西吾嬬小学校

文花1−20− 7)
開校 昭和31年 6月23日
閉校 平成11年 3月31日

(西吾嬬小学校、文花小学校、第二吾嬬小学校)
統合により押上小学校となる
校地面積 6560u



 





通学区域

京島2丁目14番、
       15番、
       20番〜27番
文花1丁目1番〜25番、
       27番、
       28番、
       33番、
       34番
文花2丁目11番〜19番
文花3丁目1番                                     
                   吾嬬第3中学校へ
 


西吾嬬小学校校歌

作詞/中郡 節二  作曲/細谷 一郎

1.旗雲なびく 大空に
  太陽のうた こだまして
  のぞみゆたかに 仰ぎみる  
  教えの道の かがやく窓よ   
  ああ 西吾嬬
   ひかりあれ わが母校
 








2.世界をむすぶ 産業の
  サイレンひびく 隅田川
  波に真理の 影映えて     
  学はたのし 友よぶ庭よ
  ああ 西吾嬬
   さかえあれ わが母校
 

3.祖国のねがい たずねゆく
  学園の町 向島
  清い文化の 花咲いて
  銀河のかなた ゆめみるところ  
  ああ 西吾嬬
   とわにあれ わが母校
 
 


 「おひつ」「ちゃぶ台」「行灯」「蚊帳」などは、少し前まで当たり前のように人々の生活の中にありました。しかし、生活様式の変化や、技術の進歩に伴って、その姿を変えてしまい、今の子供たちには馴染みの薄いものとなってしまっています。

 そこで今回の企画展では、これらの道具やその変遷を通して、昔の生活の様子を子供にも分かりやすく紹介していきます。少し前まで当たり前のように人々の生活の中にありました。しかし、生活様式の変化や、技術の進歩に伴って、その姿を変えてしまい、今の子供たちには馴染みの薄いものとなってしまっています。

 今では家族みんなが、ひとつのテーブルでごはんを食べるのが当たり前かもしれませんが、昔はそうではありませんでした。

 江戸時代は、ひとりひとりが「お膳」というごはんを食べるための台をつかって、食事をしていました。明治時代になって、ちゃぶ台という、4〜5人がすわれるくらいの台がつかわれはじめました。そして明治時代の中ごろ(約110年前)、家族みんなでひとつの食卓をかこんで食事をする家が、だんだんふえていきました。それでも、まだお膳をつかってごはんを食べる家もたくさんありました。

 昔の台所には、今はないようなものがたくさんありました。
 たとえば、水道がない時代は外の井戸から水をくんでこなければならなかったので、水をくむための「手おけ」や、水をためておくための「水がめ」がおかれていました。また、今のようなガスコンロなどもなく、ごはんをたいたり、なべを火にかけるための「かまど」がありました。

 また、今の台所には当たり前にあるものでも、昔はなかったものがあります。

 たとえば、冷蔵庫は今ではほとんどの家にあるものですが、冷蔵庫が売り出されたのは100年近く前で、しかもそのころはとても値段がたかかったので、冷蔵庫のある家はほんの一部でした。また、そのころの冷蔵庫は電気ではなく氷で冷やす冷蔵庫でした。冷蔵庫が多くの家庭でつかわれはじめたのは、40年前ころからのことです。

 冬の寒いときに、あたたまるまるための道具を暖房具といいます。現在の暖房具は、電気やガス、石油などをつかいますが、電気やガスをつかうのがあたりまえでなかった時代は、炭火をつかう暖房具がほとんどでした。 電気やガスは100年以上前からつかえるようになりましたが、それからあとも長い間、電気やガスよりも、炭火の暖房具のほうが多くつかわれました。

 夏の暑い時、冷房には今ではエアコンやせんぷうきなどがありますが、昔はせんぷうきがつかわれたくらいでした。またせんぷうきも売り出されたばかりのころは、もっていない家のほうが多かったので、ほとんどの家では、窓をあけて風とおしをよくするなどして、夏の暑さをしのいでいました。

 部屋などを明るくするための道具を、照明具といいます。

 照明具には、江戸時代からしょく台やあんどんなどがつかわれていました。明治時代には、石油ランプやガス灯がつかわれるようになりますが、それでもあんどんのほうが安あがりだったため、明治時代の終わりくらい(約90年前)まではあんどんをつかう家がまだまだありました。

