すみだ

 奈良時代、律令国家が成立し隅田川が下総国と武蔵国の国境に定められました。奈良の東大寺正倉院に伝わる戸籍によると、養老五年(721年)頃の向島地域は、葛飾郡大嶋郷という村落の一部であったとされています。
  
平安時代初め頃、幹線道路が大嶋郷を通過し、隅田川には渡船場が整備されました。在原業平の都鳥の故事は、この渡しを舞台にした物語だとされています。
 平安時代初期の「伊勢物語」東下りで有名な在原業平がこの歌を詠んだ所は、言問橋ではなくて、隅田川の渡しのうちでも最も古い「橋場の渡し」とされていて、現在の白鬚橋タモト付近。


   名にし負わば いざ言問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと

 橋場の渡しあたりは、業平だけでなく平安時代から源氏など東国武士が奥州に行くルートにあって、周辺には武運を祈った神社なども。
 かつては古利根川・荒川・入間川の合流地点で、近くには現在も「汐入」という地名が残る江戸湾の最奥部だったところ。当時の奥州街道は隅田川で唯一の橋場の渡しをいくのが筋だった。橋場は、船2艘を4艘に増船したと書かれた承和2年(835)の記録が残る国営?の渡し場、街道の要衝になっていた。
 東の岸には「隅田の宿」ができて、一時は"隅田千軒"といわれるほどの賑わいがあったようだ。西の岸には、西国から大型船も着ける港「石浜の湊」もあり、東西両岸で海上と陸上の交通が活況を呈し、鎌倉幕府の成立の頃には、平氏の流れをくむ武蔵の豪族江戸重長の軍事拠点「石浜城」もあったという。
 向島地域は、渡しの整備により都と地方を結ぶ村落として栄えました。平安時代末期、隅田川の周辺には隅田宿と呼ばれる集落ができ、交易の場として発展しました。源頼朝が隅田宿に大軍を駐留させた記録も残っています。都人や各地の商人が宿を訪れ、そんな旅人たちの伝説も生まれました。
 
隅田の宿、石浜城、石浜の湊とも当時の遺跡などもなく、源頼朝の鎌倉時代末期の歴史書「吾妻鏡」によれば、13歳で平治の乱に初陣し敗れて殺されるところを命乞いによって伊豆蛭ヶ小島(ひるがこじま)で20年間流人生活を送り34歳になっていた源頼朝が、治承4年(1180)伊豆で旗上げ。初戦の石橋山の戦い(神奈川県小田原市)でマタ敗れてしまい、船で房総安房(千葉県鋸南町)へ敗走。頼朝は、そこで数万の軍勢を整え再挙兵して市川まで来たが足止め、ようやく隅田川に船をならべた浮き橋を作って渡河して陣を張り、これに石浜城にいた重長がようやく参上して頼朝軍に合流。重長がしつらえた浮き橋を渡って滝野川、板橋から府中、相模をへて鎌倉に入り、その後義経の活躍などがあって幕府を樹立。
 女性作者後深草院二条による鎌倉時代の正応三年(1290)にこのアタリには、清水や祇園の橋に似た「須田の橋」という大橋が架かっていたと記録されていて、現在の「橋場」の地名のモトになったとも。頼朝は文治5年(1189)にあの世界遺産の平泉の藤原氏を滅ぼし、遠征の際に石濱神社に祈願して、成就したお礼に社殿を造営した。

 1333年の鎌倉幕府滅亡と建武新政の開始から、1573年の足利義昭の追放による室町幕府の滅亡までをいう。足利時代とも。朝廷が分裂して対立した前期を南北朝時代、応仁の乱から関ヶ原の戦いまで全国で戦乱が起こる後期を戦国時代とすることもある。
 室町時代の能「隅田川」で有名な梅若丸をめぐる悲劇も、隅田宿を舞台にした代表的な伝説の1つです。
 
ただし、安土桃山時代がいつ始まるかという問題の絡みで、1568年の信長上洛で終わったとか、1576年の安土築城で終わったとする見方もある(どの場合でも、室町時代が終わる=安土桃山時代の始まりである)。なお(日本の)中世後期といった場合は、室町時代を指す用法が一般的である。
 さて、時は家康が江戸に入った後の文禄3年(1594)、その時代隅田川で一番最初の、現在の千住大橋のモトとなる「大橋」が架けられます。となると、今まで利用されていた橋場の渡しや隅田の宿への道筋が変わってしまい、栄えていた隅田の宿は成り立たなくなり、宿場の関係者はどうやら千住に移り住んでしまったようで、付近は、静かで美しいモトの隅田村、寺島村に。利根川の流れが変わってきて隅田川の水量も減って、水運は往時の活況さがなくなり、やがて石浜城も廃城に。

