中和小学校

(菊川1−18−10)
開校 明治 8年− 9月−22日
校地面積 3,907u



明治8年創立の歴史がある

中和小学校の名前の由来は、
「中庸」の内容からきている

 





 

通学区域

立川1丁目全域
立川2丁目全域
立川3丁目全域
菊川1丁目全域
菊川2丁目全域                                       
            竪川中学校へ
 


校歌

作曲:小山 作之助  作詞:中村 秋香

1.中和を名におう まなびやに  
  たつ我友は の間も
  いかでわすれん 中和の名
  中とは過不及 なきところ
  和とはほどよき こととかや
2.中和はかわれる ことならず  
  またむずかしき わざならず
  人のふむべき 常のみち
  昼ははたらき 夜はやすみ
  勉めてあそぶは これ中和

明治34年12月制定


教育目標

人格の完成をめざし、
生涯学び続けようとする意欲と態度をもち、
国際会社において、
信頼と尊敬を得るにふさわし児童の育成に努める。
O よく考えてくふうする子ども
O 自主的に富み責任感の強い子ども
O 健康で明るい子ども
O 心ゆたかで思いやりのある子ども 



 



墨田の災害

◎地震

 現存する小学校では、牛島小学校が廃校になってから、区内で一番古い小学校になりました。この地域は、隅田川の堆積物が長年に渡り流れ込み、中州が出来、湿地が出来、陸地になったという特殊な地域で、災害には非常に弱い所です。

 墨田区域における地震災害は、その被害の大きさから「大正(関東)大震災」の右に出るものはないが、それ以前にも大きな地震が数多く発生している。その記録をひもといてみると・・・・・。

 関東地方一帯は、古くから幾多の地震に襲われており、江戸時代初期にも慶長9年(1604)、元和元年(1615)、慶安2年(1649)と相次ぐ地震によって、、江戸では大きな被害があったことが記録されている。しかし、当時本所、向島付近はまだ開けていなかったため、被害程度はわからない。

 元禄16年(1703)11月22日夜、関東一円を襲った大地震は、激震地の江戸・小田原などを中心として倒壊家屋20,162軒、死者5,233人という被害数字を残している。しかもこの地震に伴う津波が、相模灘,東京湾に来襲し、沿岸の町村に多大の損害を与えた。

 地震発生当時の状況を「
増訂武江表は「11月22日宵より雷強く、夜8時時地鳴ること雷の如し、大地震、戸障子たふれ、家は小船の大波に動くが如く、地2、3寸より5、6尺ほど割れ、砂をもみ上げあるひは水を吹き出したる所もあり、石垣壊れ家蔵潰れ、穴蔵揺あげ死人夥しく、泣き叫ぶ声、街に囂(かまびす)し・・・・・・・」と記している。

 さらに「甘露叢(かんろそう)」によると、「本所辺ハコトサラ潰屋有之、桜田辺本所辺、、芝新堀端、地大ニ破裂ス」とあって中でも本所方面の振動が激しく、地面に大きな割れ目を生じて水が噴き出した状況を伝えている。

 安政2年(1855)の大地震は、、江戸時代を通して最大の物であった。10月20日午後10時ごろ、なんの前兆もなく、突然地鳴りとともに激しい振動が起こり、多くの家屋が倒壊し始めた。

 ところが、この初期振動が静まりかけたのを見て、市民の多くは品物を取り出そうと再び家に入ったため、時を移さず襲来した主振動によって惨死者がおびただしい数にのぼったという。そのうえ地震と同時に各方面から火災が発生し、江戸の大半を焼失した。

 町方の調べによると、倒壊家屋14,346、同じく土蔵1,404、死者3,895人(或いは4,626)とあり、これには武家が含まれていないので、両者を合わせると被害は更に増えるはず。

 ことに被害の多かったのは、本所、深川地区で、震源地はこの付近にあったといわれている。

 「安政乙卯武江地動之記」によると「
本所の北は殊に振動甚しく、家々両側より道路へ倒れかかりて往来なりがたし。死亡幾百人なるを知らず。号哭の声、巷に満ちて囂しく、野宿の族、風雨に犯され、其困苦、目も当てられぬさまなりとぞ」とあって、そのはげしい様子が伺われる。

