押上小学校
押上3−46−17
開校 平成11年4月 1日
校地面積 6,560u
校章制定
押上小学校の校舎は、
1階はグリーン、
2階はピンク、
3階はブルー、
4階はオレンジと
それぞれにテーマカラーを設けてあります。
押上小学校は、
屋上に降った雨を地下の貯水槽に溜めて
トイレの洗浄水に利用しています。
また、トイレや廊下は、人が通るとセンサーで
自動的に照明がつくようになっています。 |
通学区域
押上1丁目17番〜19番、
31番〜35番、
44番〜47番、
49番〜52番
押上2丁目27番〜29番、
34番2号〜6号、
36番2号〜終号、
39番〜43番
押上3丁目全域
文花1丁目全域
文花2丁目11番〜19番
文花中学校へ
調整区域
京島2丁目14番、
15番、20番〜27番(第四吾嬬小学校から変更可能)
文花3丁目1番(第四吾嬬小学校から変更可能) |
押上小学校校歌
校歌制定(作詞・作曲 渡辺 茂) |
1 青い空 見上げて
大きな夢をむねに
みんな仲良く肩くんで
楽しく勉強
明るい友だち
押上 押上 みんなの学校
押上小学校 |
2 白い雲 見つめて
大きな夢をむねに
みんな笑顔で手をつなぎ
元気に運動
明るい友だち
押上 押上 みんなの学校
押上小学校 |
3 高い空 見上げて
大きな夢をむねに
みんなやさしく目をあげて
にっこり笑う
明るい友だち
押上 押上 みんなの学校
押上小学校 |
平成11年 4月 1日 旧第二吾嬬小学校、旧西吾嬬小学校、旧文花小学校が
統合され押上小学校として開校。
旧西吾嬬小学校校舎を仮校舎とする。
平成11年 6月 1日 押上小学校開校記念式典挙行
平成12年 4月 1日 墨田区学校運営協議会モデル校
平成12年11月30日 第39回全日本学校歯科優良校受賞
平成13年 4月 1日 新校舎落成記念式典挙
少人数授業開始
(3年から6年の算数の授業で実施)
平成13年 5月30日 新校舎落成記念式典挙行 |
虎橋通り
虎橋通りといって、今ではほとんど忘れ去られたようとしている道が、旧西吾嬬町のある。今では、昭和一桁生れの方でなくては、その名前も知らないのではないかと思う。
現在の墨田区の地図でいえば、京島2丁目と押上3丁目・同1丁目にかけて通っていた道である。
戦争中までは東武鉄道亀戸線の曳舟駅と小村井駅の間には「とらばしどうり駅」、「十間橋通り駅」と貨物引込み線のあった駅「天神駅」の三つの駅があった。昭和20年3月10日の東京大空襲で、「とらばしどうり駅」と「十間橋通り駅」は焼け落ちた。その後、「とらばしどおり駅」は廃止されて復活することなく、戦後57年も経ってしまった。
今では駅がそこにあったという痕跡もない。忘れ去られるのも無理はない。「十間橋通り駅」も焼け落ちて一時休止状態となったが、戦後復活し昭和33年10月22日まで営業を続けた後、廃止となった。
「天神駅」は戦災を受けずに、戦後も活動を続けていたが昭和32年5月20日やはり廃止されている(東武鉄道社内報・1994年9月号・特集亀戸線90周年より)。ちなみに、天神駅の発送貨物は石鹸類・到着貨物は砂利が圧倒的に多かったと吾嬬町誌(編纂会編)には記載されている。
ところで、虎橋通りという駅名の由来となった道が、今は無き「とらばしどうり駅」の西側に線路と交差して通っている。京島2丁目5番地と13番地の間と、押上3丁目12番地と13番地との間を通っている道である。
現在、もと駅近くの踏切(押上3丁目12番地)の際に、「不動産柴田」という広告灯が目立つ。その道を押上方面へ行くとT字形の道に突き当たる。その道の手前側に側溝が流れていて、そこに石橋が架けられていた。その石橋が道の名称となった虎橋である。
その虎橋を渡って左に曲り、又すぐ右へ曲がると押上3丁目24番地を通り過ぎ、西あづま通に出る(その先の押上1丁目は区画整理されて、昔の道がなくなったので、虎橋通りも消えてしまったが)、本来は、その先少し左手にあった道に入り、そのまま真っ直ぐ行くと、京成線の終点押上駅南改札口のある京成橋・旧押上橋のたもとまで達していた。
