近代墨田



 

 江戸時代、墨田区にあたる地域は、大都市江戸の外周部であった。そして、調査対象地である鐘ヶ淵周辺地区は、荒川と隅田川に挟まれた低湿地の水田地帯であった。当時は隅田村と呼ばれており、この地域では最古の村落であった。当時の産業というと、瓦焼き、染色、皮革などの地場産業がある。
 明治期に入った頃、大規模工場が当地区に進出した。そしてその大規模工場に関連のある人の町として、工業、商業が共に発展する地域となった。明治3年(1870)頃の隅田村は、戸数179戸、人口1000人程度の農村であった。隅田川以西は都市であり、以東は農村という構図が、明治の中期まで続いていたのである。しかし、都市化・資本主義化の流れは、近郊の農村に、変容を迫るようになった。

明治22年(1889)年、現在の墨田5丁目に鐘淵紡績(現在の鐘紡)が操業を開始した当初の従業員数は351人であったのが、

大正の末期には、5000人程まで増えた。また、鐘紡に続くかのように、大規模な工場がいくつか集まり始めた。大規模工場は、隅田川の河畔に開設されていく。そして欧米からの移植産業、中でも靴、石鹸、カバン、セルロイド、メリヤスなど、中小企業の分野を幅広く受け入れ始めた。例えば、明治29年(1896)年隅田町に機械の天野工場、明治33年1900)隅田村に石川ゴム製造業、明治45年1912)年寺島町に石けんの若山太陽舎が設立された。

この地区に工場の立地が行われた理由は主に3つ考えられる。
 1つは、東京外周部として水田が広がり、地価が安く、水運に恵まれていたこと。
 2つ目は皮革、染色などの先行産業があったこと。これらの産業は労働集約的であり、墨東地域の旧武士層、またその他の単純労働者を救済するという意味で、低資金の労働力確保にもつながっていたと思われる。
 3つ目は、東京の物品集散地である日本橋から浅草の後背地であったということ。これにより、日用消費財の最大の供給地としての性格付けが行われた。

 当地区には大中小様々な規模の工場が集積していった。この傾向は大正時代に入ってからも変わらず、当地区は水田の村から、関連工場とそこで働く人々の町へと変わっていくのである。職人層が形成する各種の下町生業文化が形成された。墨田産業年譜『はばたき』には本所地 区の地場産業として「金物小細工物師(表町) ・釣道具師(元町)・ロウソク問屋(三日緑町、堅川通り) ・羅字竹問屋(堅川通り相生町) ・碁盤師,碁石摺立師(堅川通り相生町)足袋股引所(三つ目相生町、小梅辺り) ・鋳物工業,本所鍋、本所釜,刷毛細工師」の記述がある。
 また「小梅の新銭座(現在の業平橋一丁目町内)は元文元年(1736年)に寛永通賓の銅銭を鋳造した。他に押上村でも鉄銭の鋳造が行われた」と記述も見られる。
 また本所地区には諸問屋が集積し、嘉永元年(1848年)の「諸問屋名前帳によると,炭薪問屋 134,米屋 135、竹木炭薪問屋 59など911軒を数えた」とある。両国の川聞きは亨保17年に起こった大飢穫に対応して川施餓鬼が最初であるといわれている。鍵屋(中央区)と玉屋(両国広小路)の名が知られている。
 
旧向島区の北部地帯は、江戸への農産物の供給地としての役割を担うと共に、墨堤の桜といわれるように江戸年中行事の行楽の地となっていた。当然に料理屈も数多く生まれた。また墨田区史(全)に次の記述がある。
 「本所地方に江戸時代からひらけた工業としては,小梅から横川筋にかけての瓦焼きの集団と、全地域にわたって点々と広がっていた染色業、そして木下川寄りの皮革をあげることができる。
 瓦焼きは木下川、隅団地区の粘土を水運によって運んで行われたものであるし,染色業もまたこれら河川の清らかな水によって、さらす便宜があってひらけたものである。
 明治になっての工業地区化の源泉はこの輸送路としての堤横の水路のひらけていたことが重要な条件となっている。
 とりわけ、鐘紡の影響は大きかった。現在の墨田 3・4丁目には、「鐘紡住宅」と呼ばれる鐘紡の社宅があった。多くの女工も暮していて、付近の酒屋、八百屋などと結婚した人も多数いたという。
 鐘紡を中心に一種独特の一族意識があり、社宅の電気・ガス・水道は鐘紡が供給した。商店の顧客も鐘紡の従業員など工場労働者が中心で、さながら「鐘紡城下町」の様相を呈していた。


