◎白鬚防災団地
関東大震災から9月1日の「防災の日」で90年。 多くの人が火災で亡くなった教訓をもとに、約30年前、木造住宅が密集する東京の下町地域に、延焼を食い止める「壁」となる巨大な都営住宅が建設された。当時の技術の粋を集めた「下町の城郭都市」として注目を集めたが、現在は建物の老朽化、住民の防災意識の風化が進む。建設当初を知る住民らは「震災の貴重な教訓をなんとか伝えなければ」と危機感を募
らせている。
。 東 京都内有数の木造住宅密集地域(木密地域)である墨田区北部地域。隅田川沿いの1.2キロにわたり、13階建ての高層宅が南北に18棟連なり延々と団地が長城のごとく連なる光景が見られる。 場所は隅田川左岸の墨田区堤通2丁目、最寄り駅は東武線の東向島か鐘ヶ淵になる。
その長城のように連なる団地の正体は都営団地「白鬚東アパート」1〜18号棟と東京都住宅供給公社のコーシャハイム1棟。住宅を挟んで西側の川沿いにある東白鬚公園一帯は、災害時に約4万人が避難することが想定された避難場所だ。 同住宅は、地震などの災害で木密地域で火災が発生した場合、避難場所に逃げ込んできた住民を炎から守る役割を担い、
昭和40年代に構想が練られ、構想から10年以上を経て、 1982年に18棟の団地が連結して造られた。 関東大震災では、 この住宅から4キロ南にあった陸軍被服廠 跡に避難してきた約3万8000人が火災で犠牲になった。この悲劇を教訓に、工場や民家が立ち並ぶ一帯を再開発して、防災拠点として住宅と避難場所を整備する一大プロジェクトだった。
炎を完全に遮断するため、建物と建物の間には巨大なシャッター。棟の屋上には水を蓄えるタンクを備え、センサーで熱風を感知すると、屋上から水を流して、建物を冷却する仕組みも作った。また、火だるまになった避難民に水をかける放水銃など、火災を想定したあらゆる装備も備えた。
「人が住む壁」とも言われ、住宅が完成した直後から、住民たちの間には「自分たちが地域を守る」という防災意識が強かった。白鬚東第一自治会の田村智昭会長(74)は「いざというときには周辺から何万人もの人が避難してくる。『エスコートするのは我々』という思いが常にある」と話す。だが、築30年を超え、この住宅を取り巻く環境は変わりつつある。 住宅を管理する都は2003年、重要な設備と位置づけていた放水銃や火災時に建物を冷やす設備などの維持管理を取りやめた。「下町地区の不燃化が進んだ」ことが主な理由だが、事実上の使用中止措置だ。 団地のすぐ東側を並行して走る墨堤通りは白鬚団地に差し掛かると片側2車線に拡幅されている。そして団地を挟んだ西側は広大な緑地帯のある「防災公園」となっている。そして隅田川といえばホームレスのテントである。白鬚橋の袂にも容赦なく掘っ立て小屋が並んでいる。目の前の防災団地などどこ吹く風である。 墨提通りの前から見る2号棟1階部分は店舗スペースとしてクリーニング屋や業者などが入居している。墨提通り側から見ると、はるか向こうまで団地が延々と連なっている様子を眺めることが出来る。 これだけの大規模団地は東京広といえどもあまりお目にかかることはないだろう。団地に沿って店舗棟も並んでいる場所はあるにはあるが、潰れた店も多くあまり栄えているとはい得ない。築20〜30年程度でそれほど古くはない団地ではあるが寂れ方が激しい。 また、白鬚橋のたもとには白鬚団地の建設に際して予定地から立ち退く事となった町工場が代替地として移転してきた工場棟「白鬚東共同利用工場」が建てられている。 2号棟、3号棟の間の連結部分。この団地が伊達に防災団地とよばれているわけではないのは、この連結部分の特殊な構造を見ただけで理解できる。 両側の棟の隙間に上から下までずらりと取り付けられた鉄扉は、震災などによる火災発生時の防火扉としてきのうするせっけいになっている。まさに見ての通りの鉄壁の守りである。 