その辺のところ頃を地図で確かめてみる。昭和9年7月30日発行の大日本帝国陸地測量部の「向島」図(昭和7年鉄道補入)まではその道が残っていたが、昭和14年6月30日発行の向島図では「押上通り」が出来て、西あづま通り先(押上1丁目内)の虎橋通りの一部分は吸収される形で消えた「押上通り」の全面使用は昭和15年3月14日になる・・・・・後述・・・・・。
さらに、昭和34年に押上1丁目の町全体が再開発事業により区画整理されたので、「西あづま通り」先の虎橋通りの形跡はすべて姿を消してしまった。
虎橋のあった場所についてはもう少し具体的に話すと、T字形に突き当たる道のところの左角には「中村そば店」、右側角には「熊田酒店」がある。突き当たった道のこちら側に溝が流れていた。両店の間の道に橋台があり溝を越えた道に渡してあった。それが虎橋である。
その橋は厚さ10pほどのコンクリート製の板が蓋を被せるような形で架け渡してあった。「中村そば店」のおかみさんの話では「とらばし」と赤い字で書かれた低い柱が橋に両端の「中村そば店」と「熊田酒店」の脇に立っていた。
「中村そば店」では、昔繁栄した道を偲んで、割り箸の袋に「とらばし駅通り・中むら」という文字を印刷している。ドブ溝と化した溝川は昭和34、5年頃に暗渠化。今、虎橋はない。
吾嬬町誌(編纂会編)を読んでいたところ、虎橋通りについて実にハッキリしたことが書いてあった。明治の後半から大正時代にかけて、吾嬬町発展のために道路の開発が急務だった。
その先駆的な役割を果たしたひとり・原忠三郎の談話に、虎橋通りの由来が語られていた。
「明治42年の冬、今の京成電鉄本社のある處から請地屋敷通り(西あづま通り)まで1本の新道を築きました。そしてその後、更に第2学校(第2吾嬬小学校)の處へ横道を1本造ったが、兎に角此の最初の新道が出来た為に、従来あった官道は人が通らなくなってしまった。この新道が只今の虎橋通りで京成電車が出来るについて、押上からの入口が現在のように變更されたが、元は京成橋へ斜めに向ってゐた。
此の道路の新設にあたっては非常な苦心を要したもので交渉の如きにしましても随分暇取ったものであります。丁度4人の地主があり、うち一人の地主には當時なかった権利金迄支払ひ、又1ヶ月坪5銭の地代を払ふ義務迄持たせられて、漸く是れが明治43年春に開通の運びとなったのであります。あの道路は現在未だに私有導路でありまして、昨年迄私は私費で道普請をやって参りました。本年(昭和6年)初めて町でやって貰いましたが、是れ迄約20年間私個人で維持して参ったような次第であります。
(中略)道路を拵えることは、世の益するといふ根本観念に於ては忘れませんでした。次に最後に申し上げたいことは虎橋です。現在あの附近を虎橋通りと呼んで居りますが、あれは當時私が養母トラの名前を取ってつけた名稱で最初は木橋でしたが、のちに宮川町長時代に石橋に架けかえられた。愛国橋も同じく私のつけた名前で、今日あの附近がドシドシ榮えて行くのを見て嬉しく思って居ります。東武鉄道は虎橋通りといふ驛を設けて呉れましたし、(以下続く)」。
これを読むと、虎橋通りが明治42年に出来たこと、虎橋通りが昔の官道(旧四つ木道・曳舟川通りか?)から人の流れを変えるほど利用されたことなどがわかる。
人によって意見が違いハッキリしない。本来からいうと、現在の「曳舟たから通り」の旧道(地蔵坂通りから曳舟川通りを渡り、京成電車の踏切の手前から右斜め方向へ曲り香取神社を経由し平井聖天様まで通じていた道=地蔵坂通り続き道)、その道の京島2丁目7番地と11番地(角地の元薬局屋・現京島第2ビル)の間に右折する道がある。
