言問小学校

(向島5−40−14)
開校 昭和12年 2− 1日
校地面積 6386u


  校章は言問小学校が開校したときに制定されました。
学校のそばを流れる隅田川の桜並木ににちなみ、
桜の花を取り入れました。周りの鳥は「言問」の名の由来になった、
在原業平の和歌に出てくる都鳥(ゆりかもめ)です。 

 


 





通学区域

向島3丁目4番〜9番、
16番〜21番(小梅小学校への変更可能)
向島4丁目1番〜13番、
17番〜30番
向島5丁目1番〜47番                                   
押上2丁目13番〜14番、
18番1号〜9号、
19番〜26番             
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校歌
1 春は桜の花かげに 秋は柳のそよかぜに 
   ふくらむ胸よ大川の 流れを友に育ちゆく
   われら若鳥 文化の子
2 一人一人がはげみあい 明日を夢見る友情の 
   花咲く窓よ言問は 自立の気風美しく
   希望ゆたかに 満ちわたる
3 町の昔を歌に聞き 栄え伸びゆく商工の
   巣立ちの庭よ新しい 大東京を背負い立つ 
   われら言問小学校





 向島というのは、元々隅田川の西岸浅草側から、旧名である牛島・寺島・隅田・請地(うけじ)・須崎(すさき)・柳島などを指して「川向こう」といい、「むこうの島」「むこう島」と、呼んでいたものが一般に用いられることでできました。その初見は定かではありませんが、江戸時代のはじめといわれています。ただし、この時は呼称として用いられていました。

 向島という語が町の名前として登場するのは、明治24年(1891)以降のことです。その時つけられた向島とつく町名は、向島請地町・向島押上町・向島小梅町・向島須崎町・向島中ノ郷(なかのごう)町でした。昭和6年(19311)、それまでの小梅瓦(かわら)町・新小梅町・向島須崎町・向島中ノ郷町・向島小梅町の各一部が合併、さらに昭和39年(1964)には、隅田公園・向島須崎町・小梅2〜3丁目全域と小梅1丁目・向島請地町・寺島町1〜2丁目の各一部を合併して、現在の向島1〜5丁目が誕生しました。

 
秋葉神社(あきばじんじゃ)は、紅葉の名所として、特に江戸城大奥の信仰を集めていました。またこの界隈(かいわい)には料理茶屋が多く、茶屋ごとに生簀(いけす)で鯉(こい)を飼い、洗いや鯉(こい)こくにして提供していました。特に弘福寺前の墨堤から秋葉神社へ向かう道沿いにあった葛西太郎(かさいたろう)(平岩(ひらいわ))は、「向島/寺と鯉とで/めしをくひ」とうたわれるほど有名でした(西原柳雨(にしはらりゅうう)「川柳(せんりゅう)江戸名物」)。

 墨堤に桜が植えられてから、特に天明年間(1781〜1788))以降、向島は江戸の人々の行楽地としてにぎわうようになりました。正月の
隅田川七福神に始まり、春は墨堤の花見、夏は夕涼み、秋は秋葉神社の紅葉、冬は隅田川の雪見などなど、四季折々に楽しむことができるスポットがたくさんありました。みなさんも江戸っ子のように向島を散策してみてはいかがでしょうか。

 隅田川の春の風物詩に「早慶レガッタ」がありますが、実はこのレガッタ、隅田川とはゆかりの深いスポーツなのをご存じですか?始まりは、江戸時代末期までさかのぼります。もともとは長崎や横浜に住む外国人によって行われていました。日本人がボートをこぎはじめたのは明治10年ころからで、「外国からきたハイカラなスポーツ」として学生の間で人気となります。そして、日本人によるレガッタが初めて行われたのが、隅田川なのです。

 明治16年(1883)には、東京帝国大学(現東京大学)と体操伝習所(現筑波大学)による日本初の対抗レガッタが竹屋の渡―言問橋間で行われました。その後も、学校や企業によって、さかんにレースが開催され、レガッタは庶民の間にも広がっていきます。その人気は今の野球やサッカーをしのぐほどで、レースが行われるときは、東京中から大勢の観衆や応援団が墨堤に集まってきました。レガッタのメッカとなった当時の様子は、錦絵やすごろくの題材にも多く選ばれています。

 明治20年(1887)になると、日本初の艇庫として東京帝国大学(現東京大学)艇庫が向島に完成しました。それに続くように他の大学もこぞって艇庫を建設し、現在の堤通1丁目(旧向島区寺島村3丁目)の一帯は、
「向島艇庫村」と呼ばれ、多くの艇庫が立ち並んでいました。一番多かったころのその数は約10棟にものぼりましたが、隅田川の水質の悪化や、首都高速道路建設の影響もあり、次々と移転を始めます。そして昭和42年(1967)、一橋大学の艇庫の移転を最後に、向島からその姿を消しました。

 一橋大学の艇庫にあったもので、一つだけ解体をまぬがれ、今でも残っているものがあります。それは、直径2mのテラコッタ(陶製)でできたマーキュリー紋章です。
 この紋章は、一橋大学の校章の周りに、ラテン語で「MENS SANA CORPOSE SANO」〜健全なる精神は健全なる肉体に宿る〜と刻まれているもので、現在は一橋大学の相模湖合宿所で保管されています。

 もちろん、資料館で展示している艇庫の模型でも、精巧に復元されています。

 資料館では、華やかに水面を彩り、人々を熱狂させたレガッタの明治から昭和初期の資料を中心に展示を行っています。なかでも、実際にレガッタで使っていた実物のオールは一見の価値があります。その長さ3m80cm、重さは5kgという大きさに圧倒される方もいるのではないでしょうか?また、水をかく部分(ブレード)は、各大学のスクールカラーが彩られていて、「水上の花」レガッタの勇壮さがうかがえます。



