第4吾嬬小学校

(京島3−64− 9)
開校 昭和2年 6月20日
校地面積 8002u



 





通学区域

京島3丁目11番〜31番1号〜7号、
       34番1号〜3号
       35番6号〜11号
       36番〜68番
文花3丁目2番〜20番           吾嬬第3中学校へ
 





第四吾嬬小学校PTA選定
渡辺浦人 作曲
1 くろがねの いらかに映えて
  東の空 朝日はのぼる
  たくましく サイレンひびき
  空遠く 雲は流れる
  いざ友よ 肩ならべ
  みんなで歌おう第四吾嬬
  吾嬬小学校
2若鷹は 高くはばたき
 吾嬬の森 力みなぎる
 春秋を 重ねてここに
 目もはるか 誇れこの町
 いざ友よ 手をつなぎ
 みんなで作ろうみんなの町を
 吾嬬の町を
3みな集う この学び舎に
 教えの風 あたたかく吹き
 花ひらく 明日をのぞんで
 いそしむよ 日ごと日ごとを
 いざ友よ 眉あげて
 みんなで歌おう 第四吾嬬
 吾嬬小学校




十間橋通り

 学校の前のバス通は、南は十間橋から明治通りと交差する中居堀までを十間橋通りといい、何時ごろから、そう呼ばれ出したかは、定かではない。

 十間橋は北十間川に架っているから十間橋という名が付いたのだと思う。しかし、考えて見れば、北十間川には他にも橋がある。境橋、吾嬬橋などは十間橋より古い橋である。その他にも福神橋のところにも古くから橋があった。橋の名前がどういう由来で付けられたのか別に規則があるわけもないので、それぞれそれなりの理由で付けられたものだと思う。普通は地名に因んだ名前が多いようだが、十間橋とはよくつけたものである。名前をつけたというより、みんながそう呼んでいるうちにそういう名前になったという感じである。

 橋の名前の詮索はこのぐらいにして、本論の「十間橋通り」の話に移る。その名称となった十間橋が何時できたのか、イマイチはっきりしない。江戸末期か明治の始まめ頃のようである。江戸切絵図を調べてみた。尾張屋清七板・安政3年(1856)「隅田川向嶋絵図」には十間橋は出ていない。近江屋吾平板の嘉永4年(1851)「本所猿江亀戸村辺絵図」にもなかった。明治に入って近代測量法で測図した内務省地理局地誌課製の明治11年刊(1878)実測東京全図にも描かれていない。

 ただ、朝日新聞社が、平成3(1991)年時代の東京地図を薄い茶色の線で下図にし、その上に江戸安政3年の地図を重ねて印刷した「江戸〜東京重ね合わせ図」・「復元・江戸情報地図」を平成6年(1994)を発行した。その「隅田川向嶋絵図」をみると、十間橋が今の十間橋より少し西側押上よりの場所に描かれている。「復元・江戸情報地図」は、歴史学者やグラフィックデザイナーらからなる数人の専門家が、幕府の公文書やそれに準ずる史料、郷土史関係の資料、切絵図をはじめ各種の大江戸図の地図資料、武鑑(ぶかん・江戸幕府の大名・旗本役人の名簿)や江戸幕府の大名・旗本人名事典などの参考資料等々を編集・制作したものである。

 というわけで、どちらを信用してよいのか迷う。明治11年実測地図をみると、橋は描かれていないが、銅像堀から飛木稲荷を経て向島請地村へ入り境橋へ行く古い「あづま通り」が、対岸の柳島法性寺妙見堂のところで北十間川へ向けて右折し分かれていく図が描かれている。これをみると、十間橋が一時期あったときもあって、それが水害などで破壊されて、明治10年頃はまだ復旧されていなかったという事情もある。いずれにせよ、十間橋は江戸時代の平井聖天への宗教道の一部として使われた様子がないので、それほど古い橋ではないようである。

 明治20年(1887)の内務省地理局・東京実測図になると、十間橋は今の場所よりは、いくらか西側の場所(押上寄り)に描かれて出てくる。しかし、この地図では、十間橋通りはまだ「あづま通り」までで途切れてその先はない。この点は明治11年の地図と変わりがない。

