第3寺島小学校

(東向島6丁目 8番地 1号)
 開校 昭和 3年12月16日
 校地面積 6614u


 






通学区域

東向島2丁目31番、32番、38番〜49番
東向島6丁目1番〜44番、46番、49番
八広1丁目1番〜25番                                   
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校歌

1 日は照り 栄えて学舎に
  玉つゆ きらら光る時
  希望は今も 新しく
  あふるるごとく 湧きいでて  
  我らの胸は 大いなる
  世紀の朝は 高くなる
2 やさしく招く 蔦の葉に
  陽のさんさんと そそぐ時  
  ほほえむ我ら 若鳩は
  
理想の花を 胸にして
  やがて平和にかがやける
  世紀の空に はばたかん
3 墨田のかなた 夕映えの
  けだかき富士を 仰ぐとき  
  ああ感激に むせびつつ
  心に誓う 花つぼみ
  やがて大地に 咲き香る
  世紀を飾る 花たらん



旧校歌

1 たがあゆかしや 隅田のほとり
  皇居仰ぎて 築きしところ
  われらまなびや そびえたり
  いざや いざ いざ 
  君に御国に盡さばや
 
 花はうつろひ 香りは消ゆも
  力朽ざる 流れの叫び
  われら誠の 道を踏む
  いざや いざ いざ
  勉め励みて極めばや
 
3 学びたゆまず 心を修め
  母校の誉を いやいや高く
  われら健兒ぞ 掲げよや
  いざや いざ いざ
  授け警しめ進まばや


 
教育目標
 

 本校では心身共に健康で、
自主共同の精神にみちた児童を育成するため、
次のような児童像をかかげ教育を推進しています。
  
  ○ じょうぶなからだをつくる子
    ○ おたがいを大切にする子
    ○ 進んで学ぶ子
    ○ 人のためにはたらける子
 


学校紹介

 本校は、墨田区の北部に位置し、大正3年に設立されました。
現在は幼稚園が併設しており、進路・生活指導相談所、いじめ
相談室があります。また昨年から通級制の情緒障害学級(コミ
ュニケーションの教室「わかば」)が設置されました。中心に明
治通りと曳舟川通りが走っており、学区域には墨田区生涯学
習センター、向島郵便局、向島消防署、東向島児童館があり
ます。動植物などの自然環境に恵まれているとはいえません
が、近くには隅田川や荒川が流れ、下町情緒あふれる地域の
中にある学校です。
 


学校行事

 4月  ・入学式・始業式・1年生を迎える会
 5月  ・遠足・運動会・写生会(桜橋、消防車)
 6月  ・プール開き・授業参観・保護者会
 7月  ・1学期終業式
 8月  ・夏期休業中水泳指導(前期7/23〜8/3 後期8/20〜8/28)
 9月  ・始業式・プール納・演劇教室・三寺フェスティバル
10月  ・全校あるく会・移動教室(6年)・道徳授業地区公開講座
11月  ・社会科見学(3・4年)・
学芸会・オーケストラ教室(5・6年)
12月  ・社会科見学(4・5年)・終業式
 1月  ・始業式・学校公開日
 2月  ・
「特色ある学校」研究発表会
 3月  ・6年生を送る会・修了式・卒業式
 


教育活動
  ○ 校内LANを整備し、主体的にコンピューターを使い、
    高度情報化社会に対応できる児童を    育てます。
  ○ 小規模校の特色を生かして、暖かいふれあいのできる、
    たてわりの班活動を計画的に実    施します。
  ○ 地域の施設や文化を生かし、人材の活用、教材の開発、
    体験活動を重視した教育を推    進し、郷土を愛する児童を育てます。
  ○ ユニセフ募金活動等の取り組みを通して、
     平和や生命を大切にする児童を育てます。

児童数 : 203名  (2001年度)
 


学校選択制度

 区立小中学校への学校選択を予定している希望者は、
『希望選択票』の必要事項を記入し、自ら希望する学校へ
直接または郵送して申し込む(11月14日まで)。通学区
域内の小中学校への希望の場合は必要なし。

 平成16年度  60名
 


 
あゆみ

大正

15.05.28 設置認可さる。
         「東京府南葛飾群第三寺島尋常小学校」と称する。

昭和

03.12.16 落成。開校記念日とする。
04.01.08 授業開始。 (23学級 1420名)
          第一寺島小学校より 1320名
          第二寺島小学校より 100名 が転入する。
06.10.01 校歌制定。
16.04.01 学制改革により東京市第三寺島国民学校と改称、
         高等科女子は西部国民学校に移る。
19.08.16 学童集団疎開で茨城県行方群潮来町および香澄町へ
         3年以上有志児童349名疎開。
20.04.27 秋田県平鹿郡浅舞町沼館大森町へ再疎開、
         新たに1・2年生参加再疎開。 児童349名
22.04.01 学制改革により、東京都墨田区立第三寺島小学校と改称。
23.12.16 現校歌制定。
28.04.01 心障学級設確、1学級児童数13名
32.12.25 講堂舞台拡張工事完了、表・裏竣工。
38.08.15 放送施設整備完了。
43.11.16 創立40周年記念式典挙行。国旗掲揚塔完成。
44.04.12 第三寺島幼稚園開園式挙行。園児数90名。
44.09.30 校舎窓枠、給食室改修工事完了。図工室ならびに廊下完成。
47.06.08 プール改修工事完了。
48.07.11 第1期工事校舎引渡し。
49.12.14 新校舎落成。開校46周年記念式典挙行。
50.11.14 校庭工事完了。
53.12.01 開校50周年記念式典遂行。
58.03.31 校庭南側に防球ネット設置。
58.12.01 開校55周年記念式典挙行。

