第2寺島小学校

(東向島4丁目-30番- 2号)
開校 大正13年 4月20日
校地面積 9908u



思いやりがあり 助け合う子
体力のある 元気な子
よく考えて 工夫する子
ねばり強く やりぬく子


 





校歌

作詞 国 語 部  作曲 福井直秋
 

1・大正十三卯月の二十日  
  清く流れる隅田の東
  我らを育む教えの庭は
  礎固く築かれぬ
 
2・緑色こき楠の木陰に
  朝夕集いて共々励み
  互に手を取り語ろう時は  
  嬉しさ胸にあふるなり
 
3・我らの目指す至誠の道に  
  日に日に近寄る心の姿
  現し出すは我らが努め
  永久にたゆまず励まなむ
 



学校選択制度

 区立小中学校への学校選択を予定している希望者は、
『希望選択票』の必要事項を記入し、自ら希望する学校
へ直接または郵送して申し込む(11月14日まで)。通
学区域内の小中学校への希望の場合は必要なし。

 平成16年度  110名
 



東向島

 東向島は昭和40年3月実施の新住居表示によって誕生した。向島地域のうち東の部分ちう意味で、向島の東隣という意味ではない。
向島という名称は、昭和7年の向島区の出現によって行政的にも位置付けられたが、一般的な俗称として、江戸時代の初めに用いられていたようである。

 隅田川をはさんで浅草側から、寺島、牛島(小梅・須崎・押上・中之郷)、柳島等を指して、漠然と川向こうの島という意味で「向島」と呼ぶようになったのである。この寺島の部分が、ほぼ東向島にあたる。

 利根川の川口が現在の旧綾瀬川あたりにあった頃は、寺島は島だったわけで、川口が現在の銅像堀跡あたりに下がってくる頃は、牛島が島となっていたし、後の寺島新田(地蔵坂通りの南側で旧本所区との境まで)は洲となっていたのである。

 寺島のいわれについては、「
新編武蔵風土記稿」によると、「村内蓮花寺の縁起に、彼寺は鎌倉の執権武蔵守経時鎌倉郡佐介谷に建立したりしに、息頼助弘長元年ここに自ら中興開山となれり。これ村名の起れる所なり。又、法泉寺の伝によれば此寺葛西三郎清重が開基にして村内大抵かの寺の境内なりし故名あると」と述べているが、その一端がうかがえる。

 応永5年(1398)の「葛西御厨注文」や永禄2年(1559)の「小田原衆所領役帳」の文書に葛西領寺島の名がみえ、貫高も高く墨田区内でも草分け的な発展のあとが示されている。とりわけ向島百花園あたりから東武鉄道東向島駅の地域に集中して、中世の墓碑である板碑が発掘されている。区内では、この地域と堤通に近い墨田の地域に限られて発掘されている点からもその古さがうかがわれる。

 明治8年には、寺島村字馬場、北玉ノ井居、本玉ノ井、長浦、北居村、南北居村前沼、中堰、新田、深瀬入、水道向堤外と小名、或いは耕地等につけられた字名を行政上の字名として設けている。その地域は、北が墨田村善左衛門村・若宮村・東が木下村大畑村、南が請地村・須崎村、西が隅田川に取り囲まれている。

 大正12年には、南葛飾郡寺島町と村から町に変わり、昭和7年には、隅田町、吾嬬町と合併して向島区となり、寺島の字名も1丁目から8丁目となった。

 昭和22年、本所区と向島区が合併して墨田区が誕生した。そして昭和40年、新住居表示によって東向島が生まれる。その範囲はかっての寺島1・2・5・6丁目の区域がほとんどで、曳舟川通りの南側にあった旧4丁目と8丁目、堤通り西の3丁目、「大正通り」と「いろは通り」北の7丁目と1丁目の一部がけずられている。

 ここの産業には特別目立ったものではないが、工場数では京島地域に次いで多く、その中では玩具製造が多かった。かっては、しそ、しょうが、はす、くわい等の農産物や植木鉢、紙加工(ぶんこ屋・ひょうし屋と呼んでいた)紺屋、型付屋(染色)が目立っていた。

 生活動線も、時代によって変わってきている。かっては、曳舟川通り、薬師道、大師道などがメインであったが、大正末から昭和初年に放射線道路(現、水戸街道)、環状線道路(現、明治通り)が開通し、市(都)電、バスの時代を迎え、都電も戦後、須崎町秋葉神社の所から寺島広小路まで延長された。