 しかし、明治42年(1909)の日本帝国陸地測量部の東京近傍2号図には、十間橋から出てくる道が「あづま通り」を越えて、いくらか先に延びている。花王石鹸製造所の名前が、その道の東側に印刷されて出ている。だが工場は建設されている様子はない。ただ田や畑が広がる園囿(囲まれた草木の植えられた園)という地図記号が付いているだけである。

 大正5年(1921)の第1回修正図「向島」になると、十間橋から出てくる道はずっと延びて、東武鉄道亀戸線を越えて「旧道たから通り」(地蔵坂通り〜曳舟川通り〜京成線踏切手前で右斜めに行き、中居堀通り脇の香取宮〜平井聖天道なでの道)まで達している。道の周辺はまだ田んぼばかりで、里道(畦道)という符号がついている。

 大正10年3月発行の第2回修正図では、亀戸線を越えた部分の里道が少し向きを変えて、同じく里道の「橘銀座通り」の道と直結している。十間橋通りは長い間、橘銀座通りへの道筋だったのである。十間橋通りが今のように花みずき通りの連絡コースになり、地図上に出てくるのは昭和12年(1937)修正図からである。

 当時の「橘銀座通り」の両脇にはかなりの家屋建ち並んできた様子が見える。この頃には東武・京成両鉄道も開通して「曳舟川沿いに多くの工場の立地が進んだ。

 京島地区においても、京成曳舟駅から小村井に抜ける道路沿いに数件の小工場が立地した。それらの工場労働者の受け皿として、現在の橘銀座通り沿いの市街化が始まったのは、震災直前である」(京島まちづくりセンター資料・地区の成り立ちより)。

 それでも大正15年(1926)7月発行の部分修正図には、まだ亀戸線の付近には結構田んぼも広がっている。向島・吾嬬町には、まだ緑の自然が健在であることがわかる。

 ところが、昭和5年(1930)の空中写真測図では、十間橋通りの周りばかりでなく、向島全体に田んぼはほとんどなくなり、村のたたずまいが、たちまち家屋が密集する町に変身してしまっている。色で描けばグリーンゾーンがブラウンゾーンに変色したみたいなものである。

 地図の上でも関東大震災後、向島の建設ブームの凄まじさが見て取れる。吾嬬町誌編纂会編『吾嬬町誌』の戸数・人口統計を引用してみよう。

年         別

戸  数

人  口

大正 9年(国勢調査)  5,692 30,625
   10年  6,730 34,038
   11年  7,403 37,496
   12年  9,168 52,317
   13年 13,431 62,168
   14年(国勢調査) 13,585 59,193
   15年 15,530 63,179
昭和 2年 16,450 68,713
    3年 18,640 75,876
    4年  20,677 83,548
    5年(国勢調査) 17,848 80,842

 尚、昭和6年度調べ本町に於ける家屋棟数は総計18,004棟に上り、その総坪数は298,250坪となる。(編纂会編「吾嬬町誌」人口の部より)
 
 この統計をみると震災、激しかった人口増加の実態がわかる。

 この統計の中で、戸数・人口ともに減少している個所がある。昭和4年と昭和5年との間である。吾嬬町誌でもこのことを指摘し、理由として当時の「財政不況と環状線その他道路の取広げを行ったために」と説明している。この頃工事真最中の明治通り(環状線)、その他各所の道路拡張ブームで多くの家屋や人々が移転した状況を示している。

 「墨田区史前史」にも、大正9年(1920)から昭和5年(1930)にわたる人口の増加からみた市域拡張の動きを示す表が出ている。吾嬬町の場合、大正9年の人口が、昭和5年には約3倍という数字を記録している。

 明治末期から大正時代にかけて、ほとんどの東京市街地へ郊外電車が進出した。途中関東大震災(大正12年)があったにも拘わらず帝都復興計画もあり、その流れは更に昭和初期まで続く。

 明治以来、幾度かの東京市区改正(都市改造)の動きがあった。大正8年にも都市計画法の公布があったが、これも財源難で大規模な市区改正は成らず、近代都市として社会基盤整備は不充分のまま終わった。

 ただ、明治21年の東京市区改正の数少ない成果のなかに、上水道・日比谷官庁街などと共に市街地道路の拡幅があった。この道路拡幅が路面電車の敷設に繋がる。

 百万都市江戸は大正9年の市勢調査では240万都市東京になっていた。すぐに路面電車は満員状態が続くようになった。大正3〜4年の第1次世界大戦の景気により京浜工業地帯(城東から蒲田まで)が拡がり、丸の内オフィス街が形成され東京駅が開業し、高速電車区間が拡大する。

