東吾嬬小学校

(立花 4−22−11)
開校 昭和31年 6月27日
校地面積 7707u

校名は
以前この地が吾嬬町と
呼ばれていましたので、
そこに由来しています。


校章は
古事記の話の中にある、
須佐之男の命と共に海を渡ろうとし、
 途中で荒れた海を鎮めるために
自らの命を投げ出した”弟橘姫”の名と
 同じ、橘の花をデザインして作られました。

−学びが好き−
−友達が好き−
−遊びが好き−

 





昭和31年4月6日に開校し、
昨年の秋に開校45周年の
記念式典や集会を開きました。
   

通学区域

文花3丁目21番〜23番
立花4丁目1番〜22番、
        24番、25番(除1号、2号)、
        26番(除16号〜19号)
                           吾嬬第1中学校へ
立花3丁目1番、
        12番〜29番
立花4丁目23番、
        25番1号、2号、
        26番16号〜19号、
        27番〜40番      
                           立花中学校へ
 



校歌(昭和36年6月27日制定)

作詞:西沢  実 作曲:富永三郎

1 この空のもと
  先生といっしょに
  清らかな心をはぐくみ
  強いからだをきたえる
     ああ 工場にかこまれた
     東京の朝日
     東吾嬬
     ぼくのみんなの小学校
2 この土の上
  友だちといっしょに
  進みゆく道を考え
  国の力をのばそう
     ああ 荒川の岸近い
     たちばなのかおり
     東吾嬬
     わたしのみんなの小学校



墨田区立花

 かって東京湾の海は、上野の山、王子赤羽、市川国府台と連なる台地の下までよせ、湾に注ぐ利根川も河口は大分奥の方であった。大利根の流れは絶えず上流からの土砂を運び、堆積させ洲を作っていった。正倉院に残る養老5年(721)の「
養老戸籍」に、現在の柴又・小岩と推定される下総国葛飾郡大嶋郷島俣(しままた)、甲和里(こうわり)の人々の記載があり、近年の発掘調査で多くの出土物もみられている。市川台地寄りにまず州・島(柴又・小岩)ができ、台地をおりて人々が住むようになったものであろう。

 武蔵国から下総・上総国への官道が陸路となる前は、吾嬬神社に祭られている弟橘媛(おとたちばなひめ)の伝説にもあるように、相模国観音崎の走水から東京湾を船で木更津に渡り、北上して下総国国府である市川国府台に達していた。この行程での中央に近い地域が上総であったわけである。

 時代が下がると利根川の本流は、今の綾瀬川すじを流れていたと考えられ、墨田区墨田あたりが河口となり、隅田・寺島の地域が州・島としてできてくる。隅田(州田)や寺島の地名もその生成を物語っているし、対岸の汐入・真崎・石浜等の地名も、その様を示している。

 宝亀2年(771)上総・下総への官道が陸路に変更されて府中から市川国府台へとつながると交通量も増大した。承和2年(835)の太政官符には、「武蔵下総両国堺、住田河4艘、元2艘今加2艘、右河等崖広遠、不得造橋、仍増件船。・・・・・・」とみえ、渡し船を2艘から4艘へ加増したことが記載されている。

 ここに初めて住田河(隅田川)の渡船場が歴史上に登場する。元来、この流れは利根川であったが、住田(州田・隅田)のほとりを流れることから、下流部を住田河(隅田川)と呼んだものであろう。墨田(区)は最北端の墨田(隅田)・東向島・堤通あたりから、渡船場を中心に宿場的要素の強い農村として開かれて行ったことが伺える。

 隅田の渡しの交通量が増大する頃には、河口は更に下って、現在の銅像堀公園の高速道路入口である旧銅像堀のあたりとなったようである。

 かってはこの銅像堀から十間橋(北十間川)へ通じる古川が流れ、その名残りは本所・向島地区の境となっていた。古川の右岸は当時の葛西領の海岸線と考えられ、その生成を示す地名として、須(州)崎、請(浮)地、押上(風濤現象)、小村井(江)、平井(江)が連なっている。更にこの隅田川の河口に土砂が積もって細長い島が形作られていく。

 現在の長命寺あたりから両国橋のあたりまで伸びていた島で、牛の横臥する姿に似ていることからか、牛島と呼ばれたのがそれである。

 平安時代前期の「
伊勢物語」業平東下りの一節にも、「武蔵と下総の中にある角田川のつらにおりゐて思ひ待るに・・・・・・、名にしおはば いざこと問はむ都鳥 わが思ふ人ありや無しやと」とみえており、在原業平も隅田の渡しを渡ったことと思われる。この古事は向島の業平・言問の地名起源ともなっている。また、梅若塚伝説から謡曲「隅田川」も生まれ、その後の、この地域の文学的展開の源となっている。