 菊川〜九段間に乗合馬車が開通したのは明治初年のこととされるが、甲武鉄道 (総武線)の市川〜本所(現錦糸町)が開通したのが明治27年、東武鉄道、千住〜吾妻橋(現業平橋)聞が開通したのが明治35年、本所区にはじめて路面電車が通り両国橋東側終点まで開通したのが明治36年、甲武鉄道本所〜両国橋開通が明治37年、東武鉄道、曳舟〜亀戸開通が同じく明治37年、そして京成電鉄、押上〜江戸川〜柴又の開通が大正元年、東武鉄道、吾妻橋(現業平橋)〜浅草開通が大正6年、城東電気軌道の錦糸町〜亀戸〜小松川の開通は大正2年のことであった。

◎墨田区内の主要工場(昭和39年)

      

大規模企業(1,500u以上)

企          業          名 

現        (平成26年)       在 

地 域 

(株)杉田精線約18,000u  →(株)杉田精線約18,000u  東墨田3 
花王(株)東京作業所約53,000u  →花王(株)東京作業所約53,000u  文花1 
京成本社約4,400u  →京成本社約4,400u→ホテルに建替え  押上1 
東武鉄道(本社)・業平橋駅・貨物ヤード  →東京スカイツリー・ほか約37,000u  押上1 
日本専売公社(株)53,000u  →日本たばこ(株)約53,000u  横川1 
鈴木興産(株)約10,000u  →鈴木興産(株)約10,000u  横川1 
凸版印刷(株)本所工場約4,500u  →凸版印刷約4,500u  東駒形1 
ライオン(株)約6,500u  →ライオン(株)約6,500u>  本所1 
玉の肌石鹸(株)約8,000u  →玉の肌石鹸(株)約8,000u  緑3

移転した大規模企業(1,500u以上)

企            業           名 

現           (平成26年)              在 

地 域 

鐘紡スチール(株)東京工場約37,000u  →防災用地・公園・ほか  墨田5 
鐘淵染色約5,000u  →事業所・公園・住宅30軒  墨田5 
大沢ゴム防水布(株)約5,000u  →事業所・住宅70軒  墨田3 
東都ゴム製作所約5,500u  →梅若保育園ほか  墨田2 
住友ベークライト(株)向島工場約35,000u  →都民ハイム・都営住宅  墨田1 
鐘淵紡績(株)東京工場約80,000u  →白鬚防災団地・鐘ヶ淵中学校・公園  堤2 
林商会東京工場約10,000u  →白鬚防災団地・公園  堤2 
山一綿業(株)東京工場約約6,000u  →公園  堤2 
(株)中馬鉄工場約5,500u  →公園 堤2 
久保田鉄工(株)隅田川工場約42,000u  →白鬚防災団地・東白鬚公園 堤2 
日本電気精器(株)約24,000u  →リバーサイド隅田セントラルタワー 堤1 
墨田蔦造船(株)約9,000u  →倉庫 堤1 
丸見屋(ミツワ石鹸)向島工場約14,000u  →養護学校・公園・都営住宅 八広5 
共和レザー(株)約5,000u  →マンション・公園 八広5 
日本電線(株)約17,000u  →事業所・公園・住宅170軒 東向島2 
共和レザー(株)約10,500u  →マンション・公園 京島1 
(株)資生堂東京工場約8,500u  →マンション・曳舟文化センター 京島1 
大日本プラスチック(株)約8,000u  →事業所・住宅・工場 京島1 
永柳コルク工業(株)約12,000u  →マンション(イーストコート壱・弐番館 京島1 
合同酒精(株)東京工場約6,000u  →自動車整備工場・住宅 押上2 
広藤皮革(株)約5,000u  →社会福祉会館 東墨田2 
日産化学工業(株)木下川工場約22 ,0000u  →都立皮革センターほか 東墨田3 
明治製靴(株)約35,000u  →東墨田運動場→屋内プール・公園 東墨田3
(株)石井製皮所約5,000u  →住宅50軒 東墨田1
秋元皮革(株)東京工場約20,000u  →ゴルフ場(イースタン) 立花5 
(株)吾嬬製鋼所約30,000u  →都営団地・公園・水道局 立花6 
山崎鉄工(株)約6,000u  →住宅20軒・駐車場 立花4 
(株)中田工作所約5,000u  →駐車場 立花1 
(株)東京化学精錬所約6,500u  →マンション 文花3 
東洋紡績(株)向島工場約70,000u  →都営団地・公園 文花1 
大機ゴム工業(株)約25,000u  →都営団地・公園・小学校 文花1 
(株)信川ゴム工業所約7,000u  →オリンピック墨田文花店 文花1 
東京螺子(株)本所工場約8,000u  →都営団地・マンション 業平5 
朝日麦酒(株)吾妻橋工場約23,000u  →アサヒ本社・マンション・墨田区役所 吾妻橋1 
朝日麦酒(株)業平工場約8,000u  →都営団地 業平1 
電機化学(株)本所工場約15,000u  →都営団地・公園・倉庫 横川5 
佐々木硝子(株)約9,000u  →都民ハイム 横川1
(株)青木染工場約13,000u  →住宅・事業所・公園 太平4 
(株)精工舎約32,000u  →オリナス(事務所・住宅・商店) 太平4 

