立花小学校

(立花 1−25−27)
開校 昭和49年 7月 1日
校地面積 12,000u



 





                          


通学区域

立花1丁目24番〜26番、
       28番〜35番
立花3丁目2番〜11番    立花中学校へ
 



校歌

作詞 松井由利夫  作曲 渡辺  茂

1.さわやかな みどりの若木 
  こずえはのびる どこまでも  
  この明るい学びの庭で
  たちばなの 花のように
  やさしくそしてたくましい
  心とからだを育てよう
  ルルルルルルルル
  立花小学校
2.ふりそそぐ 豊かな光
  吾嬬の森に いつまでも
  この楽しい学びの庭で
  澄みとおる 空のように
  おおきな そして 新しい  
  明日ののぞみを育てよう
  ルルルルルルルル
  立花小学校



あゆみ

昭和49年
 7月 1日 墨田区立立花小学校設置
 9月 1日 墨田区立立花小学校開校
        (学区:立花団地1〜4号棟)
        開校時の児童数53名
11月20日  プール完成

昭和50年
 2月12日 体育館完成
 2月20日 校歌・校旗制定
 3月25日 第1回卒業式(卒業生4名)挙行
 4月 1日 学区変更により第一吾嬬小学校より児童編入
        (113名)
 4月11日 立花幼稚園併設

昭和54年
 6月30日 開校5周年記念式典挙行
11月 1日 学校給食・文部大臣賞受賞

昭和57年
 3月31日 増築校舎完成

昭和59年
10月15日 開校10周年記念式典挙行

平成 元年
11月22日 開校15周年記念式典挙行

平成6年
 3月 3日 校庭改修完成
12月 6日 開校20周年記念式典挙行

平成7年
 3月31日 ベンチセット設置(20周年記念)
 9月29日 20周年記念タイムカプセル埋設
11月7日  飼育小屋改修

平成 8年
 3月31日  ほのぼのルーム完成
 8月23日 昇降口(理科室付近)改修

平成11年
11月12日 開校25周年記念式典挙行

平成12年                    
 9月     ランチルーム完成

平成13年                    
 1月     コンピュータルーム完成 
        (児童用パソコン20台設置)
 



 


 
吾嬬神社   (あづまじんじゃ立花1-1)

 吾嬬神社の由来は、日本武尊東征のとき暴風雨を鎮めるため、海に身を投げた弟橘媛の流れついた遺品を葬って塚にしたといわれる。江戸時代には安藤広重の浮世絵に多く取り上げられ、「吾嬬の森」または「浮州の森」として知られていた。

 吾嬬森碑、儒学者であり、兵学者である山県大弐之碑がある。ほかに手水鉢、狛犬、鳥居等銘のはっきりした貴重なものが残っている。

 
相模の国観音崎の走水から、上総の木更津にわたるとき暴風雨にみまわれた。海を鎮めるために犠性になられた弟橘媛の流れついた着衣などの遺品を葬って塚としたのが、「吾嬬の森」八町四方といわれた。いいつたえでは、流れついた箸をさしたものが根付いて森になり、浮洲の森ともよばれたという。ここから縄文土器の深鉢が発掘されていて、境内には弟橘媛顕彰の「下総国葛飾郡吾嬬森碑」がある他に、天明元年建立の「吾嬬神社縁起碑」なども現存している。

 元来この地域は、請地小村井葛西川の三村が併合して戸長役場を置いていたのが、「明治22年」に上・下の木下川と大畑、それに前記の三村が合併して、由緒ある吾嬬神社の社名をいただき吾嬬村としたのが始まりである。この時隣りの寺島村、隅田村も同時に発足したが、共通の苦悩は荒川の氾濫にとる度重なる水害であった。「大正元年9月」に吾嬬村から吾嬬町に改められたが明治22年に発足以来、実に23年の年月が経っていた。