そこから押上駅まで行く範囲の道のりを「虎橋通り」ちいっていたようだ。(中村そばのおかみさんの説も同じである)それが当時の向島地区の建設ブームによる町並み拡張の中で、道路の需要が虎橋通りから周囲へと延長した。通勤客が家屋・中小工場密集地区の中間地点、虎橋駅へ集中したわけである。
更に、地域範囲を広げ、北は同9番地の角にある亀井小児科から現「曳舟たから通り」へ、更に、それを越えて明治通りまで延びた。一部には明治通りを越えて南竜館通りも虎橋通りという人さえいる。
(ちなみに、平井道『たから通り・地蔵坂通り続き道』が押上通りと交差する左側に東武しんきん京島支店(現マンション)がある。ここは元三光信用金庫本店であったところで、隣接の帝都タクシーサービス工場や駐車場辺りも含めて、明治・大正・昭和12年まで屠獣所(屠殺場)があった場所である。地元の人はこの辺の道を屠殺場通りと呼んでいる)。
ここでもう一つ余談、南竜館通りについて一言述べる。大正元年11月に京成電気軌道が押上から柴又までの間を開通させた。その時、薬師道が曳舟川通りに交差する場所近くに「むかふじま駅」という駅を設置した。しかし、まだ駅へ通じる里道(畦道)が途中で途切れてなかった。
大正6年の地図でも(12月15日発行の第1回修正図)南竜館通りはまだない。さすが、大正12年3月発行の地図には(大正10年第2回修正図)駅へ行く道が出来ている。
南竜館通りは大正7〜9年頃には工事を終えて、人が往来しだしたのだろう。その後、南竜館という当時流行の映画館(現・灰谷用品店の場所)が出来て、南竜館通りという呼称が自然に生れたようだ)。
虎橋通りは、大正、昭和の初めにかけては押上方面へ抜ける道がほかになっかったので文字ど通り吾嬬町のメイン通りになった。
旧道・たから通りの屠殺場通りあたりのちょうど虎橋通り入口にあたる付近(京島2丁目19番地17号)で、お店を出している人たちに古い話を聞いたところ、「子供の頃、兵隊さんが隊列を組んで家の前を通った」とか、「牛や馬が数頭つながれて行くのを見た」、「ときには、押上方面から木下川薬師へお参りするおばさん達がぞろぞろと通って行った」などと話してくれた。
豆腐店を営む安食屋のご主人の話では、南竜館通りを通って木下川薬師道にも出たらしいとのことであった。更に、屠殺場通りは、一名「浦安街道」とも呼んだともいっていた。
大正10年の地図で調べて見ると、この道が、大正7年に竣工した宮田通りと現在の文花3丁目2番地先(たから通りと十間橋通り交差点辺り)で繋がり、周囲の田んぼを一直線に突っ切って平井橋方向へ行けるようになっていた。中川を渡り、平井聖天へ出る近道になり、更に旧行徳道へ入り浦安に向う人達もいたのだろう。
ついでに、宮田通りについて一言。現在、中居堀通りに面して向島警察署がある。大正6年請地府道(平井道旧たから通り・地蔵坂通り続き)から警察署南横の仲居堀宮田橋までに道を作った。その後、大正10年までには(大正10年の地図に初出)中川平井の渡し場付近葛西川村まで延長させた。その道を宮田通りと呼んだ。
それまでは水運を利用して漸く工場地帯として発展して来た吾嬬町には農道のみで、まだ自動車が自由に通行出来る道路が全然無い。
吾嬬町誌(役場編)にも、「道路トシテハ友離錯裂不便不利ヲ免レズ」という当時の道路建設記録があることを載せている。これではこれからの「発展は望めない」と考えた吾嬬町最初の幅員三間道(5.4m)であった。
大正14年、当時の吾嬬町長大澤梅次郎が地主有志の徳業を讃えて『宮田橋畔に聳え立つ築道碑』を町役場(現向島警察署)前に建てた。その碑は現在福神橋のたもと花王石鹸のある文花2町目1番地の角地に大澤梅次郎の銅像と共にその傍らに立っている。
たしかに吾嬬町は寺島、隅田両町村が古くからの街道を持ち連絡道があったのと比べて田んぼ道が多く交通面の遅れが街作りにも影響したようだ。寺島に大正道路が開通したのが大正4年である。それからみても約10年ぐらいの遅れが、その後の吾嬬町に道路作りを集中させた原因になったのであろう。
