菊川小学校

(立川4−12−15)
開校 明治45年 4月 1日
校地面積 3648u

 






 

通学区域

立川4丁目全域
菊川3丁目全域
江東橋1丁目全域
江東橋2丁目19番を除く地域
江東橋3丁目全域
江東橋5丁目全域                                      
                     竪川中学校へ
 



新・校歌

1 昔をしのぶ 竪川の
  静かな水に 影うつし
  雄々しくたてる 学舎は 
  われらの母校 菊川よ
 
2 あかねに映える 富士の山 
  誇りも高く はげみ合う
  あすの日になう 若草の
  たのしく集う この園よ
 
3 正しく強く おおらかに
  むつみて共に 行くところ 
  文化の花は 咲きかおる
  われらの母校 菊川よ
 

旧・校歌

作詞 佐藤 忠  校閲 佐々木 信綱
作曲 田村 虎蔵

1 千代に八千代に栄え行く  
  菊のしずくに うるほいて
  心に清く 身もゆたかに
  よき民 草と伸びゆかん
 
2 日日に新たに よどみなき
  川の流れ ひとすぢに
  いそしみはげみ われとわが  
  道を求めて すすまばや
 



教育目標

社会の国際化が進む中で、
人権尊重の精神を基調とし、
心身ともに健康で、豊かな人間性をもち、
生涯を通じて主体的に学ぶことのできる児童の育成をめざす。

○ 
進んで学び 深く考える子
   「自ら学ぶ意欲をもち、社会の変化に主体的に
   対応できる児童を育成する。」
 正しく判断し 責任をもって行動する子
   「自ら判断し、自らの力でやり通して表現、
   実践する児童を育成する。」
 思いやりの心をもち 助け合う子
   「思いやりの豊かな心を育み、よりよい集団づくりを
   めざして認め合い、励まし合い社会の一員としての
   自覚を高め合う児童を育成する。」
 いのちを大切にする子
   「自他の生命を尊び、健康で明るく活力のある児童を
   育成する。」

 


 欧米から新しい産業も流入してきました。フランス留学で、技術を習得した清水誠は、明治9年(1876)本所柳原町(現江東橋)に日本初のマッチ製造会社である新燧社を設立しました。これを機に、マッチは庶民の暮らしに浸透していきました。当初は輸入品で占められていた。

 マッチも、明治10年代には逆に中国やインドなどアジアへ輸出するまでになりました。資料館では、新燧社のマッチラベルの展示を行っています。

 柳原町の子供達は、菊川国民学校(現菊川小学校)に通っていました。しかし昭和19年(1944)、戦局の悪化により、東京都は国民学校第3学年以上の学童疎開を本格化します。

 これを受けて、菊川国民学校でも、その年の9月に、3年生以上の子供達を千葉県大網町、土気町、東金町に分散させて集団疎開させました。しかし、翌年の3月初め、東金にいた100人以上の6年生が、受験のため東京に帰り、3月10日の空襲に遭遇し、約8割が死亡するという悲しい結果となりました。

 菊川公園は、昭和20年3月10日の東京大空襲の時、下町はB29による爆撃を受け、墨田区の9割以上の地域に被害が及んだ。特に菊川小学校(当時は菊川国民学校)へは何百もの人々が避難し、そのうち助かったのはわずかで、講堂や校舎に重なり合った死体の山は目をおおうばかりだったという。

 疎開先に残っていたおかげで、一命を取りとめた5年生以下の子供達にも、さらなる苦難が待ち受けていました。東金周辺は、米軍による九十九里浜方面への上陸作戦に備えて、兵団の配備と陣地構築が進められていました。

 つまり、菊川国民学校生の疎開先は、まさに本土決戦の最前線基地だったのです。そのため子供達は、岩手県に再疎開させられてしまいました。

 柳原町の人々そして菊川国民学校の子供達の運命は、戦争に翻弄された「銃後」の庶民の悲劇を象徴的に物語るものといえるでしょう。

 本所区柳原町(現江東橋5丁目)をモデルに、町会長鈴木繁雄氏・元住民斎藤亘弘氏の調査結果に基づいて当時の町並みの復元と空襲犠牲者の把握を試みました。

 昭和12年(1937)の時点では、572世帯、2,509人の居住が確認されていて、今回の調査でわかった死者数は約215名です。これは、町人口の約8.5%になります。ただし、疎開による人口の減少や身元不明の多数の犠牲者を考慮すると、死亡率は更に高まるはずです。

 ほかにも性別の確認ができた136人の死者のうち82人が女性、年齢の確認ができた85人中、42人が20歳未満の子供という結果が出ました。また柳原町は、軍需物資を納入した家内工業もありましたが、菓子屋・紙芝居屋・理髪店などの、戦争とは関わりの薄い店舗が軒を連ねていたという状況も確認できました。

 深夜、アメリカ軍が行った大規模な空襲で、墨田・江東区域を中心とした東京の下町地域が一瞬にして壊滅状態となり、女性や子供を含む多くの一般庶民の命が奪われました。

 第二次世界大戦下では、国民の戦意をくじくという名目で、こうした無差別爆撃が頻繁に行われ、世界各地の都市が標的となり、廃墟と化しました。中でも、この東京大空襲は今日に至るまで、世界最大規模の犠牲者をだした空襲といえます。