 「安政見聞誌」から本区関係の被害記録の一部をあげると「
本所徳右衛門2丁焼る此の辺、武家、町家共多いに崩る。

 北本所中之郷石原丁、2丁やける。

 南割下水辺りより所々武家小屋敷崩れ、町家より寺院等の破損土蔵安体なるもの1ヶ所もなし。

 三囲稲荷白鬚社内、木母寺梅若塚向島一円、同隅田川西方、南方民家旅龍や大破損
」などとある。

 明治年間に発生した地震として記録されるものは、明治25年(1892)、同27年、同28年などがあり、何れも家屋倒壊、圧死などの被害を出している。しかし、これらの地震は幸い火災を伴わなかったため、何れも大事に至らなかった。

 大正12年(1923)9月1日の大地震が、世界史上稀に見る変災であったことは、だれもが知るところであろう。台風気味の空模様が晴れあがって間もない午前11時58分44秒、東京地方は空前の大地震に襲われた。主振動は約10分間にわたったが、振動は比較的緩やかであり、振幅は安政の大地震よりも大きく、震力むしろ軽いようだといわれている。

 区内においては、横網町安田邸付近から南方竪川に至る被服廠跡、亀沢町、相生町、松坂町、松井町の各一部、および源森川から北部の市・郡境、その東南柳島横川町、同梅森町に至る地域ならびに林町2丁目、菊川1丁目付近が最も激震で、この方面一帯にわたって30cm〜60cmの不規則な揺り下がりがあり、まるで大波小波が次々と押し寄せてくるような様子だったという。

 人々はただあわてふためき、先を争って戸外に出たものが多かったが、路上の人も僅かに歩行で切る程度の激しい振動であった。従って倒壊家屋は25%に達し、初震と同時に一切の交通・通信は途絶え、水道・電気・ガスもすべて使用不能となった。

 ことに昼時であったため、各家庭はいずれも火を使用しており、それを消す余裕がないままに家屋倒壊が続出したため、本所17ヶ所、向島6ヶ所から一斉に発火、午後5時ごろまでに本所の大部分は焼失した。かの38,000人の死者を出した被服廠跡が、大旋風によって火の海と化したのは午後4時ごろで、旋風の風速は毎秒70〜80メートルに達したといわれている。

 一方向島地区は、吾嬬町方面の一部を除いて、棒かが迅速に行われたといわれたので火災による被害は比較的少なかった。



 
◎水害

墨田区域の人々は、江戸時代から現在に至るまで、間断ない水害に悩まされてきた。それは土地が低湿なうえ河川に囲まれている本区域の、宿命であったともいえる。

 江戸の町々襲った水害は記録に残るもので前後20回。このうちの墨田区域に影響したおもな水害の幾つかを取り上げてみよう。

 寛文11年、延宝8年と続いた水害のあと、宝永元年(1704)には6月からの雨で7月3日猿股(葛飾区水元)の堤防が切れ、亀戸辺りから本所・深川が濁水につかり、幕府は本所奉行等に命じて被災者を救護させている。

 享保13年(1728)9月、大雨による出水で両国橋、新大橋が流出したが、江戸市中の被害は、もっぱら山の手方面に集中した。

 寛保2年(1742)には、7月末からの大風雨によって隅田川その他の河川が出水し、江戸市中に被害を生じた。本区の地域もまた、寺島堤の決壊により本所の各町、寺島村、隅田村などで浸水が甚だしかった。幕府は被災者の救援にあらゆる手を尽くし、本所・深川の極貧の者590人(総人口44,380余人のうち)に救援米30日分を、隅田・寺島村など各村に米3,4俵ずつを支給するなどの措置をとっている。

 天明6年(1786)には、この6月から降り続いた雨が7月には大雨となり、18日の利根川の決壊から隅田川等が氾濫した。このため「荒川筋には梅若、寺島、須田(隅田)、須崎、この村々に住みける者、秋葉堤にのがれ」(後見草)るほどの出水で、本所方面のみでも被災者21,050人と記録されている。

 幕末の弘化3年(1846)6月下旬の水害は、江戸時代を通して最大といわれている。この月初旬から降り続いた雨で各河川が増水し、27日から29日までの間に、利根川・中川・江戸川・荒川の堤防が切れ、葛西・小菅・向島・本所・深川一帯は「巨海の如く」みえたと伝えられている。更に、7月7日にも大雨が降り、一帯は再び増水して「本所辺りところにより水、軒につく」(武江年俵)ほどの状態となり、幕府御船手組により救助された者は、中之郷・請地・寺島・小村井柳島・小梅・大畑・須崎・押上・亀戸辺りで989人に達したと記録されている。