 この時、関東大震災が発生し、その後帝都復興事業を待ってようやく比較的大規模な都市改造が実施される。

 以上のような動きの中で、向島地区は区画整理区域対象外であった。東京市街地拡張の影響はまともに受けたが、あまり恩恵は受けなかった。江戸時代の郊外地本所・向島は東京の中心市街地に近く、本所は立ち退いた武家地も多く隅田川・竪川・横川など水運にも恵まれていたし、向島は水田地帯で地価も安かった。

 近代産業を支える工場立地には恰好の適地になった。工場街になったが住宅地としては、いまいち、向いていなかった。工場で働く人たちの安い長屋やその人たちを相手にする商店が、田んぼ道も、なんのその建ち並びはじめ忽ち過密地帯になった。特に震災後はひどかった。更に郊外電車で通勤する人達を呑み込んで混雑さだけを引き受けた。

 吾嬬村は大正元年に吾嬬町になっているが、大正時代の吾嬬町は田んぼ道・畑道ばかりであった。他町村への連絡路を作るのが緊急課題、造成に精一杯であった。「吾嬬町誌」(町役場編)にも、「僅か數條の他町村連絡路を除いては概ね自由道、所謂(いわゆ)る畑道で、交通利便の用意全く缺け、(後略)」と書いている。

 また、「當吾嬬町内を縦に貫き横に走る道路の中で自動車の自由に馳駆し得るものといへば、環状線(明治通り)、放射線(花みずき通り)の両路を除いて纔(わず)かに、府縣道の吾嬬行徳線(香取神社〜平井橋)と町村道の於て宮田道(旧たから通りの分岐点から向島警察署南側経由平井橋方面への道)あるのみである」と記述しているのをみると、大正14年宮田通りが完成するまでは、せいぜい一間幅か二間幅(3.6メートル)の府費補助道を各所に新設し、急ぎ開通する事に専念していたのが実状だった。

 それから7年経った昭和12年修正図には、前述したように十間橋通りは道幅が広がり、自動車道に拡張している。そして文化1丁目14・15番地と押上3丁目49・50番地の中心地から分岐して、一方は今まで通り「橘通り」へ、片方はカーブして新設の自動車通り「花みずき通り」へ連絡している。

 十間橋通りだけでなく、この時期、産業社会基盤整備にためにも吾嬬町では道路を開設せざるを得ないという状況に陥っていた。道路の新設や増設改正が盛んに実施され、道路事情が大幅に改変されている。調べてみると、昭和13年(1938)5月には、十間橋の鋼鉄橋へ架け替えが完了しているので、それに並行して十間橋通りの改造工事も行われていたのである。

 十間橋通りに関連して、再び橘銀座通りについてもいわなくてはならない。十間橋通りは橘銀座通りと一本道で繋がっていたので、名前こそ二つに分かれているが、本来は兄弟道といってもいい。

 ただ交通事情の変化により、十間橋通りが花みずき通りへ直結し、水戸街道へ、さらに鐘淵通りへと環状幹線道路に転身したのに対し、明治37年(1904)に東武鉄道亀戸線、大正元年(1912)京成電鉄が開通した影響で沿道に既に家屋が建ち並んでいた橘銀座通りは道路拡張には立ち退き問題があってか、もとの姿を残した。

 今では銀座という名を冠し、賑やかな商店街へと発展して、時々テレビやラジオ、新聞などにも取り上げられるほど繁盛している。最近では、「
下町人情キラキラ橘」という看板を掲げ地元の人々に重宝がられ向島の名物商店街として鳴り響いている。

 道の両側にぎっしりと商店が並んでいる。豆腐屋の隣りは酒屋、その先は焼き鳥のいい匂いを出してる鶏肉屋、次に酒屋、惣菜を売る店、八百屋、魚屋、洋装店があるかと思えば、また、八百屋、花屋、次も八百屋、せともの屋、豆腐屋、コッぺパン屋(平成14年7月には、TBSラジオの番組で毒蝮三太夫がやって来た)、味噌屋、お茶屋、また、八百屋、。