 電灯も100年以上前からつかえるようにはなっていましたが、最初のころは電灯をつかう家はあまりありませんでした。90年くらい前からだんだん電灯をつかう家がふえはじめ、60年前くらいになると、ほとんどの家で電灯がつかわれるようになりました。

 衣類のしわを伸ばすのに使うアイロン、これがない時代には炭火を利用した「火のし」という道具を使っていました。
 さらに明治の頃にアイロンが登場しますが、電気製ではなく、熱源は炭火でした。

 電気のアイロンが生まれるのは、大正になってからです。
 


荒川流域

 荒川が今の姿になるまでには、長い歴史と大きな理由がありました。身近な川なのに以外と知られていません。荒川の源流は、埼玉県の甲武信ヶ岳で、麓から河口まで、現在の荒川は、173qにわたって流れています。
 
 荒川の流れは、自然の力と人間の知恵と労力によって大きく変わってきた。ご存知の通り、徳川家康の江戸入府は、天正18年(1590)、関が原の戦いが、慶長5年(1600)、徳川家康は、関東の河川の付け替え工事に着手し、寛永6年(1629)伊奈忠治は、久下堤(熊谷市)を築き、荒川を入間川筋に流入する工事をし、これによって、下流域の舟運が始まり、現在の高速道路や大きな国道に当たる役割を果たしてきたのが「川」であり、トラックや鉄道の役割が「船」だった。
 
 荒川の下流が現在の流れの姿になったのは、大正13年(1924)に荒川放水路が通水してからです。それ以前は荒川が隅田川を本流として流れていたが、さらに遡った時代には、現在の元荒川や中川を流れて東京湾に注いでいた。 

 上流域はV字谷になっており川幅も狭く急流が多く、船を通すことは出来ず、中流域も、扇状地による伏流水といって、川の水が地下を流れていて、川の表面を流れる水が少ないため、この流域も船の運航は不適切。
  
 現在の埼玉県寄居市から上流域は水量も多く船は通れるが、所によっては長瀞のように急流であったりで、荷物を運搬するのは困難だった。秩父から江戸に向けて舟運の開発は幾度か計画が練れた。

 元禄13年頃(1700)には、上原長之進という人が舟運を計画している。安永3年頃(1774)には、平賀源内が試みているが、長くは続きませんでした。このように何人もが挑戦して来たが現在まで上流域の舟運は開かれませんでした。

 荒川は、「あれる川」だったので「あれ川」と呼ばれ、何度も洪水に見舞われる川で、洪水が多発する川は、逆に普段は水量が少なく不安定でアンバランスが舟運には不適切の原因だった。実際に大きな船が輸送ができるのは、元荒川から付け替えられた江川河岸(新川河岸)から下流方面で、水流が安定していた。

 川の舟運を縦軸の道とすれば、渡し場はその駅といえます。かっての荒川の渡し場は「新編武蔵風土記稿」、「渡船場調書類」「免許台帳」や地形図などの記録によって確認できるが、輸送手段や交通路として、いかに重要な動脈であったかを示している。江戸時代、幕府の戦略上の理由から、川に橋を架けることが厳しく制限され、そのために対岸への移動には『渡し舟』が利用され、運行時間も日の出から日の入りまでで、通行料金も上、中では水量や川幅で異なっていた。

 荒川の渡し場の中では、秩父鉄道の三峰口駅近くに架かる「白川橋」の所に、『白久の渡し』が一番上流にあり、一番下流は中央区に架かる勝鬨橋の所にある築地から月島に渡る『勝鬨の渡し』。

 その他にも、中仙道の『戸田の渡し』、日光御成道『川口の渡し』、川越近くの『平方の渡し』、熊谷近くの『村岡の渡し』、秩父地方へ行くと寄居の『赤浜の渡し』、秩父の『武の鼻の渡し』という代表的な渡し場があり、こうした大きな渡し場とは別に、耕作する田畑が居住地の対岸にある場合、特別許可を得て利用される『耕作渡し』場もあった。

 河岸というのは、荷物の発着場で人も乗降し小さな市場商いが行われた。江戸の河岸からは、日常生活用品の雑貨や塩、肥料などが運ばれた。これらの船は、下肥船と呼ばれ、下肥船は、江戸の大都市から出る糞尿を運搬する船。上流域からは『比企郡』から下駄甲、瓦。『平方』からそだ(木の枝、茅、米、味噌、醤油、薪、小麦)。『大久保村』から太物(木綿、反物)、竹類。『川口』から鋳物、蓮根、くわい。
 