虎橋通りの発展は、明治維新後、近代化を急ぐ日本の産業振興政策に影響を受けたものである。墨田区近代工業化への動きを概観して見ても、本所は街並みが整備され水運の便が良く、次いで向島の地は隅田川に接し土地が安く近代産業の工場建設に適していた。
本所地区は明治2年には、ガラス・皮革工場が製造を開始したのをはじめ、その後も石鹸・メリヤス工場等、数多くの近代的大工場が立ち並んだ。
向島地区は明治22年に鐘ヶ淵棒せき会社が生産に入ったのをはじめ、向島須崎町の花王石鹸、請地の東京モスリンの毛織物製造、曳舟川沿いの鳥井レンガ工場等が続々輩出した。
日清・日露の二大戦争後には明治製革会社等が吾嬬町東に進出し、需要増した革製品の原料生産で大躍進した。
その他、大正時代に入ると、大正3年に勃発した第一次世界大戦の軍需景気で、下請企業の中小工場も群生し、商店も増え、人口はますます増加した。
大正12年までには景気も下降なんかはなんのその、吾嬬・寺島・隅田村がそれぞれ吾嬬町・寺島町・隅田町になり、田園地帯の名残は急速に薄れ、市街化が急激に進行した。
特に、大正12年9月1ひの関東大震災後は、比較的被害の少なかった向島地区に各種の産業が再び殺到し、宅地・商家も増え、人口も爆発的に増加した。
計画が現実に追い付かぬスプロール現象が広がり、せめて産業市街地の基盤を支えるためには、道路の整備が焦眉の急。道路を新設しなくてはならないという現象が起きていた状況は目に浮かぶようである。
永井荷風の「墨東綺譚」の一説に、「昭和5年の春、都市復興際(帝都復興際のこと)の執行せられたころ、吾妻橋から寺島町に至る一直線の道路(水戸街道)が開かれ、市内電車は秋葉神社まで、市営バスの往復は、さらに延長して寺島7丁目のはずれに車庫を設けるようになった。・・・・・中略・・・・・町の形勢は裏と表と、まったく一変するようになった」とあるように、大正末期から昭和初期には、帝都復興計画、引き続き東京都市計画道路網のもとに盛んに道路の拡張・新設・ところによっては区画整理も進んだ。
田園地帯の名残があった向島地区も市街化の勢は激しく、忽ちのうちに続々と建ち並んだ木賃長屋、家屋密集。立ち退き問題もままならず、お決まりの財政不足で後藤新平市長の大風呂敷ビジョンも萎んだ。
結局区画整理は余り進まず、手っ取り早い線引きによる道路の新設整備が中心になった。大正道路(これは民間の努力が大きかった)・鐘ヶ淵通り・水戸街道・明治通りなどは比較的早くできた。
すこし、時代背景の説明が長くなったが、このような時代の中で、工場労働者やサラリーマンなど通勤する人たちも増えた。虎橋通り吾嬬町のちょうど中間スポットを通過する。大正元年(1912)11月3日に京成電鉄押上駅が開設され、大正2年11月10日には路面電車・市電が押上まで来た。それらの駅を目指し、浅草通りへも向う人たちの流れを捕らえたのが虎橋通りであった。
東武鉄道は明治35年4月1日吾妻橋駅〜北千住駅間を開業している。曳舟駅〜亀戸駅間は明治37年4月5日に開業、曳舟駅〜吾妻橋駅間はそのとき廃止され、亀戸駅へ行く線が主線となっている。亀戸線で乗降客を乗せ虎橋・十間橋・小村井駅などの各駅を開設したのは昭和3年4月15日。亀戸駅で省線(国鉄=JR)総武本線(明治37年開業)へ乗換えられた。
東武鉄道が隅田川を越え「浅草雷門駅」へ行ったのは昭和6年5月25日、同日「請地駅」も開業、以後徐々にメインルートは浅草行きになった。
一方、京成電鉄は昭和7年9月1日に「請地駅」を開業させている。これら路線の変更や各駅の誕生は、、「とらばしどうり」駅の乗降客にどういう影響を与えたのか。プラスかマイナスか、ちょっと判定に迷うが、各種の施設が増えればマイナスの要素が多くなったであろう。しかし、虎橋通り自身は大正年代・昭和前期には益々人家・人口とも増え利用度は増したのではないか。