 対面のお店は鶏肉屋・魚屋、その他洋装洋品店、靴屋、メガネ屋、たこ焼屋、ソバ屋、鮨屋、家具屋、パチンコ屋、クスリ屋、出来立ての総菜を対面販売する店、店の前には、それぞれ台を出して狭い道幅が余計狭くなる。威勢のいい声で買い気を誘う。

 特に夕方にはお客が多く、活気に溢れる雰囲気は、かって下町のそこ彼処にあった商店街の姿をそのまま残している。久しぶりに味わった商店街の姿に率直にいって感激すら覚えた。もうこれは墨田区吾嬬町に残る特徴ある歴史文化といっていい。

 橘銀座通りが出た所で、京島地区についてもひとこと。今京島まちづくりセンターがある京島3丁目(旧吾嬬町西4丁目)は、細い路地に戦前からの平屋の木造建築が超過密常態に建ち並び、東京23区でも防災上危険度、人口密度ナンバーワン。

 マスコミでも時々取り上げられる地区である。ところが意外にも、この地域は火事の発生率が低い。特別な組織があるわけでもなく町会消防団の意識が高いのか。自分の町は自分たちで消すという連帯意識と体制が自然に生れているのかわからないと、まちづくりセンターの話である。確かに人の触れ合いが濃いのだ。

 同町内の橘銀座通り商店街もそうだ。お隣同士の助け合い精神が無意識に働いて、それが自然に原動力になり大変活性化に満ちた町が生れているかもしれない。

 京島地区は東京都や墨田区からその危険性を指摘され、早くから町作りの動きがあった。現在では「京島まちづくりセンター」の中に住民参加の「まちづくり協議会」が組織されている。従来の町割を壊すことなく、昔の道も生かして一部を拡幅整備すると同時に、そこに住んでいたひとたちが住みなれた地元に住みたければコミュニティ住宅(仲間住宅)に住んで貰い、京島にふさわしい良好な居住環境を、まちづくりの第1目標に掲げている。

 最近では、過密と活性化をマッチさせたまちづくりのモデルケースとして海外でも知られているらしく、東南アジア諸国やブラジルから都市計画関係者の団体見学があったり、ドイツからも見学者があるという。

 向島の他地区にもこの方式で「
まちづくり」を整備する方がいいと思う。もうやたらに広い道路や直線道路を作って町の区画を変化させ輪郭線を違うものにしてまで向島の特徴(アイデンティティー)をなくす必要はない。

 向島にはこれ以上の道路インフラは必要でないしメリットもない。ただ、自動車を走りやすくするだけでは生活環境が悪化するだけである。今ぐらいで充分用を足しているのだから。ある意味で出来上がっている現在の向島のまちづくりには、路地などは向三軒両隣のお喋りが出きる余地を残し、また、4メートル未満の道路幅(いわゆる「2項道路」が多い向島の改造には、改築のとき道路中心から2メートル後退する建築基準法の規程に適合して行く方法で順次整備する手順がいい。

 十間橋通りも元は橘銀座通りと同じ道幅で狭かったが、明治・大正・昭和と発展を続けた日本の産業社会の中で、吾嬬町発展のため道路拡張は第1課題。花みずき通りと一貫して吾嬬町を縦断する幹線自動車道が完成したのである。
 





宮田通り(旧平井街道)

 十間橋通りの文花3丁目バス停から向島警察署の南側を通り中居堀に架る宮田橋を渡り、更に明治通りを越え平井橋まで行く道「宮田通り」は大正10年の第2回修正図には記載されている。

 これは大正7年(1918)に地元地主有志が自分の土地を無償で提供して急遽作った吾嬬町最初の幅員3間(5.4メートル)道路である。しかし、平井橋のたもとまでは何故か達していなかった。大正5年修正図をみると、その辺り、葛西川地区は既に家屋が結構建ち並んでいたし、古い村落でもあったので土地提供に難しさもあったのかもしれない。

 その後、平井橋まで直接達する道が出来たのは地図上では戦後の昭和33年第2回修正図が初出である。かなり遅れたことになる。その理由として考えられるのは、平井橋の鋼鉄橋が昭和27年12月に架け代えれている。その関連から平井橋へ直通する平井通りを貫通させてのであろう。