 徳川家康の江戸開府を契機に、本所の開拓が行われはじめ、明暦(1657年)の大火以後、更に本格的に行われます。犠牲者の供養のため回向院が建立され、両国橋がかけられました。
 本所地域は、武家屋敷、寺社、町屋で構成され、忠臣蔵で有名な吉良上野介の屋敷もありました。
 向島地域は、農村の景色が広がる一方で大名下屋敷なども散在していました。野菜や果物の栽培を行い、江戸の町から肥料の供給を受けていました。
 今ある言問橋西の交差点はかつて「浅草追分」と呼ばれ、奥州街道や宇都宮まで重なっていた日光道中などの道筋で、南から北上すると左右に分岐するので"追分"。片や左へ行くのが、千住大橋が架けられてからのメイン・ストリートで、かつては、たんぼ道に家三軒があって三屋、三家から"山谷"となったとも言われる所を通って南千住経由で千住大橋に至る道で、現在の江戸通りにつながる吉野通り

 年月がさらに過ぎて明暦3年(1657)徳川幕府4代将軍家綱の時代、東岸には、「隅田(川)御殿」というものがつくられて歴代将軍が足を運んだそうだ。今ではほとんど知られていない。"春のうららの墨堤には、8代将軍吉宗になると多くの桜が植えられ年々増えて・・・。風光明媚な「桜の名所」として当時の錦絵にも残る。

 一方の西岸では、同年正月に発生した「明暦の大火」ののち、旅人が通ることもなく静かだった観音裏の浅草田圃に突如、日本橋から遊郭街が移転してきて「新吉原」が。 隅田川から通じる山谷堀には猪牙舟(ちょきぶね)が浮かび、多くの船宿や江戸随一と評判になった八百膳や有明楼といった高級料理屋もできたようで、浅草観音や芝居小屋の賑わいともあいまって・・・。 浅草が「江戸第一の繁華の地」となっていく。
 それまで浅茅が原、浅草田圃と呼ばれていたところに町並みが形成されると、江戸の郊外地扱いだった石浜 橋場、今戸、山谷、浅草などのエリアは江戸「町方」に組み入れられて町奉行所の管轄区域に、また、本所の北になる向島は町方範囲外の地方(ぢかた)のまま、代官支配の郊外地として明治に移っていく。

 江戸幕府が倒れ、墨田区域は明治元年(1868年)に東京都の管轄に入り、明治11年(1878年)には本所区と南葛飾郡に編入されました。
 明治以降、武家屋敷跡が容易に取得でき地価が安いことや水運の便がよく、多くの工場が建てられ、産業の中心に。
 大正12年(1923年)の関東大震災によって大きな被害を受け、とくに本所区の被害は甚大でした。帝都復興計画によって大規模な土地区画整理が行われ、より多くの工場が密集し労働者で賑わう東京有数の人口過密地域となりました。
 昭和7年(1932年)には、隅田村、寺島村、大木村、吾嬬村が合併され向島区が誕生しました。
 昭和20年(1945年)3月10日、東京大空襲をはじめとした米軍の空襲を受け、再び焦土となり、人口が戦前の25%まで減少しましたが、東京都の区域の再検討が行われ、本所区と向島区が統合され、昭和22年(1947年)3月15日、墨田区が誕生しました。
 昔からの人情と文化、活力のあふれたこの街に新しいシンボル(東京スカイツリー)平成12年(2012)に竣工し、日本全国いや世界から観光客が押し寄せています。



隅田堤の花見

 花見の場所数あるなかで墨堤の花見ほど賑わうところはない。飛鳥山は遊ぶのによろしいところだが、帰途が日暮れになると婦女子の恐れる野道や人通りの少ない屋敷町寺院地があるから避けたいところである。道灌山は近いが花の少ないのが残念である。上野は霊地清浄にして御山内
(ごさんだい)の規則があるので、恣(ほしいまま)に鳴り物を鳴らし陽気に振舞うことができない。向島は隅田川の清流船の便がよく堤上堤下に、掛け茶屋が多くある。向島から隅田川を渡し舟で行けば、金龍山の寺内が賑わっており、少し進めば吉原の遊里から山谷の粋地(すいち)、堤上は左右から空を隠すばかりの桜花、東面に田圃、西面に繁花(はんか)、隅田川に浮かぶ都鳥が、いざ言問(ことと)わん在五中将(ざいごちゅうじょう、在原業平のこと、在原氏の五男で右近衛権中将からこう呼ばれた)の昔が偲ばれる。梅若の由来から源頼朝朝臣の故事にわたり、近きは文士墨客が風流で雅俗とも備わる名勝として花に戯れるところとなっている。