工業発展の方向

 第1は、生産現場の縮小の南部の場合についてである。当地区は、近年、住宅化、マンション化、商業化、業務地区化への土地利用上の変化が顕著なところである。例えば、メリヤス関係でも、製品開発機能,生産統制機能が重視され、いわゆる非生産機能のウェイトが上昇しつつあり、また、機械・金属では、地方分工場化の動きがみられる一方、そうした動きに即応しえない零細部分は、移転あるいは沈澱、転廃業の可能性をはらんでいる。そこで当地区には,今後、ファッション関連諸地域とハイテク型工業を支援しうる、、複合的な施設(ファッション・テクノコア)の必要性があり、そうしたことによる、新たな都心型工業の集積地としての再生方途を探りだしていくべきだとしている。当地区はまた、機械金属部門でみても、区内で最も製品開発型のウェイトが高く、また熱処理、塗装、鍛造、製缶等の重装備型のもののウェイトも高いという、メリットを有していることを考慮すべきとしている。
 第2は、住宅化、マンション化の著しい北西部についてである。堤通り再開発や有力工場移転等により、全体的に工業用地は縮少化しつつある中で、工場跡地の宅地化、マンション化が進み、また老朽化した住工併設工場の密集構造を特徴とする地区である。当地区では、今後、都心へのアクセスとして雑貨型の機械金属工業の集積地(他と比べ、プレス、切削、金型、プラスチ、ソク成型のウエイトが高く、概して雑貨系を示す地区)としての性格にもとづき、住工併設の立体的集合化(例えば、工場アパート、工場ピル等)により、住工混在の中での生産基地として位置づけていく必要があるとしている。
 第3は、工業用地の縮少する北東部の場合についてである。当地区は、従来、工業用地の拡大と宅地化という、二面的展開のみられたところであるが、近年、大規模立地も進展しないかわり、むしろ、中小零細工場の立地を受け入れてきたところである。したがって、当地区の場合,今後は、跡地の工業的再利用の可能性が他地区と比べて,相対的に高いといえる。そこで、今後は、機械金属工業の体系上、最も基礎的な役割を担う部分として,重装備な加工機能についての技術向上支援施設を組み込んだ工業団地を構想し、さらに、立地環境の多面的展開をはかつていく必要があるとされている。

◎セイコーミュージアム

 セイコーミュージアム(旧セイコー時計資料館)は時と時計の研究資料の収集・保存を主たる目的として1981年に設立された。
 
セイコーミュージアム(東京都墨田区)は、国内外の時計に関する各種の資料を、収集・整理・保存するとともに、時および時計に関する情報を蓄積し、研究を行う機関を目指し、セイコーの創業100年にあたる1981年に、セイコー時計資料館として開設された。
 時計標本資料は、セイコーのウオッチ、クロックを中心に各時代の代表的な時計機構や、日本固有の時計である和時計のコレクションなど約13,000点を所蔵している。 
 一方、文献資料は、時と時計に関する歴史、技術および国内外の時計業界資料、錦絵などの古文書、電子データ資料など多岐に亘り、ともに国内でも有数の規模を誇っている。

 その後2012年4月に、
創業130周年の記念事業として、「セイコーミュージアム」への名称変更と合わせて全館をリニューアルし、より幅広い方々へセイコーグループの情報発信を行うことを目指して大幅拡充した。

◎あぜ時計は右回りなの?