 この一帯は荒川と中川の流域のあって、地勢は平坦な低湿地であった。地質学上からみると未だ幼年期に属し、沖積層よりなる砂質粘土で、田が少なく畑ばかりであった。大畑方面(主として当町会内)は水田事情が悪いので、蓮田が多く、大畑以外の一帯は原っぱで、草原の所々にある小高い台地に人々は住んでいた。このあたりの人達は、原始産業である農業に従事している人が圧倒的だった。

 こに地域の特質は、都会文化に欲すべき道路交通網の欠如で、この欠点がどれ程、地域の発展を阻害してきたかは、計り知れない。因みに大正9年の吾嬬町全体の戸数は5,692戸、人口30,625人で、昭和5年には17,848戸、人口80,500人で10年間に、この時だけは約3倍に成長し、総坪数は298,200坪であった。
 


 

北十間川

 源森川水門から隅田川の水を入れ旧中川経由
で木下川排水場から荒川に排水し、同じルートで横十間川からも北十間川に小名木川や仙台堀川サイホンを経由して隅田川の水を流入させるという。

 もちろん、汚泥の浚渫(しゅんせつ)や空気ポンプで酸素を入れて清流を復活させようとしている。

 今は見る影もない川ではあるが、沿岸には歴史的、文化的なポイントが数多いので、将来が楽しみではある。

 たとえば、横十間川と交差する墨田区業平5丁目の柳島妙見(本性寺)は、江戸時代には枕橋から船でお参りをしたといわれている。

 1573年(天正元年)に創建され、北斗七星を神格化した妙見堂が設置されている。5代将軍綱吉の生母桂昌院の帰依を受けて賑わい、今でも周囲2.5メートルの影向松が健在だ。その後、もっとも賑わったのは、妙見堂に願いをかけて芸道開眼した初代中村仲蔵(忠臣蔵5段目「山崎街道の場」のダレ場で斧定九郎役の仲蔵が本所割下水のそば屋で見た御家人からヒントを得て大当たりをとるをとる)にあやかって役者、噺家(はなしか)、バクチなどの信仰を集めた。

 狭い境内には、「昔話柳塚」「侠客上萬之碑」「歌川豊国筆塚」「6世桂文治之碑」、別に保存されている「近松門左衛門碑」もある。

 福神橋左岸には、吾嬬神社(墨田区立花丁目)がある。一説には隅田川の吾妻橋の命名のもとになったともいわれている。

 縁起の碑には日本武尊の東征で相模(神奈川県)の観音崎から上総(千葉県)の木更津へ渡るとき、弟橘媛命が海神を鎮めるために海中に身を投じて無事に上陸したとある。これは東京湾の海岸線がきた十間川あたりだった事を物語っている。

 このほかには、安藤広重の浮世絵にも描かれた梅の名所「小村井梅園(江東梅園)跡」「香取神社」(墨田区文花2丁目)は鎌倉時代から小村井開拓の氏神としていい伝えられている。

 一度失われた自然を取り戻すには、大変な労力と財力、時間が必要であり、自然がなくなれば、その一員である人間も生きていけないことを早く知るべきである。

 また、対岸にある江東区亀戸3丁目の区立亀島小学校は、児童数の減少に伴い、同校が2002年3月いっぱいで閉鎖され、同区立第1亀戸小学校(同区亀戸2丁目)に事実上吸収統合された。ここの場所は、以前には、都電の柳島車庫のあったところだったが、その跡に建てられた30年余しか経たない、歴史の短い学校だったが児童数の減少には、如何ともしがたい。

 そこで、同校では2月26日在校生や卒業生、地域住民ら約400人が参加し「亀島まつり」が開かれ、例年よりも一層盛り上げようと、裏方役のPTA役員やKS会(父親の会)の面々は大張り切りで、校庭にはフランクフルトソーセージや焼きソバなどの模擬店を開いて子供たちを喜ばせたり、最後は全員が体育館に集まり、大ビンゴ大会を開催、盛況のうちに同校の「亀島まつり」の歴史にピリオドを打った。当日は穏やかな晴天に恵まれたが、参加者の多くは心に少し雲がかかった底冷えのする1日だった。