※在原業平の歌に、「名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」(古今和歌集収録)がある。業平が渡守に、「これは何鳥ぞ」と問うたところ、「これなむ都鳥」と答えたという。歌の意味は、都といふ名が付いているなら、都鳥よお前は都のことを知っているであろう。さあ、お前に尋ねてみたい、都に残してきたわたしの愛する人は生きているのか、いないのか、と。

※梅若=能の「隅田川」に登場する。「隅田川」は、吉田梅若が人買いにかどわかされて隅田川の畔で死んだ故事をもとにしている。梅若は、「尋ね来て 問わば答えよ 都鳥 隅田川原の 露と消えぬと」の辞世の句を残している。

※源頼朝の故事=頼朝は旗揚げ後、小田原石橋山の戦で破れ、房州に逃れる。その後下総で再起した頼朝は、房総武士団を糾合、数万の大軍をもって隅田川の石浜付近を渡河し、鎌倉へ向かったという。



向島

 向島は江戸時代から歴史上の人物、文人に愛され、居をかまえる人も多く文人墨客の集う由緒豊かな地としても知られて、江戸文化の残る街「向島」、1月15日はまだ松の内「吉祥の獅子」が廻り江戸文化の笛と太古と鐘とが目出たさを舞う。「向島」東京都墨田区、隅田川・北十間川・曳舟川通り・鳩の街通りに囲まれた地域。現在の都営白鬚東アパート付近に隅田川御殿という徳川将軍の休憩所があり、その北西にかつて隅田川に向かって流れていた内川(古隅田川)が隣接していたため、その対岸となる北西の島部を「将軍の向島」と呼んだことに由来するといわれる。向島には花街(花柳界)が存在し、芸妓数は100名以上を誇り伝統文化を守り積極的に活躍している。「むこうじま」の「むこう」とは、浅草からみて、隅田川の向こう側にあたる場所を指して、向こうの島と呼んだことがはじまりで、文人墨客が作品の中で独特の想いと趣を込めて「向島」と著し、定着した。花街とは古くからの日本の礼儀と作法、そして着物の着こなしを身に付けた芸者さんのいる料亭街のことをいい、昭和の初期には東京都内だけで40数ヵ所の花街がありました。現在はその数も減り、大きな花街は、六花街と呼ばれる向島・浅草・新橋・赤坂・神楽坂・芳町を残すのみ。向島は、現在でも120名の芸者と16軒の料亭が残る、東京で最大の花街、芸者さんは「置屋」というプロダクションのようなものに所属をし「見番」に芸者としての登録をして料亭のお座敷に上がります。江戸からの伝統を引き継ぐ職人の技、両国国技館での大相撲、向島の花街文化、隅田川の花火、ものづくりの技術、墨田区は江戸「そのもの」です。平安時代、伊勢物語の中心人物在原業平(ありわらのなりひら)の歌と名前に縁のある「言問橋」「業平橋」江戸時代、大川(現在の隅田川)の向こう側にある島「向島」、武蔵の国と上総の国(現在の千葉県)の二つの国を結ぶ「両国」、『忠臣蔵』その討入りの舞台となった吉良上野之介の屋敷は、墨田区本所にありました。官軍の西郷隆盛と会談し、江戸城の無血開城により江戸市民を戦火から守った「勝海舟」は両国で生まれました。



謡曲・隅田川 

 世阿弥の息子、観世元雅の作と伝わる謡曲「隅田川」は春の隅田川を舞台に、母子の愛情を描いた能舞台で、泣き申楽(泣き能)とも呼ばれ、母子をシテ(主役)とした観世元雅の代表的傑作とされています。

 元雅の作った能には、この「隅田川」の他にも「弱法師」「盛久」「歌占」などがあり、いずれも人のこころに響く厚き人情をテーマとしたものです。

 写実的で劇的な泣き能と世阿弥も花伝書で評しているように、「幽玄」という深い余情のある上品な優美さを「花」とし、夢のような世界を舞台で実現することを目指した世阿弥の能とは好対照をなしているようにもみえます。

 「隅田川」のようなわが子を一心不乱に捜し求めてさすらう悲劇の母を描く「泣き能」はそれまでにも多く作られていました。

 結末は母と子が再会を遂げるというハッピー・エンドを迎えることがほとんどです。ところがこの「隅田川」のみが悲劇的な結末で幕を閉じます。