 埼玉県の税収から見た記録によると、舟運の最盛期は、明治36年(1903)から大正3年(1914)で、明治16年(1883)には河岸場総数が132ヶ所で、江戸時代のほぼ倍という舟運の依存度の高さを示している。
 
 大正末期になると新しい品目として、カーバイト、硫酸、苛性ソーダ、その他の原材料などの化学製品とセメントなど、こうした製品の登場は工業の発展を意味している。一方、江戸時代以来の伝統的なもので、灰、糠、干鰯が大量に運ばれ、川越、狭山、所沢などに及び、上流域では、木材の運搬手段として、『筏流し』があり、秩父地方は山林から筏に組まれた木材が川の流れを利用して送られた。

 岩淵水門から東京湾までの荒川下流地域は『東京低地』とよばれている。その低地をを舞台にした古代から中世の舟を使った水上交通『舟運』は重要な通路だった。
 
 東京低地とは、下総台地と武蔵野台地の間に広がる低地帯で東京都の東部に当たる隅田川の東側、『墨田、足立、葛飾、江東、江戸川の5区と、隅田川の西側に位置する、荒川、台東、千代田、中央、北の5区の低地部が範囲。

 この低地部の広がりと同じ広がりを表す言葉として『下町』という呼び方もある。元々、下町の範囲は江戸時代の隅田川の西側にあたる江戸城下の町場を指していたもので、江戸時代も後半になってから隅田川を越えて東岸地域まで町場が広がり、現在では江戸川や葛飾両区も下町と呼ばれている。
 
 東京低地が海であったのは、今から6,000年前から2,000年前まで、縄文時代前期から弥生時代の前半までのことです。

 2万年前は、まだ土器が発見されていない旧石器時代には関東地方南部は陸地で今の東京湾は海でなく大きな谷でした。その底部には関東平野の河川から集めた古東京川が流れていて、現在の浦賀水道あたりの海へ注いでいたといわれている。この頃の東京低地は陸域で、旧石器人の生活の場となっている。

 6千年前は、海水面が上昇する縄文海進と呼ばれる海進で縄文時代前期には、ピークに達し関東地方の奥深くまで海が入り込んでいた。関東地方内部に縄文時代の貝塚が発見されるのはこのことを物語っている。縄文時代前期以降、今度は海岸線が引いていき、それにともない旧荒川や利根川の上流から流され来る土砂の堆積作用が促され海であった所が埋め立てられて陸が広がった。

 2千年前頃の弥生時代に、陸化した東京低地に再び人々が足を踏み込み入れ、生活の場として暮らすようになり、今から千六百年前の古墳時代前期になると、集落が営まれ、奈良・平安時代になると、東京低地として、自然陸地は落ち着きますが、江戸時代以降になると、さらに埋め立てが盛んになりじんこうてきなった。地形の改変が加わった。 

 東京低地には、江戸、今戸、花川戸、亀戸、青戸、奥戸など『戸』のつく地名が多く見られる。中世の文献に、亀津(亀戸)、奥津(奥戸)、青津(青戸)、と書かれているように『戸』というのは『津』を表したている。また、『戸』は、『渡』にも通じ、対岸に渡るという意味もあるようで、つまり、『戸』の付く地名は水上交通の要衝として捉えることが出来る。

 中世において、{津』の周辺には宿や寺院が建ち、人の集まる都市的な場が形成され、経済活動の重要な拠点となり、東京低地においても、隅田川の石浜・墨田、そして浅草、上流域の岩淵、河口部の江戸、葛西川(現在の中川)の青戸など、水上交通と陸上交通の結節点に中世の都市的な場が形成されていたことが最近の研究で明らかにされた。

 中世遺跡からは、多くの中世陶磁器類が出土している。いずれも商品として、この地域に持ち込まれたもので、遠くは竜泉窯、景徳鎮窯、同安窯、といった中国大陸の輸入品から常滑窯、、瀬戸・美濃窯、、渥美窯、東幡磨(魚住)窯など、国内各地の陶器の出土が認められ各地で生産されたこれらの製品は船に積まれて東京低地の各地に運ばれ、その一部はさらに、入間川、元荒川、旧利根川など諸河川を通行して関東各地へもたらされた。

