29 330機により無差別空襲を受け、下町一帯は「炎の夜」と化した。この東京大空襲により下町は壊滅状態に陥り、死者10万人、負傷者11万人、100万人が家を失った。(犠牲者の氏名、正確な人数は現在も不明)

 この旧浅草国際劇場の鉄骨(大部分は江戸・東京博物館に展示中)は、東京大空襲を語り継ぐ数少ない歴史的資料である。風船爆弾の工場となっていた浅草国際劇場も直撃弾数発を受け、屋根を支えていた鉄骨は曲がり、ちぎれ、天井の大部分が抜け落ち、たくさんの人が焼死した。目の前の痛々しくひきちぎられた鉄骨に向かって目を閉じてみると、炎の夜の恐怖がよみがえる。

 戦争の実相を伝える「証人たち」に静かに心を傾け、不殺生の誓いを新たにしましょう。 

隅田宿
石盤考