 なお、幕府は排水のために各所で掘割を作り、源森川を切り割るなどの作業が行われていたようである。

 明治時代で本区に被害のあった水災は前後10数回にものぼるが、特に大きなものとして、まず、明治29年9月の水害がある。これは台風による大雨のため利根川・荒川・中川が氾濫したもので、隅田・寺島・吾嬬の各村で浸水家屋1,751戸(被災者6,265人)本所方面では3,181戸(被災者8,111人)となっている。

 明治43年8月の水害は、明治時代で最大のものである。月初めからの連日の雨で「坪当り平均8石2斗2升4合」という雨量となり、各河川の増水、堤防の決壊をみ、本所では浸水家屋約30,000戸、向島の東部から亀戸にかけて見渡す限りドロの海と化し、被災者は小学校等に収容された。

 この水害のあと荒川の水量の4/5を中川方面が流す荒川放水路の工事が開始されており、大正6年10月1日に東京地方が大風雨に襲われたときは、工事の完成も間近で、岩淵の水門を閉じて効果をあげたという。しかし、この時は台風による高潮の波が4メートルにも達し、本所区だけで4,000戸の浸水家屋を出している。

 時移って昭和13年、台風による出水で7月に向島区、9月には本所区と向島区に被害を生じている。その後の水害としては、昭和22年9月「キャスリン台風」によるものと、昭和24年9月「キティ台風」によるものとがある。ぜんしゃの場合は吾嬬・寺島・隅田の各町と柳原町の一部が浸水したにとどまったが、「キティ台風」による被害は大きかった。この台風は東京西部を通り、海岸堤防の決壊によって江東・江戸川両区に大損害を与え、墨田区においても床上浸水11,048戸、床下浸水29,166戸、被災者181,384人の被害を生じたもので、9月1日に災害救助法が適用され、区内20ヶ所に避難所が開設された。

 昭和33年9月には、狩野川台風による風水害があり、浸水43,405世帯(被災者189,874人)墨田区全域の81%が被災地域となった。

 昭和36年、第2室戸台風のあと同年10月の台風24号では、床上440戸、床下3,530戸の浸水家屋を出したが、その後は、さいわいにして大きな出水をみることなく現在に至っている。

 明治43年に起工した荒川放水路は大正13年に完成し、隅田川の氾濫する恐れを少なくしたが、キティ台風に伴う高潮が堤防を決壊し、ゼロメートル地帯に被害を生じた後、高潮対策として海岸及び河川の堤防増高工事が進められ、本区の周囲は堅固水門によって守られることになった。

 区においても関係機関と協力して災害予防対策、応急対策を整備充実し、水害のおそれを減少するよう努力を続けている。


 
◎火災

 緑の田畑、点在するわらぶき屋根、農村地帯としての営みを続けてきた幕末までの本区の北部地域は、水害におののく事はあっても大火災には殆ど縁がなかった。これに反して南部地域、すなわち、本所の地は、対岸の町々と同様に度重なる大火に見舞われてきた。

 記録をひもどき、その火災の跡をたどってみると・・・・・・・・・・。

 「火事と喧嘩は江戸の花」とうたわれたように、江戸の町々の歴史はまた火災の歴史でもあった。当時の家屋は木造で、屋根は板葺きや草葺が多く、特に季節風が吹き荒れる冬期に火災が発生すると、たちまち燃え広がり、貧弱な消防力では手のつけようがなかった。

 墨田区の南部地域本所村の市街化が進められて江戸市中に編入されたのも、明暦3年(1657)の大火災によってである。すなわち、俗に振袖火事とも呼ばれる、この火災で江戸の町5百余町が焼失したあと、幕府の復興計画に従って墨東の土地が整備され、町屋、武家屋敷、社寺等がここに移転して本所の市街が成立した。

 ちなみに両国の回向院は、この大火の犠牲者を埋葬して一寺を営んだものである。

 本所の地で最初の大火は、元禄16年(1703)11月29日、小石川の水戸邸から出火した「水戸様火事」であったといえよう。同月22日の大地震によって江戸の町々に被害を生じた直後のため、地震火事とも呼ばれるこの火災は、浅草見付から本所に飛び火して回向院を焼き、東へ延びて三ツ目通りまでの南本所一帯を焼失し、南は深川にまで及んだ。