 鳩ノ街通り、地蔵坂通り、大正通り、いろは通り、曳舟たから通りなどを中心に商店の繁栄を見ているが、京島・文花方面に進出したスーパーマーケットの人気も高く、日常の買物の範囲が動いている。また、ここは歴史的に旧向島地区の中で発展・市街化が早かったためか官公署が多いし、各種の金融機関も東向島(寺島)広小路に集中している。

 この地域で特に忘れないものは、江戸町人文化の一つの結晶ともいえる国指定重要指定文化財の名勝向島百花園と、いずれにせよこの地域の一時代を画し、「墨東綺譚」・「原色の街」等にも描かれた玉ノ井・鳩の街であろうか。その他蓮花寺、子育地蔵、白鬚神社、法泉寺などは都内に名だたる名碑を数多く有している。

 この町を愛した文人墨客は多く、ここに居を構えて著作に励んだ文豪「幸田露伴」、書家「西川春洞」などの話は有名である。その他、この地域の出身といえる人たちに幸田文(小説家、露伴の娘)、西川寧(書家春洞の子)、滝田ゆう、三遊亭円歌、出羽錦、小川宏、清水一行、早乙女勝元、木の実ナナなど。

 亀戸の梅屋敷より遅れ、文化元年(1804)に、新梅屋敷とも呼ばれた梅の名所が向島の寺島村(現東向島)に作られました。これが、佐原鞠塢の手になる百花園です。

 佐原鞠塢は、江戸で骨董屋を経営し、当代一流の文人や諸候と交流してその風流気質が江戸市中に広く知られた人物です。鞠塢は、購入した三千余坪の土地に、交流のあった文人たちから梅樹360余種を集め、また、秋の七草や、『万葉集』等の古典に載る牡丹、芍薬、菊や薬草等を植えて一般に公開しました。さらに「隅田川焼」という陶器や手製の梅干しが作られ名物となり、四季を通じて多くの人々が訪れました。

 百花園は当時の風流人が集うサロンとなり、江戸後期の爛熟した文化を育んだ開放庭園の代表として位置づけられます。

 「御成座敷」は、百花園創設当時、百花園に集うお客様のために、酒井抱一が設計したと言われています。座敷は、この地域で「水塚」といわれる、隅田川の洪水に対処するため、池を掘り、その土で塚(基壇)を築いたものの上に立てられています。

 この建物は、11代将軍徳川家斉公がお成りになって以降、「御成座敷」とよばれ、多くの賓客をお迎えしました。その後、安政の大地震で倒壊して後、再建されましたが、この二代目の建物は東京大空襲で焼失し、昭和36年に集会施設として再建されました。

 さらに、この建物も傷みが激しくなったため、昭和61年に改築され現在の建物となっています。

 草花の栽培・鑑賞を目的とする園芸は、過密都市・江戸の暮らしにひとときの憩いをもたらす道楽として、江戸時代に大変流行しました。

 特に、大名や富裕な町人・農民が四季の草花を植えた庭園は、その一部が一般に公開されて江戸庶民に大いに喜ばれ、各地に観光スポットとしての名園が出現しました。なかでも向島や本所は、当時の著名な庭園が集中する江戸郊外の緑園地帯とも言える地域でした。

 本所・向島が江戸の園芸のメッカになった背景には、当時繁栄した植木屋の存在を無視して語ることはできません。特に向島には、江戸の園芸文化を支える著名な植木屋が多く居住していました。その中でも萩原平作という人物は代表的な植木屋と言え、将軍家お抱えの庭師を勤めたとも伝えられています。

 ガスも電気も、明治時代前半には使われ始めました。

 日本でガスの利用が始まったのは、明治5年(1872)のことです。ガスは最初はガス灯に使われていました。

ガス灯は街灯としてだけではなく、家庭用の明かりとしても使われてきましたが、電灯が普及するにつれて主に熱源として使われるようになりました。

 一方、電気は、明治11年(1878)、電信中央局の開業祝賀会の時に、電灯が灯されたのが始まりとされています。明治20年(1887)には、東京電灯会社が電気の供給を始めました。明治24年(1891)には、本所区が東京電灯会社の送電区域に入り、電灯が灯るようになりました。

 しかし、費用が高かったこともあり、一般家庭に電気が普及するのには時間がかかりました。また普及後も、電灯に使われる程度だったので、生活の大部分は昔ながらの道具に支えられていました。