 
人類最古の時計は太陽が作る影の長さあるいは角度で時を知る日時計で、紀元前4000年頃からエジプトで用いられ、各地に広まってきた。当時の日時計は地面に棒を立てる形式のもので、北半球では、地面に立てた棒の影は右回りとなり、時計が発明された頃、地球上の文明は北半球に集中していた。その結果、“時計は右回り”ということに。
◎定時法と不定時法
 
1日の長さを100等分とか12等分などに分割する時刻制度を定時法といい、現在は24等分している。これに対して、1日を昼と夜に分け、その各々を等分に分割するのを不定時法といい、昼と夜の長さは季節によって異なるため、分割した単位時間の長さも変化し、江戸時代では、時の基準を夜明け(明け六ツ)と日暮れ(暮れ六ツ)とし、これを境に1日を昼間と夜間に分け、その各々を6等分した。分割した単位時間の一刻(いっとき)の長さは昼と夜とで、さらに季節によって変わるという複雑な不定時法でした。
◎なぜ6月10日が時の記念日なのか?
 
天智天皇が漏刻とよばれる水時計を利用して時間を計り、日本で最初に鐘や太鼓で人々に時を知らせた日が、太陽暦になおすと西暦671年6月10日でした。大正9(1920)年に「生活改善同盟会」が生活改善運動の一環として、時間を尊重するという趣旨で6月10日を時の記念日にしようと提唱し、その後定着した。
現在も生きている江戸時代のときに関する言葉
 
江戸時代は、時刻を十二支で表しました。午(うま)の刻は、現在の午前11時頃から午後1時頃にあたり、昼の12時ちょうどを正午、12時の前を午前、12時の後を午後と呼んでいるのは、この午の刻からきている。
丑(うし)の刻は、現在の午前1時頃から午前3時頃にあたり、丑の刻を更に四つに分けた三つ目は、午前2時過ぎにあたり、深夜の代名詞にもなっている「草木も眠る丑三つ時」。
 時刻の表し方は、中国の易学に由来したと考えられる九つから四つまでを2回繰り返す数字も使われました。昼の九つは、現在の午前11時頃から午後1時頃にあたり、八つは、午後1時頃から午後3時頃にあたり、お腹がちょっと空く午後3時あたりに間食を取ったことから、時刻の八つが「おやつ」となった。
 一日中のことを四六時中と言いますが、江戸時代は二六時中といっていた。1日が昼の六刻と夜の六刻で2×6だから二六時中です。現在は24時間制ですから、時間の単位を一刻から1時間に変えると4×6で四六時中となる。

和時計

■一挺天符(いっちょうてんぷ)式の掛時計

 「一挺天符」は、棒天符が1本付いている。鐘の下の、分銅がつている櫛歯状の横棒が棒天符で、往復運動をして、振り子のように時計の動く速さを制御する(=調速機)。毎日、明け六つと暮れ六つに分銅の位置を移動して、時計の速さを調節する。
 「掛時計」は、柱や壁に掛けて使う。下のひもの先には錘(おもり)がついていて、その重さで動く。
 写真の物は、指針は固定で、文字盤が回転する。目覚まし機能付き。
■二挺天符(にちょうてんぷ)式の櫓時計

 「二挺天符」は、棒天符が2本付いている。明け六つと暮れ六つで自動的に切り替わり、昼は上の棒天符、夜は下の棒天符が動く。そのため、分銅の移動は毎日する必要がなく、季節の昼夜の長さに合わせて、24節ごと(15日ごと)にそれぞれの分銅の位置を移動する。
 「櫓時計」は、時計本体の下のひもと錘が板で覆われていて、櫓のような形をしている。掛時計と同様に、錘の重さで動く。
 写真の物は、文字盤が固定され、指針が回転する。目覚まし機能付き。櫓台前扉に徳川葵の紋所入り。
■波板式の尺度計