 東京低地に板碑と呼ばれる中性の石造物が多く分布している。この板碑の石材は、埼玉県秩父地方で産出する緑泥片岩を用いたもので、東京低地へは河川を伝わって搬入されたもの。

 『遺跡』という歴史の証言者は、現在のように鉄道やトラックのない時代に、舟運河がいかに重要な交通手段であったかということを物語ってくれている。河川の集中する東京低地では、むしろ船を用いた舟運の利便性が高かった。

 東京低地の発達は、江戸時代以前、関東地方の発展の歴史になじみの薄い存在として見られてきたが、『川の道』というキーワードを解いていくと、これまで解明されてこなかった重要な舟運の歴史の存在が明らかになる。全国屈指の河川集中地帯という地理的特徴と歴史を近年の新しい発掘や検証から見ると、空虚に思われていたこの地域の『江戸前史』が実は徳川家康の入府以前で、その下地が用意されていたことがわかる。

 まだ交通機関が発達していなかった江戸時代までは、松尾芭蕉の『奥の細道』の旅を持ちだすまでもなく自分の足が唯一の頼りで、ひたすら歩きk交通の手段としては馬も船もあったが、それを利用するのはモッパラ武士階級のもので、特別な場合を除いて利用することは出来なかった。

 貨物輸送の役割を担って、江戸・近郊には夥しい数の船がひしめいていた。江戸や近郊に掘割や運河が多かったのも百万都市江戸の消費を賄う膨大な物流を運ぶ必要があった。

 その一つ、綾瀬川は桶川市、蓮田市、伊奈町に源があって、岩槻・さいたま両市の境を南東に流れて、越谷・草加・八潮の各市を経て、足立区の東部を直線に南下し、葛飾区堀切で荒川へ突き当たる。そこから荒川沿いに流れ、中川に合流して東京湾に注いでいる。元は荒川(現・元荒川)の支流で、内匠橋上流を東にたどり、現在の垳川の河道を流れて利根川(現・中川)へ注いで合流。

 江戸時代以前には、」関東平野を流れる河川には堤防というものがなく、大雨が降るたび洪水を起こして乱流が繰り返されていた。綾瀬川もその一つで、流路に定めがなく、洪水が起こるたびに変わるので、『あやしの川』、つまり、お化けの川と呼んでいたのを、きれいな呼び名で『綾瀬』としたという説がある。
 
 『新編武蔵風土記稿』で寛永年中、鑿通(切り開いて通す)の伝承を記録しているが、これはまだ小規模な疎水で、久左衛門新田(神明)、花又村(花畑)、嘉兵衛新田(加平)、五平衛新田(綾瀬)、伊藤谷新田(綾瀬)を貫通して、これらの村々の地下水や不用水を集めながら古隅田川へ落としたと見える。

 この疎水が川として本格的に切り開かれたのは、17世紀末の元禄年間(1688〜1704)と18世紀前期の享保14年(1729)です。『風土記稿』には、「2度まで川幅をひろめ、その下流『千住宿』と『葛飾郡墨田村』との間にて荒川に合するもの、また、新綾瀬と呼べり、この川幅15間と記してある。

 『遊歴雑記』は、花又村も内匠新田区別がつかず、榎戸村と書き、「綾瀬の長流をはさみ家数凡4、50戸、酒楼あり食店あり、茶店、舟宿、商家、紺屋等軒をつらね、諸方へかかわる巷陌(町なかの道)なろ故、家居少しといえどもいと賑やか也」と描写している。これらを見ると、農家の手間商いではなく立派な営業店舗の商人だとわかる。

 大洪水から始まった荒川放水路の開削工事は、当時国家的な大事業だった。近代になって舟運は蒸気船や曳航船の発達がこれに拍車をかけた。こうして、利根川〜江戸川〜中川〜隅田川の航路、綾瀬川〜隅田川の航路は東京東北部での主要航路として多くの舟が往来していた

 農業生産物、工業製品の運輸はもちろん、大都市東京とその近郊の衛生を確保する糞尿の処理のための運輸、それがまた、農業地帯で最良の有機肥料化で二重の重要性を持ち、舟運は大東京の生命線にまで考えられるようになり、そうした時期に、新たなる重要問題が発生し、荒川放水路開削と舟運の関連だった。

