隅田宿







 隅田宿を知らない人でも隅田川はよく知っているが、そこで幻の隅田宿を探ってみよう。郷土史や地誌を調べていくと、宿場にまつわる史実や伝説は多い。特に江戸四宿といわれる品川宿、内藤新宿、板橋宿、千住宿とこの四宿の資料だけでも膨大な数になる。

 この豊富な史実は当然人々の目に止まり、語り伝えられ周知の事実となっているが、、この千住の宿場が・・・・、元隅田宿の人々によって家もろとも関係者も含めて移り住んで造られたという史実は、ごく少ない資料しか残っていない。

 その前身である隅田宿の資料となると、零に等しいほどかすかに残っているだけである。現在の奥州街道及び日光街道(宇都宮まで同じ幹線道路)に、大橋と呼ばれた橋が出来たのは、文禄三稔(1594)で、隅田川で一番古い橋である。

念について
 当時は年を余り書かず干支とが中心になっていて、歳とかの文字が時々古文書から顔を出す。
生きた歴史の証言として、中仙道信濃追分の追分(別れ道Y字路)に、今でも当時の常夜灯が
あり、寛政元念巳酉吉日・・・・・・。と刻まれて残っている。
◎異体文字とは
 十所にない場合も多く、その成り立ちは説明できないが理屈抜きにしてこう読むより仕方がない
という文字。その傑作の一例は、『椛』と書いた文字が出た時、専門家は紅葉と判読するより方法
がないとする古文書解読用の研究文字を異体文字という。

 それまでの旧奥州街道は、日本橋から蔵前浅草田んぼを通り、橋場の渡しを越えたのが正常な街道筋であった。当時この渡しは旧奥州街道で、隅田川を渡るたった一つの重要な渡しで、官設の渡しだったと聞くとなるほどと思うのは私だけではないと思う。当初は2艘で渡していたが、通行量が増え4艘になったと記録されている。

 このように奥州街道を賑わした。千住宿の前身に当たる隅田宿となると、その資料は少なく、地元の寺(正福寺)の蔵からやっと古文書を探し出したが、謎の文字『千斬駅』としか書いてなくて心細い。
 
 『往古、旧奥州街道の駅舎がここにあり、旅籠のほか飯盛り女やけころ(娼婦)などが多く、殷盛(いんせい)を極めた』この程度の史実しか残っていない。現在の郷土史に残るご存知千住宿の盛り場をちょっぴり連想させられる。上の短い記述の中で『駅舎あり』とだけで、駅社名が罹れていないのが気にかかる・・・・・・。

 この駅舎について調べてみると、駅戸、駅家などの言葉が残っているが、この場合は勿論列車の駅とは無関係な熟語である。文献によると停車場を駅というが、これは逆で往古の駅が、列車が敷かれるようになってから、この文字が転用されて○○駅となったので、元来駅とは『うまや』のことである・・・・・・。と書いてある。

 『駅舎あり』と古文書に残されている文字は、厩舎ありのことで、俗な言葉でいえば馬小屋ありとなるので面白い。

 当然宿場とは人馬の継立てを扱う場所で、『千斬駅』と書かれた『駅』だけにはついては納得いくが、しかし、『千斬』とは、どんな意味があるのどろうか・・・・・・。時代によって文字や言葉は違ってくる。隅田宿(駅)が出来てから300年後の千住宿には千住駅などの記述言葉は見当たらない。

 当時千住に架けられた橋は『大橋』とのみ呼ばれた。当然ながら橋が出来ことから発展を見たので、千住宿が誕生する以前・・・・・・、千住とはどんな所だったのか少ない記録を探りながら辿ってゆくと・・・・・・。

 江戸開城以来、街造りが進み日本橋は江戸の中心となったが、そこからは橋場の渡しまでは、浅草田圃を行くわけだが、その通り路からそれた千住村に抜ける道は、当然旅人の通らない静かな田圃道だったはずである。浅草、山の宿あたりから千住小塚原村(刑場で有名)に行く畦道(あぜみち)に、家が三軒あった?。と地誌には書かれている。

 地誌は平均三通りぐらいの地名の起こりが書かれているのが常識となっているが、その三軒の家が『三屋』、『三家』と呼ばれ、今の山谷となった・・・・・・。と書かれている。(他説もある)

 涙橋があるが、『小塚原』へ引かれて行く罪人の見送りはこの橋まで・・・・・・、涙橋は台東区だけでなく、鈴ヶ森刑場の手前にも同じ橋名が残されていると地誌にははっきりと書き記されている。
 
 この小塚原が、いかに淋しい所であったかは想像できると思うが、そこへ、突然隅田川に始めて橋が架けられた。いまの千住大橋だが別称小塚原橋ともいわれた。

 それまでの地元の住民は、前方に川を控え対岸は朱引(江戸用語、旧東京市)外の田園地帯、双方共に静かな農村だった。田園の真ん中に新幹線の駅が突然出現し、、瞬く間に近代都市に早変わり・・・・・・という話は今も昔も変わりがない。

 隅田川に始めて『大橋』が架かったと書いたが『始めてと(初めて?)』の意味は少々違う。伝説によると、源頼朝の時代、はじめての橋が皮肉にも橋場の渡し付近に架けられた。と伝えられている。この橋は『船橋(船を横に並べる)』で太平記などに出てくる話だが、口伝に出てくる話なので聞く側が選択しなくてはならない。

 しかし、始めて千住に大橋が架けられたという歴史の中で、それ以前から『橋場』の地名が今も残っているのは異体文字と同じで、その成り立ちは詳しくは分らないが、いずれにしても船橋または浮き橋(竹を束ねて横に並べる竹橋もその一つ)があった。蛇足になるが、太平記に中に『現、白鬚橋』付近で起きた隅田河原の合戦の模様が詳しく書かれてもいる。千住に大橋が架かれば、当然今まで利用されていた隅田宿も道も変わり、宿場自体も徐々に移転しただろう。地元の村人たちがにわか飯盛り旅籠を興すとは考え難いし、急速に宿場として発展して行く要因は、隅田宿の人たちの力があったことは見逃せない。

 その力は、かって賑わいを見せ栄えた幻の隅田宿は、降ってわいた街道変更のため営業が成り立たなくなったに違いない。災い転じて福とする、その底力に『神』が味方したのか良くしたもので、新しく出来た『大橋』は橋場の渡しから徒歩でも行ける道のりが幸いして隅田宿の関係者は移転して行った。

 その後の隅田宿は跡形もなく消え、いまは残念ながら地元の人の口の端にものぼらない。旧奥州街道の宿場町は日の目を見ず消えたが、大正3年『白鬚橋』が架かるまで『橋場の渡し』は民営で細々と稼いでいた。

 潮が引くように消えた隅田宿付近は静かで美しい元の『隅田村』、『寺島村』に戻り、年月が過ぎ、この風光明媚に時の将軍が明暦三酉年(1657)隅田御殿も造られ、歴代将軍もしばしば足を運び、狩をしたりして楽しまれた。と旧東京府資料に書留められている。

 一帯に植えられた『桜』も年々増えて江戸随一の花の名所として、当時の絵巻物にも残っているし、引き継がれて現代でも隅田公園の桜といえば日本全国、世界中にも名を馳せている。

角田河絵図