 その後も、正徳3年(1713)には下谷から、享保17年(1732)には浅草から出火して本所に飛び火し、いずれも南本所から深川にかけて焼失している。延享3年(1746)になると正月と2月の2回、大火に見舞われている。

 特に、2月末日のそれは、午後2時ごろに大横川辺りから出火して霊山寺などの寺院や周辺一帯を焼失し、さらに午後10寺前、築地本願寺わきから発した火が浜町を経て本所に移り、現在の両国2・4丁目、横網、千歳、緑辺りの町屋、武家屋敷を焼いたと記録されている。

 明和8年(1771)2月29日には、浜町から出火して対岸の本所に飛び火し、本所ニッ目、北割下水、法恩寺を経て小梅村付近まで延焼した。

 「続談海」の伝えるところによれば、その被害は現在の千歳、立川1、両国3・4(竪川沿い)、緑1・2(竪川沿い)石原4(大横川沿い)の町屋のほか法恩寺本堂と寺中一三ヵ寺、霊山寺本堂と寺中七ヵ寺、本法寺本堂と寺中6ヵ寺、その他の寺院、二之橋と法恩寺橋、多くの武家屋敷に及んでいる。

 本所の火災は、以上のように隅田川対岸からの飛び火によるものが多かったが、寛政2年(1790)1月22日には、中之郷瓦町(吾妻橋3)から出火、猿江を経て深川方面へ、23日には小梅村から出火して三ッ目通を延焼して旧中川辺りへ、そして24日には小名木町から出火して幅50メートル、長さ145メートルを焼いており、さらに同年10月には本所緑町4丁目(今の緑3)から火が出て菊川付近までと、合わせて4回の大火に見舞われている。

 つぎに文政元年(1818)10月には浅草に発した火が中之郷に飛び火し、北西の風にあおられて割下水、三ツ目通り、四ツ目通りを焼き払い、深川扇橋向いの6万坪あたりで鎮火したが、一部は法恩寺通りから遠く砂村(現江東区砂町)にまで延焼した。

 天保10年(1839)3月の火災は北本所表町の湯屋が火元で、北方へ延焼し、中之郷、小梅代地町を経て小梅村、洲崎村、中之郷村を焼き、寺島新田まで長さ約1.8kmを焼失している。

 江戸期最後の大火は慶応元年(1865)12月で、浅草田原町付近から出火、本所に飛び火したのち、今の亀沢4、石原4丁目辺りから三ツ目通りを経て、深川猿江や大島村に達する火災であった。

 このように、江戸時代を通して多くの火災に見舞われたが、墨東の人々はその都度、焼け跡から立ち上がり、たゆまぬ営みを続けてきたのである。
 明治時代になっても火災に弱い町々の諸条件はほとんど変化がなく、幾たびとなく多くの家々が焼けた。

 明治8年(1875)12月17日に夜、横網から発した火は、ほぼ1時間の間に213戸、約4,000uを焼失する大火となった。さらに明治14年1月には、26日午前1時半ごろ神田から出火し、西北風にのって本所元町(両国1・2丁目辺り)に飛び火し、深川方面に延焼して翌27日の夕刻にようやく鎮火している。

 この火災で本所では千歳町、松井町、元町、相生町、松坂町の各町(現在の千歳、両国)が延焼し、各町の合計戸数1,280戸のうち1,098戸を焼失、被災した者は4,000人を超えた。

 また、明治27年4月15日には向島須崎町から出火し、、折りからの西北の強風にあおられて向島小梅町に延焼、牛島小学校(今の都立本所高校の地)を含めて225戸、約14,000uを焼失した。この時、隣接の吾嬬村でお大火の影響で20戸(33棟)が焼けたといわれている。

 以後、本区では大震災、戦災を除いて、往時のような大火災は影をひそめた。ただ、記録に残るものとして、昭和30年8月1日の厩橋花火工場爆発がある。この日、厩橋1丁目26番地(現本所1丁目)の花火工場が爆発して付近の171戸全半焼し、同時に発生した火災によって18棟が全半焼した。

 しかも、死者17人、重軽傷者28人を出すという痛ましい事故であった。この火災の直後、地元町会では炊き出しその他の救護活動に尽力したが、区でも、区議会に設けられた災害対策特別委員会の決定に基づき、被災者に対して弔慰と見舞いを行っている。