 花畑運河は、昭和40年(1965)3月から花畑川と改めましたが、元の名の通り運河で、綾瀬川と中川を結ぶ舟運のために開削されたもの。

 荒川放水路は、明治43年(1910)の荒川の大洪水で東京が壊滅的な打撃を受けたことから、翌44年に着手された国家的事業で、荒川放水路が開削されると、それまで隅田川に合流していた綾瀬川や中川が分断されて、都心への舟運が建たれてしまうことになった。

 このため大正7年(1918)以降は、綾瀬水門、隅田水門、中川水門、木下川水門の建設に着工し、荒川放水路の通水に合わせて、大正13年(1924)3月まで竣工させた。

 一方、草加・越谷から下る船は、堀切4丁目の綾瀬水門から放水路を横断し、千住曙町の隅田水門を経て鐘ヶ淵で隅田川に入る。そこで、大正14年(1925)度の年度末ぎりぎりのところで花畑運河の開削が決定され、中川の船を綾瀬川に回すようにした。中川・綾瀬川は関東南部の広大な農耕地帯を流域に持ち、ほの舟運の主なものは『汚穢船(おわいぶね)』と呼ばれた下肥運搬船でした。これらの船は、地方から食料を都心に運び、大都市東京から排出される大量の糞尿を農耕地に送り、水路の確保は都市生活者にとっても、農業経営者とっても最も重要な課題でした。

 花畑運河開削工事が開始されたのは、昭和になってからで、竣工は昭和6年末(1931)で荒川放水路完成より半年後だった。この花畑運河の完成で、中川〜花畑運河〜綾瀬川〜綾瀬水門〜荒川放水路〜隅田水門〜旧綾瀬川〜隅田川のコースが実現して、16qの水路が短縮され、中川の舟運は飛躍的に発展した。

 GHQも日本人の回虫の蔓延に驚き、サントニンを無料で配り、半ば強制的に飲ませたほどでした。この由々しく危険といわれた下肥の運搬船が舟運から消えると、花畑運河、今の花畑川はまるで死んだ川となってしまい、たまに通過するのは東京湾行きの釣船ぐらいになってしまった。
 




川と人と舟の道

種        類  運              用                 運                行
屋形船 屋形船は大名・武家、屋根船は町民の舟だったが次第に区別がなくなる。
江戸市民の舟遊びに使われ、『東都歳時記』にも両国・浅草川があり、
花火の夜など利用された。船頭が棹で操作すのが屋形船、櫓で操作
するのが屋根船。屋形船の形式で、武家は障子で町人は簾と分かれて
いたが、いつとはなしに障子だけとなる。
猪牙舟
(らっきぶね)
粋な江戸っ子の足で川のタクシー、快速船。この舟は、隅田川を上って
山谷掘りから吉原へ、永代橋から堀を伝って深川へと、一刻も早く客を
遊び場に送り届ける快速艇でした。猪牙舟は、猪の牙に似ているところ
からそう呼ばれた。
水船 江戸城の余り水を運んで、飲み水を売り歩いた水船という船もあった。
江戸の生活で一番は飲み水で、江戸から東京になって、水道事業が
本格的になるのは明治31年(1898)以降。
湯船 水辺に暮らす人たちのみが味わえた贅沢、湯船(行水舟)は、江戸情緒を
感じる。最初は港湾に入港した船の船頭たちを相手に、その船に横付け
して乗り移らせて利用した。江戸では主に本所・深川の水路に浮かべ、
水上生活者の便を図った。後に、浴槽をつけて湯舟となった。
高瀬船 高瀬舟は、利根川水系に運行されていた船で、江戸へ物資を運んだ大型
船で、帆を掛けて走り、風のない時は櫓をこいだ。長さ27mで年貢米五百、
六百俵積。
平田船 舟へんに帯と書いてヒラタと読む。艇薄くして長きもの、通船のひらたく大
なるもの呼び、和名比良太、俗に平田舟。
五大力船 江戸時代、東京湾を中心とした海上輸送に使われた。別名、木更津船とも
呼ばれた。
川越夜船 新河岸の舟運は、川越の大火の復興資材の輸送のため開かれた。
茶船 隅田川や掘割を自由自在に走り回る小舟。大茶舟は、瀬取茶舟とも呼ばれ
沖合いの親船からの積荷の上げ下げをした。
ポンポン蒸気船 隅田川を行き交う船は明治に入っても手漕船は盛んだった。新たにデビュー
したのは蒸気船で、1区間の運賃が1銭であったことから一銭蒸気と呼ばれ
航行する時のエンジン音からポンポン蒸気として親しまれた。