 電気が一般に普及してからも、家庭で使われる電化製品はラジオや扇風機など、ごく限られたものでした。

 中でも暖房その他の熱を必要とする道具は、昔ながらの炭火などを利用していました。

 例えば、衣類のしわを伸ばすのに使うアイロン、これがない時代には炭火を利用した「火のし」という道具を使っていました。さらに明治のごろ頃にアイロンが登場しますが、電気製ではなく、熱源は炭火でした。

 電気のアイロンが生まれるのは、大正になってからです。

 食品を冷やす冷蔵庫はどんなものだったのでしょうか。

 冷蔵庫のない時代には、夏に食べ物を冷やすのに井戸の水を使っていました。夏の井戸水はとても冷たかったので、食べ物を冷やすのに適していたのです。

 最初の冷蔵庫は、電気冷蔵庫ではなく氷で冷やす冷蔵庫でした。

 木でできていて、内側にトタンが張られ、間に断熱材が入っている構造で、上の段の氷入れに氷を入れると冷たい空気が下にさがり、食べ物を冷やす仕組みになっていました。
氷は毎日氷屋から買い、届けてもらいました。また、今の冷蔵庫のように冷凍したり、氷を作ったりすることはできませんでした。

 電気冷蔵庫は、昭和5年(1930)には国産が始まっていました。しかし当時は家が一軒建つほど高額なものだったので、冷蔵庫がある家はほんのわずかで、とても庶民の手に入るものではありませんでした。今のように冷蔵庫が多くの家庭に行きわたるようになったのは、昭和30年代になってからでした。
 


 
名木クスノキ

 1924年(大正13年)の創立以来、15,000人を超える児童の学校生活を見守り、それぞれの巣立ちを見届けてきた。樹齢400年とも伝えられる「楠のき」は、高さ約6m、幹回り約2.7m、幹の中に大きな空洞ができており、年輪などで樹齢を測ることは困難だという。

 「緑色濃き楠の木かげに朝夕集いて・・・・・・・・・」、校庭のど真ん中にどっしりと構える「クスノキ」は、校歌でも歌い継がれている。運動会、入学、卒業の記念写真、クラブ活動・・・・・・・・・・。

 「
ニ寺」の象徴の木だと教えられ、昔から大切にしてきたと、同窓会会長(鎌倉徳之さん)のこの木に対する思いはひとしおだ。

 1942年(昭和17年)入学の会長は、その2年後、茨城県竜ヶ崎に集団で学童疎開した。そして、この辺りも空襲の惨禍が始まり、やむなく秋田県角館へ再疎開。

 終戦後、帰京すると、焼け野原となった墨田一帯の風景にぼう然とした。自宅も焼け、多くの学校も焼失したとも聞いた。

 だが、鉄筋コンクリートの校舎とクスノキだけは、そのまま残っていた。何ともいえない懐かしさに安堵した。一緒にいた友人らも声を上げて喜んでいた。クスノキを見上げると、今も当時の思い出がよみがえる。

 それから、半世紀経ち、クスノキに元気がなくなってきた6年前、葉っぱの大きさが小ぶりになり、黄色っぽくなっていたが、すぐに、江戸川区の 樹木医小池伸男さん(63)に診てもらった。

 結果は、「校庭のラバー舗装で地下に水分がしみ込みにくいため、、水分不足で衰弱している」といわれ、2001年(平成13年)3月、地下1.8mの深さまでセラミック製のパイプを10本埋め、地下水を吸収できるようにする「
大手術」がおこなわれ「緑色濃き」かっての姿を取り戻しつつある。

 戦前から樹齢400年といい伝えられてきた。これからも、後輩たちのシンボルであり続けて欲しい。
 




滝田ゆう(本名・祐作「漫画家」)

第2寺島小学校60周年記念誌(昭和59年)には、2ぺ−ジ見開きで「わがふるさと寺島町の思いで」と題した漫画が描かれている。戦前の寺島界隈の裏町のほのぼのとした情景が描かれている作品である。

 この作品を寄せてくれたのは、同校第20回卒業生(昭和18年卒業)の漫画家・滝田ゆうである。

 残念なことに滝田ゆうは、平成2年8月25日、58歳で肝不全のため亡くなった。没後、勲四等瑞宝章を授与された。

 この作品は、画文集「新東京百景・下駄の向くまま」(昭和53年)にあるが、その絵に添えて彼はこう綴っている。
 
 「ぼくはふと道端に立ち止まり、眼玉(まなこだま)閉じて奥歯
かみしめ、顎の痛くなるほど、あの日の町を想ってみるのだが、
ああ、やっぱりあの町は遠い・・・・・。

 故郷は遠きにありて、ナントヤラ・・・・・というけれど、これほど
近くにありながら、わが故郷のなんとまあ遠いことよ。ままよ、昔
は昔、今は今、ぼくは再び短い足を互い違いに、それでも依然と
してこの町を行くのである。