更に、昭和11年10月31日に、「曳舟たから通り」が新設、東京府から供用開始告示(使用開始)された。昭和15年3月14日には「押上通り」が東京市から供用告示された。これらの道が開通すると、先程の「墨東綺譚」ではないが、人々の通行の流れが一変した。今まではメイン通りであった虎橋通りが裏通りになった。
「曳舟たから通り」と押上通り」へ、人の流れが移ってしまったわけである。それまでは商店が軒を並べ、結構繁栄した商店街だった虎橋通りも徐々にその賑わいを失っていく。その証拠に、前半の「とらばしどうり駅」のところで書いたように、昭和20年3月10日の大空襲で焼け落ちた「とらばしどうり駅」は、その時廃止となり、戦後も復活しなかった。既にそれだけの利用客がいなかったということである。
駅が無くなっては、通りは益々寂しくなる。虎橋通りには昔名残の商店が?2、3店ある程度。縁日さえ出たという賑やかな面影はまるで嘘のようである。今では人通りも少ない普通の家並みの中を何の変哲もないただの道となっている。むしろ一時期の賑わいを考えれば、時代の移り変わりを感じさせ、寂しささえ漂わせている道である。
隣りの「十間橋通り駅」は廃止ではなく、休止という処置で、戦後は復活して昭和33年10月22日前日まで営業を続けていた。十間橋通りは、戦前の昭和12年、同13年と道路拡張工事を行いそれぞれ部分開通させ、既に昭和8年4月1日に開通した「花みずき通り」に繋げている。
そして、今では2車線の自動車道と歩道のあるれっきとした街路になっている。それに引き換え、虎橋通りは4メートルの道幅があったりなかったりの昔ながら道で、車は一方通行がせいぜい。かって密集した商店街だけに移動・移築は大変だし、幹線道路への連絡条件も悪かった。まあ止むを得ない結果となった。
虎橋通りの消長は、明治・大正・昭和の初期のかけて、日本が西欧列強諸国に追い付け追い越せと、いっきに近代化産業路線を突っ走った時代、首都東京の向島の地で実際に起った出来事である。
また、向島の町が市街化・都市化へ向かっていく過程の中で生まれた多分に過渡的現象であった。それも向島の一つの特徴を示す歴史の刻印、一こまと見るべきであろう。 |
東京大空襲
1945年(昭和20年)3月10日は陸軍記念日である。その日は日本軍がハワイ奇襲攻撃を仕掛けたお返しの報復攻撃を兼ねた空襲があると、巷では噂が流れていた。東京は9日午後から北北西の強風が吹き荒れていた。こんな日に空襲がなければいいが、と不吉な予感に胸騒ぎをおぼえた人も少なからずいた。雪が道に残り、防火用水には厚い氷が張っていた。強風はやまず凍てつくような寒い夜になった。
零時八分深川地域に爆音とともに最初の焼夷弾の炸裂音が響き、炎が立ち上がった。空襲警報のサイレンは鳴らず、寝入りばなを襲われた人々は慌てふためいた。低空で侵入したB29爆撃機299機の大編隊は、隅田川を挟んだ下町区域に焼夷弾を次々に落とした。
第二弾が隣接する城東区に、第三弾墨田区本所、第四弾浅草と下町区域の外側輪郭にそって退路を封じ込めるように焼夷弾は落とされたのである。
今度はじゅうたん爆撃が襲った。史上最大の無差別じゅうたん爆撃である。米軍は木と紙でできた日本の家屋と街を破壊するために、油脂を固めて高熱で発火させる焼夷弾を開発した。
1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲は、約2時間半余りのアメリカ軍の爆撃により、墨田区域を含む下町全域で、死者約10万人、焼失家屋約27万戸、被災者約100万人という甚大な被害を出したと言われています。
墨田区には、今も、心の奥底に空襲の記憶を刻む数多くの人々が暮らしています。そして、その記憶を後世に伝えて欲しいとの願いから、100点以上に及ぶ戦時下の資料が区に寄せられています。それらの資料は、罹災証明書などのような、直接、空襲の被災を伝えるものばかりではなく、防空体制や統制経済に関わる戦時統制下の生活をしのばせるもの、また、満州事変や日中戦争などに従軍した出征兵士関連資料など、その種類は多岐にわたっています。