 
◎戦災

 第2次大戦で人類が被った損失は、天災とは比べようがない。日本国民もまた大きな代価を支払って、戦争に対する憎しみを学び取ったのである。

 非戦闘員の被害は、広島、長崎の原爆によって象徴的に表されているが、それと共に忘れてならないのは、”東京大空襲”であろう。そして東京大空襲で最大の犠牲を強いられたのは、墨東地区住民であった。

 昭和20年3月10日の出来事は、本区における戦災の歴史をひもとくとき、忘れることはできません。

 先の大戦では、東京を初めとして各地の都市が空襲により大きな災害を被った。

 昭和17年4月18日の東京に対する初空襲は小規模な奇襲であったが、19年11月からは本格的な空からの攻撃が連続して行われるようになった。

 墨田区(当時、本所区と向島区)の地域が空襲を受けたのは11月29、30日が最初で、以後、翌20年5月までの間に幾たびか繰り返されている。この間の被害を焼失面積でみると、本所区は面積6.49kuのうち焼失面積6ku強で、焼失率は約96%、向島区は面積7.9kuのうち3.7kuが焼失して焼失率は約47%となっており、墨田区地域合計では、69.2%の焼失率となっている。そして、焼失面積のほとんどは3月10日の空襲によるものである。

 なお、戦災を主な原因として本区地域の人口も激減した。即ち、19年10月に438,000人余を数えた人口が、20年10月には78,000人を下回っていたのである。

 昭和19年11月1日、東京の上空1万メートルに1機のアメリカ空軍機が見せ始めてから姿20日を余りの後、東京に対する本格的な空襲が開始され、日ごとに激しさを増していった。

 本区の地域に対する初空襲(11月29、30日)の来襲機数は約10機といわれ、一部地域に焼夷弾が落下したが、記録に残るほどの被害はなかった。ついで、12月30日の空襲の際にも若干の焼夷弾が投下されたが、被害は少なかった。

 昭和20年に入ると、1月27日の昼間に72機が来襲し、向島区内に爆弾17発と焼夷弾20発が投下された。このため、死者29人、負傷者47人のほか一般家屋や工場にも損害を生じ、被災者は647人と記録されている。

 2月に入ると、25日午後2時過ぎから、この日2回目の空襲があり、東京の各所で相当の被害を生じた。本区地域では死者17人、負傷者44人、被災者およそ4,400人に達した。また、その被災地域は東両国、亀沢町、横網、緑町2・4丁目、菊川、竪川、横川橋、平川橋2・3・4丁目、業平橋2・4・5丁目、寺島5・6・7丁目、隅田町4丁目、吾嬬町東2丁目(いずれも当時)の各町に及んだ。

 このようにして空襲は日を追って激しさを加えていったが、その目標は一応軍事施設や工場とされ、高空からの攻撃に終始していた。

 それが一転して、一般住民に対する無差別爆撃、市街地に対する焦土作戦となったのは3月10日未明の大空襲からである。

 3月9、10日にわたった空襲で、東京の市街地の約40%が焼失し、特に、本区の南部地域をはじめ墨東地区の被害は壊滅的であった。

 325機(大本営発表では130機)の来襲機は低空から波状攻撃を行い、投下された焼夷弾は大小あわせて約19万発、およそ2,000トンに達したといわれている。この日、墨東の地域は特に集中的な攻撃を受け、1uに3発という焼夷弾の火は、折りからの烈風のもと、短時間のうちに広がり、当時の本所、深川、城東および浅草の各区はほぼ全焼した。

 しかも、逃げ惑う人々の行く先々は巨大な火の壁で遮られ、焦熱地獄の中で多くの人々が倒れていったのである。このため警視庁調べで約88,000人の焼死者を出したが、それは関東大震災の死者をはるかに上回るものであった。

 本区地域における死者約26,500人、負傷者36,500人、全焼家屋82,500戸、被災者は実に282,000人と記録されているが、東京都全体の死者は10万人に達するであろうとの推定もあり、本区地域の被害を示す数字も確実なものとはいえない。