60.06.14 プールスタンド・更衣室設置及びシャワー施設改善。
60.08.31 校庭舗装工事完了。
60.11.26 校庭南側防球ネット増設。

63.12.01 開校60周年記念式典挙行。校旗新調。

平成

03.01.31 校庭弾性舗装工事完了に伴い、固定遊具施設を新設。
03.03.22 西側道路拡幅に伴い、フェンスと植込み工事完了。
03.10.12 校舎北側の外壁改修完了。
04.04.16 東側道路拡幅に伴い、裏門及び自転車置場、フェンス改修完了。
04.06.06 プールのろ過機更新。
09.08.09 廊下・保健室・事務室壁塗装。給食室改修。
10.11.26 開校70周年記念式典挙行。
11.03.31 特色ある学校づくり推進校3年終了。

 


 
明治通り

 この道路は名称の関係で明治時代に作られたように錯覚される方もあるかもしれないが、実際は大正10年東京都市計画街路改修事業の一つとして着工され、途中関東大震災に見舞われたが、大東京市が誕生した昭和7年にはほとんど全通近い状態まで出来上がった。当初は13間道路とも呼ばれていた。都市計画路線名は環状4号線といったが、東京日日新聞社(現毎日新聞社)が名称募集を行った結果、通称名「明治通り」となった。その理由は、
 『
明治の御代にできた東京が今度大東京市になった記念のため
 『
明治神宮前を通過しているから付けた名前である
 東京の地図を見ると、江東区夢の島の首都高速湾岸線(京葉線)新木場駅から亀戸〜白鬚橋〜三ノ輪〜尾久〜王子〜巣鴨〜池袋〜新宿〜明治神宮前〜渋谷〜天現寺橋〜古川橋に至る行路である。向島地区では昭和2年から7年に書けて工事が行われ開通した。その前年、昭和6年6月1日に鉄鋼製の白鬚橋が竣工し8月に開通しているので、明治通り関連事業の一つであることがわかる。

 明治通りも水戸街道も寺島広小路のところで東武鉄道の踏切を越えねばならなかった。昭和40年代の高度成長期に入る頃には交通量が増え、踏切を待つ自動車の渋滞が排ガス問題、非効率問題など種々の悪影響を及ぼすようになった。昭和42年2月21日に東武鉄道曳舟〜鐘ヶ淵間の高架工事が完成。その理由は、もちろん2本の幹線道路の交通渋滞を解消するために立体交差の実現が必要であったからである。

 明治通りといえば、トロリーバス(無軌条電車)を忘れることは出来ない。昭和32年1月12日、亀戸〜寺島〜池袋間にトロリーバスがお目見えした。都電と同じような2本のポール状の集電機を屋根に取りつけて、軽い電気音を響かして出発する姿は、電車とも自動車ともつかぬ合いの子イメージの珍しさがあった。

 都電より揺れも少なくバスより静かで乗り心地は比較的良かった。京成電鉄、東武鉄道の踏切前に来ると一手間必要になった。車掌さんが降りてポールを下ろし、運転手さんがディーヂルエンジンをかける。重力のある大きな音と真っ黒い排気ガスを出しながら踏切りを渡る。

 その情景も昭和43年9月には姿を消した。建設が容易で、諸車を避けて運行できる利点が当初は期待されたが、車両の維持費が高く、耐用年数が短く、バスに比べ機動性に劣る等の欠点が目立ち、たった11年間半の短い寿命であった。

 明治通り沿いにも商店が結構あったが、近頃は開店している店は数店ぐらい。道が広いと、どうも商売にならないらしい。車優先の道路では(繁華街を除いて)商店街には向かないようだ。

 明治通りは平井街道(旧宮田通り)と交差してカーブして小村井方向へ向い、更に、薬師道を通過し福神橋を越えれば江東区亀戸ヘ入る。戦後しばらくして、宮田通りと交差する地点で丸八通りへ抜ける都道・丸八通りと連結する工事が完了した。江東区と連絡する明治通りのバイパスとなり葛西橋から江戸川区への近道となった。

 現在では、墨田区の北部地区、併合前の向島区に住む人々の地理感覚は、何処へ行にも大動脈である水戸街道と明治通りが基盤になって動いている。良くも悪しくも街の骨格がそのように出来ていれば、日常生活のパターンもそれに従って動くのも自然なのだろう。

 最後に、向島の昔の道を裏道と脇道にした水戸街道・明治通りではあるが、昭和2年決定した東京都市計画街路網のグランド・デザインという大きな目で見れば評価できる。墨田区向島地区の近代化にも果たした役割は否定できない。しかし、向島にはこれ以上の大規模街路網は必要としないという思いもある。いや、必要としない施策、人にやさしい道路こそ必要である。