羽子板

 羽子板には、子どもの厄除けの意味があるといわれています。その起源ははっきりしませんが、室町時代の記録にはすでに羽子板が正月に使われていたようです。しかし、押絵を貼り付けた羽子板が登場するのは、江戸時代・文化文政年間(19世紀.初頭)のことです。
 江戸では、浅草・歳の市で羽子板が売られるようになり、その周辺に羽子板職人が多く住むようになりました。

 押絵羽子板作りの工程は、大きく面相と押絵の2つに分かれます。面相師が下絵を書くと、それをもとに押絵師がボール紙で型どりし、柄のある布を付け、中に綿を入れて顔や胴の各部分を作っていきます。できあがった各部に面相師が顔や着物の模様を描きこみ、押絵師がそれらを組みあげ、羽子板に貼り付けて完成します。

 押絵とは技法のことでボール紙に綿をつめ布でくるんだ物、羽子板は今でも、お正月になると街中で子供(女性の遊びとされている)が羽根つきで遊んでいる三角形に近い板のことです。

 その押絵と羽子板のデザインが今から250年程前(江戸時代中期頃)当時庶民の娯楽の第一とされていたのが現在でも見ることができる『歌舞伎』です。  
あるアイディアマン(浮世絵師だと思う?)が、歌舞伎役者の舞台姿を、押絵の技法で作り、お正月には付き物の羽子板の中に入れたものが押絵羽子板です。

 日本の近代産業の発展は、明治以降東京の都市化と共に、近郊地帯をも市街地化してきました。本所地区は江戸時代から市街地を形成していましたが、向島地区は東京の人口の増加による工場の進出により、急速に人口が増加し、農村地帯から市街地へ変化してきました。

 墨東地区は、隅田川に直結する多くの水路が発達していたため、原料や製品を輸送するのに適しており、また低地のため地下が相対的に安く、工場建設の条件に恵まれていました。それが墨田区の産業発達の基礎となりました。

工業化が進む中、その業種は繊維・機械・ゴム・石けん・製革産業など多種多様なものでしたが、今回の企画展では石けんと歯磨きの製造業にスポットを当てました。

 石けんは本区の伝統的工業の1つですが、その歴史を見ると日本における石けん製造業の発展に大きく寄与していることがわかります。

 そのような中で、日本の石けん製造の草創期に
中之郷(なかのごう)村で創業した石けん製造会社「鳴春舎(めいしゅんしゃ)」の技術が、その後の石けん製造会社の多くに影響を与えてきました。

 また、墨田区ゆかりの石けん製造会社のほとんどが、同時に歯磨きも製造していることから、歯磨き製造についても取り上げました。石けんと歯磨きの2つの製品をつなぐ、清潔や健康という考え方は、人々の生活が豊かになるにつれて、ますます広く普及してきました。そのことは、清潔・健康・衛生上の効用をうたった各企業の石けん・歯磨きの広告などからもうかがえます。

 歴史的に見て「石けんの町」・「歯磨きの町」と呼ぶにふさわしい墨田区は、現在でも業務用の石けん・洗剤の製造なども含めた会社が多種多様の製品を生産しています。今でも墨田区は、一貫して「石けんの町」であり続けているのです。
 




淡島椿岳・寒月父子

 いつの世にも、”奇人”と称すべき人がいるものです。明治大正期の墨田区の奇人というと淡島椿岳・寒月父子でしょう。2人は、現在の向島5丁目あたりの梵雲庵という隠居所に住んでいました。
 椿岳、ある時は石川五右衛門の向こうを張って浅草寺の楼門に仮住まいしたり、ピアノを買っては演奏会を開き、ペンを持っては仏画をかく・・・・・・・・。

 はたまた”ふろ”の帰りに手ぬぐい下げてフラッと大阪へ--------という奇行ぶり。また、芝(港区内)の青松寺や京都の南禅寺の禅に参ずるかと思へば、天台宗に僧籍を置き、浅草寺の淡島堂に住んだりした。明治22年梵運庵で

 
              今までは さまざまのことを してみたが
                 死んでみるのは これがはじめて


                                      と辞世の歌を残して大往生した。
 さすがに、死んでみるのは初めてと、当代の大奇人も口惜しいことしたなと歌のなかで残念がっている。

 子の寒月も、父に負けない変わりもの。禅に夢中になったかと思へば、キリスト教に走り、牧師に従って伝導に出かけることもあった。外人の真似をして髪を赤くし、目を青くし、洋服を着て市中をカッ歩。この大胆さ、現代の若者も及ぶところではない。

 また、寒月は、異常なまでに凝る性質であった。震災でコレクションの埴輪を焼いてしまったときには、自分も一緒に火の中に飛び込んでしまいたい、といったという。

 珍行・奇行も徹底するとこの父子のように---------。しかし、寒月を有名にしているのは、奇行だけではない。忘れてならないのは、彼に絵画、文学の深いたしなみがあったことである。
 日本画では文人画をよくし、また、輸入されたばかりの洋画(油絵)もものした。文学の方では彼は井原西鶴の隠れた理解者であった。

 現在では、西鶴は近松門左衛門と並んで江戸文学の双璧といわれているが、当時の文学者には見向きもされなっかった。そんな中で、彼は明治の大文豪幸田露伴、尾崎紅葉に西鶴の真価を披瀝している。そのためか、紅露文学には西鶴の影響がうかがえるのである。