第3吾嬬小学校

(八広2−36− 3)
開校 明治8年 4月13日
校地面積 8797u

本校は明治8年4月、私立江幡小学校として設立され、
今年度で127周年を迎えた古い歴史と伝統を持つ学校です。




 





通学区域

八広1丁目26番〜42番
八広3丁目全域           寺島中学校へ
八広2丁目全域           吾嬬第1中学校へ
 




     



式典歌

作詞 児童代表委員会

作曲 渡辺 茂

1・長い歴史につつまれた
  りっぱな校舎広い庭
  楽しく元気に勉強し
  みんなみんな明日に
  向かって伸びていく
  輝く我らの第三吾嬬
  輝く我らの第三吾嬬
2・希望にもえた思い出と
  明るく育った足あとが
  いっぱいつまって二百二九年
  みんなみんな明日に
  向かって伸びていく
  輝く我らの第三吾嬬
  輝く我らの第三吾嬬


募集児童

平成17年度(2005) 100名
 



疎開先

 戦争が激しくなり、昭和19年8月に茨城県結城町に、
20年5月に秋田県本荘町に疎開した。疎開先でも食糧が少なく、
ひまわりやかぼちゃの種、ゆりの根なども食べて飢えをしのぎました。
 




花みずき通り
 
 吾嬬町だけでなく、向島地域自体も工場地帯となる条件を備えていた。震災後は忽にして中小工場が立ち並び、それに伴って人家、店舗も密集した。特に、まだ多くの田んぼを残していた吾嬬町の変化は急激であった。道路の新設、改正、整備は後発吾嬬町が採らざるを得ない産業社会へ向けての歩みでもあった。

 吾嬬町誌(町役場編)第12章交通及び運輸にも、次のような文がある。第1世界大戦後の好況は「猛烈なる勢を以って當町発展の補助作用を爲し、陸道の完成と舟輯(せんしゅう)の便を目指して蒐集せる大小無数の工場は文字通り雨後の筍の如き威勢を以って簇出(そうしつ)した。

 其の為めに反って當座間に合せ主義の乱脈通路の併出に陥るの奇現象を呈するに到ったのは止むない自然の弊害ともいうべきであろう。然して之が是正改修の成らない内に、この大正12年の大震災の災厄に會った東京市外の避難民が夥(おびた)だしく入りこみ来て、これが居住を満さんとして建築せられた家屋がまた乱脈通路に従って建てられたので、道路の改修是正に一大困難を来たして今日も依然として舊状態である。

 幸いに大東京復興計畫に依る東京府環状線道路(明治通り)は隣町亀戸より福神橋をヘ經て當町の中央部と貫通し隣町寺島に走ってゐる是が當町第一の交通路である。尚また、都市計畫に依る放射線道路(當町西5丁目33番地環状線道路より西9丁目21番地先の曳舟川に到る=花みずき通り)は既に一部の完成を見るに到り之が全線の開通も近きにある。其の他新設並びに改修計畫中の數線の完成によって當町の交通は稍(ようやく)や完全であるといえるであろう」と新設道路の開通を待望している。

 この頃、関東大震災後の帝都復興計画が一段落し、東京都市街路網計画が決定している。近郊の市街化傾向が顕著になり道路の建造が盛んであった。また、昭和7年(1932)10月1日には市域拡張で向島区が誕生し東京市に編入された。それらがあいまって、昭和初期、吾嬬町に道路建設ブームが出現したのである。寺島・墨田はまがりなりにも既設の道路があったため手がまわらなっかったようだ。

 昭和8年(1933)4月1日に「花みずき通り」が開通している。東京府公報第965号に、「昭和7年9月、法律第35号(東京市区域拡張に関し道路工事の執行・管理の権限を引き続き知事が行う旨の道路法特例)ノ規定ニ依リ本職ニ於テ新設ヲ爲シタル府縣道ニシテ工事ノ終了セルモノ左ノ如シ前項新設道路ノ區域ヲ左圖ノ通定メ之カ供用ヲ開始ス昭和8年4月1日東京不知事香坂昌康」とある。「供用」とは、今では使わない言葉であるが、使用を開始するという意味である。花みずき通りは、公報路線名は東京府道放射線第28号という。昭和7年9月編纂の町役場発行版「吾嬬町誌」には「既に一部は完成している」と書いてある。昭和6年11月発行編纂会編の吾嬬町誌には「現在工事中」と記載されているので、工事開始は昭和6年の頃と思われる。

 花みずき通りに面して、一種独特な珍しい野菜菓子を作って売っている名舗「梅鉢屋」がある。粋な向島の文化の香りが漂う銘菓である。ご主人に聞いてみたところ、以前は明治通りより十間橋側よりに店を構えていたという。昭和8年、花みずき通りが出来たのを機に、もっと広い工場敷地を求めて、その翌年昭和9年8月に現在地に引っ越したとのこと。その頃は、十間橋通りも建設途上でところどころ広い通りになっていた所もあったといっていた。

 なお、「花みずき通り」という愛称は、梅鉢屋のご主人の話によると、区が昭和61年8月に決定したそうである。これは当時墨田区で道路に愛称を付ける動きがあった時期と重なる。「花みずき通り」の歩道拡張整備がその直前に終了していた。街路樹を植えるに当たって、春は花を咲かせ、秋に紅葉し赤い実を結ぶ花みずきが選ばれた。ちなみに、道路に墨田区公認の愛称名を付けるようになったのは昭和61年8月からである。

 また、その前、昭和40年4月1日付で、「大正通り」をはじめ向島地区の道路の大部分は、都道から区道へ移管されている。

 また、昭和8年(1933)9月7日に、「中居堀通り」が、堀の西側道の整備を終えている。(東京市長告示)。この道は府県道題179号吾嬬新宿線と呼ばれていたところをみると、荒川放水路が出来る前は葛飾区四つ木で曳舟川通りと並行して亀有から古道、陸前浜街道には入り中川を渡り新宿まで通じていたということになる。

 なお、中居堀の暗渠工事が終わり、落成式が第4吾嬬小学校で挙行されたのが昭和29年1月27日。江戸時代に開鑿(かいさく)した農業用水路はここでも使命を終え全面道路になって開通した。

 花みずき通りが環状線になり鐘淵通りに連絡しているのと比べ、中居堀通りは荒川放水路で遮断される形になっていた。そのため何か、くすんだ感じが免れなかった。平成10年、八広6丁目54番地・八広4丁目51番地の地点で、花みずき通りを中川まで延長する直線道を拡充開設した。中居堀通りはそれに交差することによって以前よりずっと利用価値を増した。