鐘ヶ淵界隈は繊細を免れた地区もあって、戦前から残る古い木造住宅に町工場が密集する街並みが未だに残っている。震災時の火災リスクが高いという事で、このような防災団地が作られたという。墨提通りを挟んだ鐘ヶ淵の住宅街が大火に見舞われた際は、この団地の西側の防災公園に避難すればOK。 ちなみに墨堤通り側は住宅のベランダが連なっている訳だが、各戸ごとに防火シャッターが備え付けられており非常時にはシャッターを閉めれば延焼を防ぐ事が出来る設計になっている。 防災公園側から見ると、団地の建物5階部分に等間隔に設置されている赤い放水銃が目に付く。 これらも火災発生時には火の手から住民を守るために使われるもの。 どこを見てもわずかな隙も感じさせない完璧な防災仕様。白鬚団地完成時から現在まで、これらの防災仕様が役立った事は一度もないのは幸いである。 連なる団地を跨ぐために設けられた5つのゲートも、同様に防火扉が設置されている。南から順番に白鬚橋門、寺島門、水神門、梅若門、鐘淵門と、それぞれ名前が付けられている。 西側の防災公園も、東白鬚公園という名称がある。かなり高密度に植樹されていて鬱蒼とした雰囲気で、植えられた木々も、ちゃんと延焼しにくい種類の常緑広葉樹ばかりを選んで植えている「防災樹」 隅田川河畔に「隅田川神社」があり、神社の参道にあたる部分だけが桜並木になっている。墨堤通り側から見ると6号棟と7号棟の間に鳥居と「隅田川神社参道」と書かれた石碑があり、神社へは団地の間を抜けてこの道を通って、風情を唯一いるのが 隅田川神 社 。 隅田川の総鎮守であり、源頼朝が開いたという言い伝えもある由緒ある神社なのだが、この神社自体も再開発計画で1975(昭和50)年で100m南側の現在地に移転している。 社殿のすぐ後方には首都高向島線と隅田川。隅田川神社は浮島神社とも水神社とも呼ばれている。防災団地のゲートの一つが「水神門」なのもこの神社に由来している。桜の開花時期や例大祭があるとき以外は訪れる人も少ない。 防災公園を抜けた北側は 水神大橋 の前の道路を挟む形で小高いデッキで結ばれている。そこから団地全景を広く眺める事が出来る。 水神大橋の正面に控える防災団地の方はというと、やはり幅広道路の隙間を埋めるように鉄のアコーディオンカーテンが設置されている。よく見るとその両側の建物2棟は住居棟ではない。防災備蓄庫になっている。 2棟の防災備蓄庫の間を片側2車線道路が走る。 1989年に架けられた水神大橋の向こうは南千住の汐入地区。大規模マンション街としてすっかり再開発、 防災団地北側に出ると、5つあるゲートの最北端にあったのは「鐘淵門」だ。このゲートだけ他の4つのゲートとは少し形状が異なっている。鐘淵門の間に広がる団地の吹き抜け部分。13階建てのコンクリート壁が眼前の周囲四方を支配する。鐘淵門を潜り終えると、そこに現れたのは4階建ての高さでそのまま一組になった頑丈な鉄扉だ。あまりにでかすぎて遠近感すら掴めなくなってしまう。 防災公園の中央には巨大な火消しの纏を模ったモニュメントまで飾られている。この団地は一体どこまで「防災」一筋に情熱をは凄まじい。隅田川河畔と言うと関東大震災に加えて戦災による被害が激しかったという歴史的経緯がある。 ちなみにこの土地にはかつて「鐘淵紡績」の紡績工場があった。1962年に工場の創業を停止、1969年に工場閉鎖後、跡地の一部が白鬚団地となったのである。 その鐘淵紡績といえば、現在は化粧品で馴染み深い「カネボウ」である(現在はクラシエホールディングス株式会社。化粧品部門はカネボウ化粧品として分離・営業譲渡されている)。カネボウの「カネ」は鐘ヶ淵の「鐘」。
◎隅田川神社
隅田川村にあり、隅田川の左岸に臨み、水神船霊の二神を祀れる故に水神の森と称し、今猶水村の景趣を存す。昔はこの森の南に、奥州街道に當りし隅田宿ありしといふ。源頼朝・大田道灌など此の邊に橋架をせし事ありと言傳へられ、又在原業平が 「いざ言問はむ都鳥」