 そう、目ェつぶって、通り端から細い道筋へ、こう手さぐりしなが
ら少しずつ・・・・・すると、なるほど、だんだん甦ってくるんだねえ。
やっぱり・・・・・。くやしく、いとおしく、遠く、近く・・・・・・・・。」
 

 滝田ゆうは、昭和7年1月15日、向島区寺島5丁目31番地に生まれた。小学校時代の同級生によると、そんなに目立つ子供ではなかったが、絵を描くのが好きで、いつも黙って絵を描いていたという。彼よりむしろ、同期の三遊亭円歌の方がにぎやかで目だっていたそうである。

 滝田ゆうの少年時代のことは、漫画家として世の注目を浴びた作品「寺島町奇譚」(昭和43年から漫画雑誌「ガロ」に連載)からもうかがえる。

 この作品は、生まれ育った寺島町を舞台に、かっての彼を思わせる少年きよしを主人公にした物語りである。スタンドバー・ドンを営んでいた母、義太夫に凝っていた父も登場している。
 「おはぐろどぶ」ほか6編からなるこの作品では彼は、いわゆる劇画調の直線的で硬いタッチとは全く異なり、丸みを帯びた、ぐにゃりとした線による人物描写の技法を確立した。

 その人物描写と相まって、人物を包み込む背景には下町の雰囲気と哀愁が切ないほど醸し出されている。滝田ゆうならではの独自の画風を確立したのであった。彼を育てた町は、かの永井荷風が「墨東綺譚」の舞台として描いた町もあった。

 彼の作品は、昭和49年に「怨歌橋百景」などで文春漫画賞、昭和62年に「裏町セレナーデ」で日本漫画協会大賞を受賞する。漫画だけでなく、前項の書の他、「昭和ベエゴマ奇譚」「昭和夢草紙」「変調・男の子守唄下町望郷編」「ぼくの東京ぶらぶら旅行」「さらば墨東夢明かり」などのエッセイや画文集も著している。

 それらの本のあちこちには、生まれ育った裏通りドブ板小路を自分の「出発の町」「幻の町」として「紅明かり」をあてた文章や画がちりばめられている。中でも、彼の少年時代の生活や思い、言葉、遊びなどを彼一流の文章で読むと、戦前の下町風景が夜店の裸電灯照にらし出されたように浮かび上がってくる。

 ニ寺小を卒業後、彼は都立七中(現・墨田川高校)から国学院大学文学部へ進むが、中退。その間、東京大空襲を受け、寺島5丁目から東向島6丁目に転居。

 当時、隣家で今もそこに住むKさんによると、滝田ゆうは2諧の部屋にほとんど閉じこもって画を描いていたという。小学生だった、Kさんの姉が夏休みの宿題の図画を滝田ゆうに描いてもらったら、担任にこんなに上手に描けるはずがないと叱られたそうである。

 18歳のとき、田河水泡に弟子入りする。田河宅での修業は、漫画そのものより行儀見習、家事万端の手伝いであった。やがて、水泡の紹介で昭和30年代流行した貸本漫画を書子とになり、彼の漫画家としての第1歩が始まった。

 しかし、貸本漫画が衰退してから貧窮時代が続く。頼まれもしない原稿を書いては、出版社巡りをする数年間があった。そのころの思いを彼はこう記している。

「漫画を一生のなりわいとして書き続けていくならば、ぼくは、
ぼくなりの世界にとっぷりつかってしまわなければ気がすま
ないし、・・・・・夢はあくまで夢として持ち続けるしかない。」

 その夢が結実したのが、「寺島町奇譚」であった。以後、下町を書かせたら彼の右に出る漫画家はないといわれるようになっていく。

 しかし、滝田ゆうのトレードマークである着流しの下駄履き姿も、もう見ることはできない。子供の頃から素足に履きなじんできた下駄は、遊び回った寺島町の匂いとともに彼の体の一部になっていたに違いない。

 「寺島町奇譚」の少年「きよし」をはじめ、彼の作品に登場してくる小学生には、学帽をかぶっている姿が多いが、その学帽の帽章には、必ず「二寺」という文字が描かれている。