これら墨田区に寄贈された戦時下の資料を一堂に展示し、人々の戦争体験と記憶がいかなるものであったのか、また、下町に暮らした庶民1人1人に戦争は何をもたらしたのか、その意味について考えてみたいと思います。
朝は起床ラッパ、夜は消灯ラッパと規則正しい生活の始まりだった。幼い心にも戦争に耐え、愛や情け苦しみが1日1日募り乗り出した。東京の空はこっちの方角だと教えられていた方角に冬から春が訪れる矢先の昭和20年3月9日に空襲警報と共に真っ赤に染まった恐ろしい光景を目の当りにした。その時は、我が家も学校も焼失した事は知らず、数日たってから何となく耳にした。
それからというもの、敵機(B29、戦闘機、双胴のロッキード)は上空をひっきりなしに飛び交うようになり、秋田県大館の方に移り昭和20年8月15日、この太平洋戦争は日本の敗戦で終わり、日本人の尊い犠牲を払ったが、互いの同朋愛で慰め合い戦後の復興には目を見張るものだった。
一方、東京では昭和20年3月9日を前後して雨、霰と焼夷弾が降り木造家屋は一たまりも無かった。学校では、4人の教員が防衛宿直した。昭和20年1月27日には校庭に50キロ焼夷弾が落下。そして、遂に昭和20年3月10日全焼の憂き目にあった。
第4吾嬬小学校から、曳舟小学校にと間借りしていたが、昭和22年9月、5教室の仮校舎が建ったが、相変わらず二部教育だった。校名も第2吾嬬小学校となった。
荒れ果てた校庭は全校生徒で毎日整備のため骨を折った。また、給食とは名ばかりの、当時の在校生に聞けば100人中100人が、幾ら、食べ物が無かった時代とはいえ、腹の足しにはなったが、あんな不味い飲物は無かったと答える、脱脂粉乳を水で溶かして温めて、アルマイトのコップに1杯ずつの代物だった。
昭和25年には、パンとミルク(脱脂粉乳)におかずのついた給食が始まった。最初は希望者だけだった。
野外ステージ(職員と生徒がモッコを担いで、1年以上、石や土を運んだ)は全国的にも珍しく、学芸会や七夕まつりと使われましたが、後にプールと変わりました。
この頃から池田内閣の所得倍増計画と東京オリンピックで世の中では、もう戦後は終わったといわれだし、校舎も生徒数に合わせるように建ち、すし詰め教室も解消されてきた。
体育館、プール、木造校舎から鉄筋校舎へ建て替えられ始め、校舎が4階建になり、校庭も僅かなり共広くなった。生徒数も最高は昭和8年度に2,719名、閉校時は236名と1/10以下になってしまいました。残念ながら平成11年3月31日閉校となった。新に当校が新校として出発した。
明治26年開校以来明治、大正、昭和、平成と1世紀以上のながきに渡り、火災、洪水、関東大震災、第2次世界大戦とさまざまな困難にもめげず、閉校の記念式典が盛大に催され105年に幕が下された。そして、新らしい押上小学校(第2吾嬬小学校、西吾嬬小学校、文花小学校)が誕生。
なお、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲に関わる原体験が、多くの人々の戦争の記憶と認識を規定しているという点を鑑みて、はじめに東京大空襲の実相を人々の戦時体験と人々の個々の空襲体験をしのばせる思い出深い品々を、「学童疎開」、「軍隊と出征」、「戦時下の統制生活」、「戦時下の組織」というテーマに類別して紹介し、大局的な時代状況に関わる資料にこめられた「個人」としての戦争体験や「思い」が浮かび上がる「個人」の体験と記憶を抜きにして戦争の実相を把握することはできない。と、いう過去の戦争の惨禍を真摯に見つめ、未来につなげていく平和の一里塚としての役割をいささかでも果たすことができるよう、切に希望いたします。 |
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