 「波板式」は指針についているヒョウタンの駒を、季節に合わせて左右に移動させ、駒が指している波形の線から、時刻を読み取る。
 「尺度計」は、掛時計から考案されたもので、錘が下がるのに合わせて指針(写真下部の横棒)が下がっていく、縦型の時計
■割駒式の枕時計(右)

 「割駒式」は、時計の速さは常に一定で、文字盤の時刻の表示がひとつひとつ、移動できるようになっている。季節にあわせ、昼や夜の時刻の位置を変える。
 「枕時計」は、動力にぜんまいが使われるようになって作られ始めた。掛時計や櫓時計のように下にさげる錘がないため、写真のように箱の形をしている。
 写真の物は、円天符(棒天符の後に作られるようになった円形の天符)が調速機に使われている。
■円グラフ式文字盤の掛時計

 「円グラフ式文字盤」の指針は、内側の文字盤の下から、自動的に出たり入ったりして、1年間かけて長さが変わるようになっている。季節によって長さが変わる指針の先端が指している、外側の文字盤の線から、時刻を読み取ることができる。
 写真の物は、調速機に、後部に付けられた振り子が使われている
■印篭(いんろう)時計

 印篭は薬などを入れて持ち歩いた容器。そこに機械式時計を仕込んだのが「印篭時計」。動力はぜんまいで、鍵穴に鍵を入れて巻く。調速機には円天符が使われている。
 根付(ねつけ)にも趣向が凝らされいて、写真の左は象牙製、右は木製。
■香盤時計

 抹香(粉末状の香)を線状にしき、火を着け、香が燃える速さで時間を計る。一定の間隔に時刻札を立てた。
■携帯用精密日時計と、紙製の日時計
 庶民が時刻を知るのに、日時計も使われた。
 携帯用精密日時計 はアナレンマ式日時計の精密な物で、四隅に時計を水平にするためのねじが付けられている。
 紙製の日時計は紙を水平に持ち、24節(15日)ごとの短冊を垂直に立て、影の長さで時刻を計る。(つまり、通常の日時計は太陽の方角で時刻を知るが、この日時計は太陽の高度で時刻を読み取る。)時刻が分かると、左の表と中央下の円を使い、方角を知ることもできる。


◎木造建築資料館墨田住宅センター墨田区小さな博物館

墨田区堤通1丁目7番16号(館長:)
 長い歴史を刻む木造建築技術に関する貴重な資料を見ることができる。カンナ、ノミ、ノコギリ、さしがねなど区内の大工さんが使い続けてきた大工道具や木造住宅の各部材の名称パネルが展示されています。また「曲尺調法記」など明治・大正時代の珍しい書物、「大匠雛形」と呼ばれる木組など、長い歴史をもつ木造建築技術に関する資料も120点あまり見ることができます。「難しく 考えずに、気軽に見に来てください。

 1985年にスタートした東京都墨田区の「すみだ3M運動」の活動の中で、「小さな博物館」に認定された、木造建築に関する資料館です。館内には、カンナ、ノミ、ノコギリ、さしがねなどの大工道具や、木造住宅の各部材を紹介するパネルが展示されています。また、明治、大正時代の珍しい書物「曲尺調法記」や、「大匠雛形」と呼ばれる木組など、長い歴史を刻む木造建築技術に関する貴重な資料を見ることができます。
営業時間:10時00分 16時00分 <営業日>毎週土曜日,毎月第4日曜日

大匠雛形

 
神社や堂宮に使用される木造細部の意匠を記した雛型集である。雛型とは“お手本”の事。
江戸期は、意匠が華やかになる時期である。造営に携わる者が本書を手本として華やかな意匠を学び、日々の仕事に活かそうとした当時の人々の息吹がうかがえる。