と詠みし處ならんといふ。と記載されていますように、かって江戸時代以前には、この近辺には橋が架けられえていたといわれ、隅田川を行き交う舟も、この近辺の古杭が障害になっていたとの記録もある。 江戸明治の地図を見ても判りますが、当時は隅田川に注ぐ支流や堀が多く、この近辺には橋がなかった為、渡し舟が隅田川を渡る交通手段でした。しの後明治中ごろから昭和の初めまでは、「水神の渡し」が出来ますが、その名残なのか、昭和63年にこの位置に架けられた橋は「水神大橋」という名前がつけられています。
◎木母寺
木母寺は室町時代の謡曲「隅田川」で取り上げられ、その後は能や歌舞伎でも演じられた「梅若伝説」の舞台として知られる。 江戸時代には公家や武家、庶民を問わず参詣客が訪れた。今回見つかったのは五代将軍綱吉が参詣する際の御殿詳細を記した「隅田川御殿之図」と「隅田川御殿御指図」。個人が所蔵していた絵図を郷土文化資料館の専門員が鑑定士、いずれも原図と確認した。指図」。 同館によると、隅田村の名主・坂田家が作成したとされる「御殿之図」は、明治以降に透写したものをと公文書館が所蔵しているが、原図の存在が確認されたのは初めて。透写した複製資料にはない御殿内への将軍の入り口を示す「御籠臺」や随行医者の詰め所など詳細な記載があることが原図の証明になったという。 一方、「御殿御指図」は建物の設計図とみられ、天井の形状や素材、将軍来訪時の動線などが詳細に記載されている。2枚の原図が見つかったことで、「御殿之図」に描かれている御殿と木母寺の絵図は「御殿御指図」を基に描かれたことも分かった。
◎水神大橋
水神大橋は、隅田川にかかる東京都道461号吾妻橋伊興町線支線の橋。西岸は荒川区南千住8丁目、東岸は墨田区堤通2丁目。橋名は東岸にある「隅田川神社(水神宮)」に因む。 創架は 1989年(平成元年)3月。橋の組み立てを陸上で行い、橋桁を台船に乗せて干満の差を利用して橋脚に乗せるといせるという方法を利用した。 付近の 汐入公園、東白鬚公園は東京都の防災拠点として位置づけられており、そのため双方を繋ぐ連絡橋として千住汐入大橋と共に計画された。当初は歩行者専用橋で、接続する道路の整備が完了した平成8年(1996年)7月10日より自動車道路供用が開始された。もともと「 水神の渡し」という渡船場があった場所でもある。
橋の概要
種 別 |
鋼道路橋 |
形 式 |
3径間連続 ニールセンローゼ桁橋 |
橋 長 |
157.0m |
最大支間 |
102.0m |
幅 員 |
17.0m |
着 工 |
昭和 59年(1984) |
竣 工 |
平成 元年(1989)3月 |
事業主体 |
東京都 |
橋梁設計 |
東京エンジニアリング |
橋桁製作 |
三菱重工業 |
◎鐘紡紡績
明治20年(1887)「東京綿商社」が ここ鐘ヶ淵に創立され、紡績工場を創業。 明治26年(1893)には社名を「鐘淵紡績(株)」に改称、ここ鐘ヶ淵の工「東京工場」と呼ばれた。鐘紡は、各地に工場を広げ,
世界有数の紡績会社となったが、昭和44年1969)東京工場は操業を停止した。 昭和10年(1935)人造絹糸(人絹)の生産が始まった。政府は羊毛に代わる人造綿花(スフ)の生産を緊急の国策としたため、鐘ヶ淵紡績(株)では1937年(昭和12年)生産を始めた。政府は人絹統制令を公布し、人絹の生産量を減らし、スフの増産を命じたので、防府工場ではスフの生産に切り替え、昭和16年(1941)には人絹の生産を中止した。太平洋戦争が始まると、昭和18年(1943)鐘ヶ淵燃料工業株式会社が設立され、航空機燃料工場となりました。戦後、すべて国有財産。 「鐘淵紡績」は「鐘紡」「カネボウ」と社名を変更し,多角経営を推進して業容を拡大したが、1990年代後半からの経営不振を粉飾決算を糊塗することを繰り返し、ついに2004年から産業再生機構の下で再建がはかられた。 その結果
