菊川
現在の菊川は1丁目から3丁目まであって、南側は江東区に接し、西を、かっての5間堀、北を菊柳橋から中和小学校横通り、東側が大横川で囲まれる地域である。昭和42年5月1日の住居表示では、町丁の変更はされていない。
「御府内備考」によると、「菊川町之儀者4ヶ町ニ相分御中間方、御小人方大縄拝領町屋敷ニ御座候・・・・・上当所拝領之砌ハ本所南横堀ト申候処元禄九子年町屋御赦免ニ相成候節上町内地続西之方菊川ト申候川古跡有り之候ニ付則菊川町と町名相唱・・・・・」と記されている。
初め江戸城中の雑用をする中間・小人(ちゅうげん・こびと)の拝領地で、南横堀と呼ばれていた。その後、中間等の一部が本郷金助町への移転のあと、改めて、元禄9年(1696)に川古跡菊川に、ちなんで、菊川町と名付けられたことがわかる。
菊川についても「菊川幅1間 菊川町4町分西之方町屋裏武家地境ニ有之古跡之田、起立相知不申候・・・・・当町並、徳右衛門町近辺武家方下水落込上川ニ相成末ハ深川西之方へ相流申候」とみえている。当時の菊川は、北を竪川に面し大横川沿いに細長く4町に分かれた町で、現在立川の地域になっているが菊川小学校の名にも、その名残がみられる。
昭和8年9月の区画整理に際して現在と同じく区画となったのであるが、その地域は1丁目が林町2・3丁目の一部、2丁目が林町3丁目・徳右衛門町の各一部、3丁目が菊川2丁目と深川西町に一部を合わせたものであった。昔よりも南西に広がった町割になっている。
林町は旗本、林藤四郎という者がここに住んでいたことから起ったと伝えられている。
また、徳右衛門町は神田和泉橋辺にあった名主徳右衛門の開いた町だが、寛文元年(1661)火除地となり、移転させられてきたものである。明治5年に町丁の統合がおこなわれ、更に、昭和8年、区画整理により再編され、菊川町の一部となった。
柳沢吉保は浪人時代、現在の2丁目あたりに住んでいた。また、火付盗賊改めとして、石川島に人足寄場を作った長谷川平蔵の屋敷もあり、その後、町奉行の遠山左衛門尉の屋敷になったが、これは現在の菊川3丁目16番にあたる。越後新発田藩溝口主膳の下屋敷などもこの地域にみられる。
ところで、中和小学校は、明治3年弥勒寺塔頭徳上院での育幼社に始まるが、明治7年2月現在地に移転、第6中学区第1番公立学校となった。牛島小学校のない現在、区内で最も古い小学校である。故人となったが異色の弁護士正木ひろし、建築家吉村順三、山田四郎元区長もここの卒業である。狂言の野村万蔵、三宅藤九郎兄弟も林町で生まれている。
大正3年には、中和小学校内に東京市立中和図書館が開館している。
墨田区に初めて図書館ができたのは明治44年11月、本所高等小学校(現、二葉小)内に、東京市立本所簡易図書館(のちに、本所図書館)が開館されたときであるが、昭和4年六月15日には、寺島町立図書館が開かれ戦災で焼失するまで、区内に3つの図書館が存在していた。
中和図書館は、昭和5年、明徳小学校(現、本所中)に共同建築として移転し、東駒形図書館と改称していた。
明治22年5月の中外商業新聞によると、「本所区菊川町2丁目の東京乗合馬車会社は、昨年5月11日其筋より設立の許可を得・・・・・馬車も江木社長が英国にて購入し来りたる分、30両丈け到着したるを以って、既に此の程より仮営業を始しが・・・・・」とみえ、菊川から二之橋を渡り、左折して馬車道を両国橋に出て、九段まで通じていた。
市電が開通する明治35、6年まで繁昌した。今でも二之橋から北へ2本目の通りを「馬車通り」という愛称で呼んでいる。
また、笠間藩の鉄砲鍛冶から宮田製銃所を設けた宮田栄助は、明治23年木挽町から工場を菊川に移し、外国人の自転車を修理したのを機に自転車を製作し、我国で初めて工業化している。
昭和53年12月、新大橋通りに都営地下鉄新宿線が一部開通し、三ツ目通りとの交差点に菊川駅が開設された。
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