1 明神鳥居割法
2 大地造り地絵図法
3 大地之本尺割法
4 大床下造り仕法
5 幣軸脇障子之仕法
6 脇障子の割方仕法
7 高欄之割方仕法
8 幣軸木割之法
9 虹梁之割法
10 虹梁下端ゆえんかた之仕法
11 頭貫上端図取様の法
12 唐花結ばた
13 肘木蟇股割法
14 唐戸割の法
15 三ツ斗皿斗肘木組上法
16 三ツ斗下裏之割法
17 雲肘木巻斗大斗四斗割法
18 角斗角肘木割法
19 二十二枝?割并木口大さ割法
20 出組隅之組上の法
21 二タ手先隅組上の法
22 出組平組出シ之法
23 三ツ斗隅地組上の法
24 出組隅地組上の仕法
25 出組平地組上の仕法
26 二手先隅地組上の仕法
27 二手先平地の仕法
28 妻虹梁大平づか仕法
29 腰組壱の割法
30 同平臥地割之法
 
31 腰組二隅の法
32 同平臥地割の法
33 腰組三隅の法
34 同平臥地割の法
35 腰組四隅の法
36 同平臥地割の法
37 腰組上の図割法
38 軒唐破風造る割の法
39 同其二
40 同其三
41 千鳥破風妻建込こけら下地造る法
42 同其二
43 千鳥破風瓦下地割造の法
44 同其二
45 流造思より向拝素軽破風之法
46 破風眉かぎ仕法
47 唐破風鬼板割法
48 唐破風げん魚の割法
49 雲の鬼板割法
50 懸魚の割法
51 鎮木勝男木割法
52 六葉之割法
53 其二六葉の法
54 経巻鬼板割法
55 鬼板妻見割法
56 鬼板箱棟之仕法
57 大箱棟之割法
58 額留之切墨仕様法
59 振漏斗之切墨仕様法
 


◎将棋や囲碁の大匠雛形

 古将棋の盤は、途方もなく大きい。駒数が多いのだから当然である。中将棋は縦横各12目だし、秦将棋は25目、十代将軍家治のころに試みられた「七国将棋」に至っては・盤の大きさは実に三間四方もあり、腰を掛けて杖のような竹で指すと「当世武野俗談」は伝える。
 盤の定寸法は、享保2年(1717)刊の「大匠雛形」に示すものが、一番古い記述である。
 大将棋は横1尺6寸で目数は15間に割り、縦は目一つ長くして15間にし、厚さは2寸6分、足の高さ3寸6分、太さ2寸6分、足は目一つ入れて付ける」と規定する。
 中将棋は「横1尺4寸、12間に割り長さは一目長くして12間に割り、厚さ2寸2分、足の高さ2寸8分、太さは1寸8分、足の入りは8分」と規定する。
 小将棋は、「縦1尺9分で9目に割り、横は一目狭くして9ツ目にし、厚さ1寸8分」と規定する。
 「大匠雛形」は、横のことを「広さ」、縦のことを「長さ」とも書いてある。これで見ると、江戸時代の盤は質素に作られていたことが知れる。現に、江戸時代のものとして知られる盤は、現在の豪華な盤に比べては、はなはだ貧弱で見劣りがする。
 のちに、徳川幕府の将棋所で定めた定寸法は、縦1尺8寸、横1尺8分、厚さ3寸8分、足高3寸となっている。そういえば、御城将棋に用いた盤は、だいたい、上記の寸法に合っている。      
 現在、盤師のあいだでは
    縦 1尺2寸(36.3センチ)
    横 1尺1寸(33.3センチ)
    足高  3寸( 9.1センチ)
とさだめ、これを「本寸盤」と呼んでいる。江戸時代の盤よりは、心もち大振りになっている。駒師の系譜が明らかでないように、盤師の系譜もつまびらかでない。江戸時代で名の知れるのは、南伝馬町の症九郎、通乗物町の清左衛門、新両替町の加兵衛である。名を留めるだけで経歴は不詳。
 古棋書によれば、京都の「かき町五条上ル東側」に、「盤駒細工所」として、三原屋忠兵衛が店を構えていた。将棋が盛んになるにつれ、江戸や今日・大阪にも、もっと盤師がいたと思われるが、記録に残っていない。
 囲碁史の史料を借りると、幕末、幕府御用碁盤師として名のあったのは、神田鍛冶町に住んだ福井一得であったという。
 その後は、明治10年代までは、東京で三人の盤師が技を競ったといわれる。そのうちの一人は、芝源助町に住んだ青柳初太郎。その人の流れを組むのが前沢である。
 盤師は、だれでも口を揃えて、「ひびきがよく、狂いが生ぜず、一点の日の打ちどころもない名品でした」。