 3月9日の夕刻に、マリアナ米軍基地を飛び立ったB29の編隊は、3月10日午前零時過ぎから約2時間余りの間に、約1,700tの焼夷弾をばらまき、大火災を発生させました。その被害は、死者10万人以上、焼失家屋約27万戸、被災者約100万人と推計されています。

 米軍は、深川・
本所向島・浅草・下谷・日本橋を含む地域を「焼夷弾攻撃地域第一号」に指定しました。その理由は、家内工業と下請け工業が密集し、その労働者が居住する下町は、「すべての家が軍事目標」と見なされたためといわれています。そして、ここに2.6Ku当り60t以上の焼夷弾が投下されたのでした。

 まず、先導隊のB29が、瞬発的に火災を発生させるM47焼夷弾(ナパーム弾)を30.5m間隔に投下し、後続のB29のために目印となる火災を起こしました。この目標火点を火炎で網の目に結び、全体を焼き尽くすため、さらにB29の本隊がM69焼夷弾を撒き散らしました。

 これは、六角形の金属筒に、ガソリンを配合したゼリー状のナパーム剤が詰めてあるもので、着地と同時に尾部からこれを噴出し、家屋や人、荷物にくっついて燃焼させるという強力な焼夷弾です。

 その上、48発を1つに束ねて空中で分解する構造になっていたため、その投下密度は極めて高いものでした。

 3月10日の空襲は、米陸軍マリアナ基地の司令官、カーチス・E・ルメイ少将の指揮によって実施されました。

 ルメイの作戦は、ドイツのハンブルクに対する空襲と、すでに昭和19年(1944)11月1日から始まっていたB29による東京空襲の効果を分析し、綿密に計画を練った上で実行されました。

 それまでの空襲は、日中に高い高度から軍事施設の目視による精密爆撃を中心としていました。しかし3月10日の大空襲は、戦略を根本的に転換、夜間にしかも超低空から、レーダーを用いて下町の人口密集地域を焼夷弾で焼き払うという作戦が決行されました。

 
 竪川

 首都高速7号小松川線が開通するまでの、東京の空は決して青く澄んではいなかったが、空はよく見えていた。「東京の空には空がない」と高村光太郎の智恵子沙の中では詠われているが、ここ竪川では、太陽が眩しく、ふりそそいでいた。

 隅田川の左岸、両国橋の下流から旧中川までの5.15キロメートルが、1657年(明暦3年)の大火事(通称、振り袖火事)の後、両国橋が完成(1659年「万治2年」)した翌年に大横川、南北の割下水と共に堀削された。河口には竪川水門があり、一之橋に始まり、塩原橋、千歳橋、ニ之橋(清澄通り)、西竪川橋、竪川橋、新竪川橋、三之橋(三つ目通り)、菊花橋、新辻橋、牡丹橋跡、四之橋(四ツ目通り)、松本橋、亀島橋、五の橋(明治通り)、竪川大橋(丸八通り)、新五の橋、そして旧中川に合流する。

 この間水面が見えるのは菊花橋先の大横川合流地点までで、その先は親水公園として、横十間川合流地点まで、その先(江東区)も新六之橋手前まで親水公園化されている。

 もともと、竪川が堀削された頃は一之橋から五の橋の五つの橋が架けられ、沿岸は荷揚げが各所に設けられ、炭屋、石材屋、瓦屋などが軒を並べ、川の両岸沿いが町人の住宅、在所となっていたようだ。

正岡子規 作
 
 
たて川の 茅場の庵を 訪いくれば 留守の門辺に 柳垂れたり

 学校北側の竪川にフタを覆い被すようなかっこうで使われている首都高速7号小松川線のおかげで、親水公園と変わってしまたが、昔の竪川は申し訳程度の噴水があるだけの昼なお薄暗い、大人でも、いたたまらない空間を造ってしまい、それでなくても緑の少ない下町にコンクリートのビルやマンションが建ち並ぶ東京砂漠を進行させる施策でいいのだろうか。

 竪川の歴史は、約350年の年月があるが、振り返ると本所、深川の街造りに重要な役割を持っている。その沿岸に栄えた文化は、高速道路や埋め立てで完全に否定されてしまった。

 川や水面は自然の大きな要素で、熱を吸収し水分を蒸発させ、周囲を潤す。緑と水辺があれば、虫や小鳥、魚が群れてくる。人間の子供たちもそんな環境があれば、贅沢も出来なくても素直に育つが、東京砂漠といわれるようなところでは、まともな子供は育つはずがない。

 一方を立てれば、片方は犠牲にしなさいでは、憤まんやるかたない。子供は国の将来のかがみともいわれるくらい大事な宝物、未来を託すには自然環境を大切にする教育をもっと取り入れないと「バーミヤンの大石仏」を破戒し国を滅ぼした「アルカイーダ」が出現しないともかぎらない。

 ドイツの北部にドレスデンという美しい町がある。第2次大戦の連合軍の空襲で完全破戒されたその町に、このほどオペラ劇場が復元された。壊れた劇場の何百万というかけらに番号をつけて保存し、そのかけらをつなぎ合わせたという復元方法が国民性をよく表わしているが、国民性の違いというだけでは片付けられないと思った。

 文化を育てるには時間と忍耐強い精神力に裏付けられた努力が必要である。