 また、この地域からは、中世の墓碑である板碑が出土している。現在、正福寺(墨田2丁目)に安置する宝治2年(1248)の板碑は都内最古のものであるし、明応4年(1495)頃までのもの20数基が、梅若小学校周辺と百花園から東向島駅にかけての地域に集中して出土し、当時の生活地域が実感出きる。

 応永5年(1398)に記された「
下総国葛西御厨注文」をみても「寺島86町、下木毛河22町4段、隅田14町1段半、小村江15町」とあり、田畑として開拓されて行く状況が伺える。更に、永禄2年(1559)の「小田原衆所領役帳」でみると、「葛西寺島、葛西小村井、葛西葛西川、江戸牛島4ヶ村、葛西木毛川、江戸石原宮内分、江戸石原惣領分」などとみえ、その地域は拓がっている。

 天正18年(1590)徳川家康が江戸に入府する頃は、墨東の海岸線はすでに現在の小名木川あたりになり時代とともに更に南下していった。

 江戸開府後の正保頃(1644)に至って牛島の一部が本所と称され、明暦の大火「振袖火事」(1657)を契機として両国橋が架けられると共に、江戸市街の火除地・明地確保のために本所築地奉行が置かれて開発・支配されて行った。

 享保4年(1719)には、江戸市中として町奉行支配地となっていく。維新後は、東京府の大区小区等と変遷をみるが、明治11年に、かっての銅像堀から十間橋の方へ結ぶ古川の以南が本所区となったにである。

 向島の地域は大方が開府以来幕府直轄の関東郡代支配の代官支配地となり幕末まで続くが、維新後は明治4年廃藩置県と共に東京府となり、明治11年南葛飾郡を称し、明治22年町村制施行で町村編成を行い、大正元年吾嬬町、大正12年寺島・隅田町と町制となり、昭和7年10月町制を廃して、その区域に向島区を設置した。

 そして、昭和22年3月、本所区・向島区を合わせて、隅田川の古字をとり、墨田区が東京23区の一つとして誕生した。

 吾嬬神社の由緒は、日本武尊(やまとたけるのみこと)東征の折、暴風雨へのいけにえとなって海を鎮めた弟橘媛(おとたちばなひめ)の流れついた遺品を葬って塚としたという。この種の伝説は東京湾周辺に多く、かっての海岸線を知る手掛かりともなる。

 吾嬬神社には、江戸時代から吾嬬の森・連理の樟の木(れんりのくすのき)として名高かった周囲4.5mにも及ぶ樟の根が今でも残っているし、小型深鉢の縄文土器が出土したともいわれている。

 日本武尊が東征の帰途、碓氷峠から東南をみて、「
あづまはや」(はや=感動詞)と嘆き、そこから吾嬬〜吾妻〜東(国)の地名が起こったという説話がある。この「あづま」が吾嬬として神社名となり、明治22年には、葛西川・小村井・請地村ほかが合併して吾嬬村が生まれる。大正元年町制がしかれて吾嬬町となり、大正3年には大木村の一部を編入している。

 現在の町名「立花」は弟橘媛から由来するもので、昭和41年5月の住居表示によって、それまでの吾嬬町東から変更されたものである。

 立花の地域は、福神橋を南端にして、北十間川、旧中川、中平井橋通り、明治通りに囲まれている。かっての小村井村の一部と亀戸村飛地と葛西川村の一帯である。

 葛西氏が伊勢神宮に寄進した御厨(みくりや)に関する応永5年(1398)の文書に記されている「葛西御厨」38郷の中にも小村江(後に発音上から小村井に転化する)15町、下
木毛河20町4段などが、寺島・隅田とともにみえている。

 永禄2年(1559)の後北条氏「
小田原衆所領役帳」にも、「遠山丹波守 60貫文葛西小村井・20貫文葛西葛西川、朝倉平次郎 56貫350文葛西下木毛川」ともみえる。

 小村井は、現在の文花の地域にもまたがっているが、古くは小村江と呼ばれ、海に面いた頃の入江の小村が目に浮かぶ。木毛川・葛西川の名は、川の名に由来するのであろうが、どの川を指すのかあきらかではない。亀戸村飛地は吾妻耕地といわれ、吾嬬の森・六軒が含まれていた。

 江戸時代はもちろん農村地帯で明治2年の人口も、小村井村73戸・418人、葛西川村44戸・247人、亀戸村飛地14戸・73人となっている。旧葛西川の地域には、鹿倉家、小山家、星野家などが震災・戦災にも昔の面影を残している。