2007年に,カネボウは子会社の「カネボウ化粧品」を花王に売却し,同時に「カネボウ」の商標は「カネボウ化粧品」に譲渡され,カネボウ自体は解散してクラシエ・グループとなった。 この過程で 旧・カネボウグループは大幅に整理され,この地にあった「カネボウ物流」は
カネボウ化粧品の系列会社「KCロジスティクス」と名称を変更した。同時にカネボウ物流の会社構内にあった鐘紡記念公園は
会社の東側の一角に移され.「鐘淵紡績発祥の地」の石碑や
同じ場所にあった「震災記念観世音菩薩」や「大震災復興記念碑」などがここに移設された。「鐘紡記念公園」は現在「カネボウ物流公園」という名前で 近隣に公開されている。
発祥碑由来記
此の地は古くから沈鐘の伝説があり、江戸時代に入って
将軍徳川吉宗公が之の引揚げを下命しましたが成功せず、鐘は毎夕月の出と共に燦然として光を放ったといわれます。周辺の風光明明媚を愛でて徳川氏はこゝを将軍家専用の野菜畑とし御前栽と称しました。 明治二十年近代工業の先覚としてこの地に東京綿商社が設立せられ、紡績機械ニ万九千錘を英国より輸入して、東洋第一の紡績工場を建設、明治二十二年社名を鐘淵紡績株式会社と改称しました。
爾来近代日本の進展と共に工場は拡大し、その技術は全国津々浦々に結実し製品はカネボウの名声と共に遠く欧米各国を席巻しました。また過ぐる関東大震災、東京大空襲当時その職に殉じて斃れた者は五十余柱に及びました。 いまこゝに時代の進運と共に工場の移転を実施するに当って鐘紡稲荷神社並びに慰霊観音像を奉安し八十余年に亘ってうってうけたこの地域社会の御かげを感謝すると共に老人と児童の憩いの場を設けて記念庭園とし永く先人の偉業を偲ぶよすがとなることを切願するものであります。
昭和四十年十月二十日 鐘淵紡績株式会社 社中一同 明治19年(1886)に綿問屋の三越・大丸・白木屋・荒尾・奥田の5軒が集り、三越得右衛門を頭取として東京綿商店が設立されました。翌年、資本金を10倍に増加させ、隅田川河畔
鐘ヶ淵の宏大な土地に紡績工場を建設して、明治22年(1889)に操業を開始、名称も有限責任鐘淵紡績会社と変更しました。これが、現在のカネボウ株式会社です。 鐘淵紡績は、設立当初こそ経営難に見舞われたものの、他社を吸収合併する中に、日清戦争を機に大発展を遂げ、世界有数の紡績会社となりました。
平成13年3月 墨田区教育委員会
◎日活向島撮影所
活動映画が盛んに撮り始められた明治末期から大正 初期にかけて、この地はかつて、南葛飾郡隅田村と呼ばれ、田園地帯で、空気は澄み、映画撮影に最適なところでした。旧墨田区立堤小学校があったところは、杉山茂丸の別荘地で、7500u。大正2年、日本活動フィルム(後の日活)は、この地を買収し映画撮影所を開設した。 日活向島撮影所は、かつて東洋一の映画スタジオといわれ、近代日本映画の礎を築き、吾妻橋からも陽光にきらめく屋根が望めたという。 総ガラス張りのグラスステージとよばれる当時東洋一の広さを誇るスタジオは注目を集め、天気に左右されず撮影できるようになったことで、日本映画の質の向上に貢献した。ここで撮影された作品は「向島作品」といわれ、映画「カチューシャ」など不朽の名作を世に出した撮影所。 自体は、大正12年の関東大震災での震災は免れたものの、震災の被災により世情、が映画どころではなかったため、時勢に合わせて、閉鎖されました。 かつて東洋一の映画スタジオといわれ、近代日本映画の礎を築いた日活向島撮影所「グラスステージ」、現在、区内で映画をご覧になれる場所は限られていますが、もともと、すみだは近代映画産業発祥の地だったことをご存じでしょうか。明治34年に外国映画が日本に輸入されると、国内でも本格的な劇映画制作の機運が高まってきました。