 3月10日の後、なお、東京に対する空襲は続いた。4月4日午後、東京の各所に爆弾が投下され、向島区内でも死者49人、負傷者89人等の被害があった。

 さらに4月13日夜半から14日未明にかけて約160機、続いて15,16日にかけて約200機による大規模な攻撃があり、この2回の空襲で都内では22万戸が焼失したとされている。この時は向島区の寺島8丁目、隅田町1・2・3丁目、吾嬬町西9丁目に被害を生じ、死者46人、全焼1,300戸余り、被災した者約4,800人に達している。

 5月の末になって、東京地区に対する最後の攻撃が行われた。24日未明の空襲は主として都内西部に対して行われたが、翌25日には2時間半にわたり都内の未焼失地域(本所、渋谷区の両区を除く33区)が攻撃目標とされ、この空襲によって、都の全域で15万戸余りが焼け、約56万人が被災した。向島区でも寺島町1・2・5・6丁目に焼夷弾が落下し、被災者は1,400人を数えている。

 建造物が消えた東京は、以後、焼夷弾攻撃の対象から外され、80日後に戦争は終わった。戦災による犠牲者の内身元不明者については、戦後、東京都慰霊堂(横網2丁目3番25号)に納骨された。慰霊堂では毎年3月10日に法要が営まれており、そこには今なお7万数千体におよぶ無縁の犠牲者が、引き取り手のないまま眠り続けているのである。
 



菊川

長谷川平蔵住居跡  (所在 墨田区菊川三丁目十六番)

 長谷川平蔵宣以(のぶため)は、延享三年(一七四六)赤坂に生まれました。平蔵十九歳の明和元年(一七六四)、父平蔵宣雄の屋敷替えによって築地からこの本所三の橋通り菊川の、一二三八坪の邸に移りました。

 長谷川家は三方ケ原(みかたがはら)の合戦以来の旗本で家禄四〇〇石でしたが、将軍近習(きんじゅう)の御書院番組(ごしょいんばんくみ)の家として続いてきました。天明六年(一七八六)には、かつて父もその職にあった役高(やくだか)一五〇〇石の御先手弓頭(おさきてゆみがしら)に昇進し、加役(かやく)である火付盗賊改役(ひつけとうぞくあらためやく)につきました。

 火附盗賊改役のことは、池波正太郎の「鬼平犯科帳」等でも知られ、通例二、三年のところを、没するまでの八年間もその職にありました。

 また、特記されるべきことは、時の老中松平定信に提案し実現した石川島の「人足寄場(にんそくよせば)」です。当時の応報の惨刑を、近代的な博愛・人道主義による職業訓練をもって、社会復帰を目的とする日本刑法史上独自の制度を創始したといえることです。

 寛政七年(一七九五)、病を得てこの地に没しました。この地は孫の四代目平蔵の時、江戸町奉行遠山金四郎の下屋敷ともなりました。

墨田住宅センタ−建築道具・木組資料館

 都営新宿線森下駅から歩いて10分ほどの所に、毎年9月15日、“針供養”が行われることで有名な『弥勒寺』があります。

 江戸時代の史蹟に触れる散策をしながら、そのすぐ側の『墨田住宅センター 建築道具・木組資料館』を訪れてみましょう。ここでもまた、日本の歴史に触れる良い機会に出会えます。世界最古の木造建築といわれる「法隆寺」に釘が使われていないことは、有名な話です。

 でも、もともと日本の家は、“釘を一本も使わないで柱や梁などを組上げる”のが伝統であったなんて…、知ってました?その為、家一軒を建てるのに、実に色々な道具を器用に使いこなせなければならなかったんですね。改めて、大工さんの手仕事って大変だったんだな、と感心させられてしまいます。

 よく時代劇の中で、大工さんが木の箱を肩に抱えて歩いているシーンを見ますよね。あの中に入っている数々の大工道具を、この『資料館』で見ることができるのです。また、木が「木挽きやさん」によって山から切り出され(山出し)、材木になるまでの間に用いられる各種の道具なども、展示されています。

 館長の森下さんに、実演を交えながらの話をお聞きしました。『昔釘がなかった時代に、日本人は、その柱の用途用途に合わせた一番良い木の組み方を考え出し、そして、長い間伝え継いできたのです。

 しかしながら、こんな素晴らしい職人芸も、現代では、宮大工さん以外の一般の若い大工さんには、伝わっていないのです。』とのことでした。本当に残念なことですね。

 住    所 〒130−0024 東京都墨田区菊川1−5−3 電話03−3633−0328
 開 館 日 祭日を除く毎週土曜日・第4日曜日時間10:00〜16:00