 明治28年に東京モスリン紡織亀戸工場ができ、その後、中川沿いに秋元皮革・吾嬬製鋼所などが建てられて、大正の大震災を過ぎると、どっと人々が流れ込み、中小工業地域に変わっていった。

 戦後、キャラコ製織と東京モスリン紡織工場の跡地が、建設省関東地方建設局用地となり、その後、再開発されて立花団地となった。また、吾嬬製鋼所が移転し、その跡は都営住宅、公園や下水道のポンプ場などとなっている。

 立花の中を横切る東武鉄道亀戸線は、明治37年に開通しているが、平井街道駅が昭和31年東あづま駅と改名され開設されている。

 平井街道は吾妻橋あたりから始まるが、香取神社をを経て明治通りをつっきり、東あづま駅を通り、平井橋を渡って平井の聖天に通じる道である。

 もう一つ主要な道として、大正6年から7年にかけて開設された宮田通りがある。中居堀に架かる宮田橋を中心にして、初め「
請地府道に連絡、市内柳島電車終点に達する」道から、「宮田橋より東方油免より葛西川に至る」道である。明治通りの曲がり角から平井橋に通じる道がそれである。旧吾嬬製鋼所あたりは雨宮車両工場のあったことから、雨宮通りともいわれている。

 この立花で忘れられない人の一人に大沢梅次郎氏がいる。氏は旧小山家に生まれ、大正6年28歳で町会議員となり、次いで吾嬬町長に推され、以来昭和34年9月に没するまで地域の代表として終始された。福神橋畔に顕彰像・築道碑が建てられている。

 葛西一族の開基という慈光院には、元禄6年(1693)の庚申塔があり、白髭神社にも元禄4年(1691)の庚申塔、東漸寺にも宝暦13年(1763)の庚申塔や浅草文庫で知られる医師板坂卜斎の墓碑がある。また、北向地蔵堂も大切にしたい所である。

 東吾嬬小学校は、立花地域のほぼ中心地あたりにある学校である。
 



葛西御厨

 中世の日本は、ほとんどが貴族や社寺の荘園になっていましたが、この下総国葛飾郡も、伊勢神宮の葛西御厨になりましたが、御厨というのは、神社領荘園の一種の名前で、神にお供える物を提供する土地という意味です。

 葛西御厨を支配していたのは葛西氏で、これは平氏の子孫です。平忠頼の長男が将恒で、葛西氏の祖先となり、次男が忠常で、千葉氏の祖先となりました。平忠常は1028年、平忠常の乱を起した人物として有名ですが、兄の将恒はその5年前の1023年頃、ある乱を平らげた手柄で、武蔵国豊島郡、上総国埴生郡、下総国葛西郡などを恩賞としてもらったといいます。

 仙覚という人の「
万葉集抄」には、「かつしかの郡になかに大河あり、ふとゐといふ、川の東を葛東の郡といひ、川の西をば葛西のこほりといふ」と書いてあります。ふとゐ川(太日川)とは今の江戸川で、渡良瀬川がここに流れていました。葛西とは、この川の西で、隅田川との間に挟まれた地域です。

 将恒の5代後の葛西清重は、源頼朝が旗揚げした時、そのもとに駆けつけて武将となり、平氏の追討のため西海に赴き、さらに奥州藤原追討の勲功で胆沢郡などの領地をもらい、奥州惣奉行という重職につきました。

 1398年の「
下総国葛西御厨注文」という文書には、葛西御厨の33郷の名が記してありますが、それには、金町、柴又、渋江、奥戸、堀切、立石、小岩、亀有などの葛飾区、鹿骨、篠崎、一色、一之江、平井、長島、今井、小松川などの江戸川区、寺島、小村井、隅田などの墨田区の地名はあるものの、江東区の地名はありません。

 では、江東区には何時から人々が住み始めたのでしょうか。江東区にある最も古い「
金石文」は、深川2丁目にある「心行寺」にある五重石塔に刻んである「元享4年3月24日」という文字です。これは1324年にあたり、鎌倉時代の末期にあたります。

 亀戸3丁目の「
普門院」には、応永28年(1421)に奉納された江東区で最古の石灯籠があります。これは室町時代初期の4代将軍義持の時期にあたります。

 亀戸6丁目の「
自性院」には、江東区で最古の「宝筐印塔」があり、これには永享7年(1435)の年号が刻んであり、室町時代中期の6代将軍義教の時期にあたります。

 「
心行寺」は江戸時代の1633年に中央区八丁堀から移転してきたもので、「普門院」も1616年に荒川区から移転し、「自性院」も1662年に墨田区から移転してきたものです。したがって、これらは江東区に初めからあったものではありません。