そのような中、国内の映画制作会社4社が合同して誕生した日本活動写真フィルム株式会社(日活)が、大正2年に旧堤小学校あたりに映画撮影所を開設した。 撮影所の中には、目玉として、敷地面積900uを誇る総ガラス張りのスタジオ「グラスステージ」が建てられ、大きな注目を集めました。これにより、天気に左右されず様々なシーンの撮影が可能となり、日本映画の質は飛躍的に向上しました。スタジオでは、大正初期のヒット作品「カチューシャ」をはじめ、760本にも及ぶ映画が制作され、「向島作品」として一世を風靡した。 大正元年(1913)10月
正式開業〜1923年11月14日閉鎖)は、かつて存在した日本の映画スタジオである。大正期の日活の2大撮影所の一つとして、現代劇を製作し、製作物(映画作品)の配給はすべて日活本社が行った。新派劇を得意とし「日活新派」と呼ばれた。 明治45年(1912)10月1日、合併により営業を開始した日本活動写真株式会社(日活)は、M・パテー商会、福宝堂、横田商会、吉沢商店のそれぞれの撮影所のうち、前者2社の撮影所を閉鎖し、京都の横田商会の法華堂撮影所、東京の吉沢商店の目黒撮影所を稼働させた。閉鎖された撮影所の従業員は一部日活に引き継がれたが、京都に配転されても旅費も出ず、目黒の周囲にたむろしていた。 旧福宝堂の撮影技師・吉本敬三の設計により、同年2月に着工した。工費は公称約2万5,000円で、目黒を超える本格的グラスステージが同年10月には完成、稼働が開始した。目黒の旧吉沢商店のグラスステージが閉鎖され、最終的には向島撮影所を現代劇、関西撮影所を時代劇に使用するという形で決定がおこなわれた。現在東映が踏襲する東西撮影所の棲み分けの原型が生まれた。 大正3年(1914)に入るとますます日活は欠乏し、経費節減で新作の製作を抑えにかかった。同撮影所では、吉沢商店時代に佐藤紅録や藤沢浅次郎の薫陶を受けて自由に育った演出部の小口、桝本、俳優部の関根、立花らは新しい表現を目指した。同年3月に島村抱月の芸術座が公演した、レフ・トルストイの小説『復活』の新劇への翻案が脚光を浴び、松井須磨子が劇中で歌った『カチューシャの唄は一世を風靡した。 第1作は、大正9年(1920)12月31日公開の田中栄三監督作品『朝日さす前』である。大正10年(1921)の正月興行から、同撮影所に「第三部」が設置され、中山歌子、酒井米子、ら「女優」をフィーチャーした映画を製作、公開した。前年に松竹キネマが小山内薫の新劇に裏打ちされた映画を製作し始め、日本映画に女優の歴史が始まったからである。 大正12年(1923)年9月1日の関東大震災により、同撮影所は壊滅、日活以前のフィルムアーカイヴもすべて灰燼に帰した。本社は非常事態に会社を解散し、1,000人の従業員の解雇を宣言した。それでも同撮影所では、溝口健二、鈴木謙作、細山喜代松が震災をテーマにした作品を製作した。同月18日、大将軍で、溝口と村田がクランクインした。 同撮影所の歴史は終焉した。製作費 :
2,000円
(1917年〜1923年当時)大学卒業者や銀行員の初任給が50円の時代の2,000円は、現在の前者が25万円として概算すると、約1,000万円程度に相当する。 跡地は、平成25年(2013)4月1日に開校した墨田区立桜堤中学校の敷地となっている昭和52年(1977)2月1日、同地に墨田区立堤小学校が設立されたが、平成23年2011(2011)4月に梅若小学校と統合され廃校となっていた。』。 平成10年(1998)11月、日本映画建碑委員会が、墨田区教育委員会、日本映画テレビ技術教会、日本大学藝術学部、日活、フジワラプロダクションズ協賛を得て「近代映画スタジオ発祥の地」の碑を建立した。
墨提 墨田区の過去未来
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