第2吾嬬小学校

(押上3−46−17)
開校 明治26年 5月10日
閉校 平成11年 3月31日

校地面積 6582u
(第2吾嬬小学校、文花小学校、西吾嬬小学校)
統合して押上小学校となる



 






通学区域

押上1丁目17番〜19番、31番〜35番、44番〜47番、49番〜52番
押上2丁目27番〜29番、34番2号〜6号、36番2号〜終号、39番〜43番
押上3丁目全域
                                       曳舟中学校へ

 





第2吾嬬小学校校歌

野上 彰 作詩・曲/宅 孝二 編  曲
1 隅田のながれ ゆたかにめぐり
  春の雲の かがやくとき
  いのちあらたに
  のぞみにあふれて われはつどう
  母校ぞ       第ニ吾嬬小学校
2 真理の道に 正義の道に
  世紀の旗 になうものと
  つねに思えよ
  つらぬきとうせよ われらの使命
  母校ぞ       第2吾嬬小学校
3 清らにひびく 窓打つ風も
  秋の空を 渡り鳥の
  声のとおれば
  心をひそめて われらは学ぶ
  母校ぞ       第2吾嬬小学校
4 知識を求め 六年をここに
  聖なる手に 選ばれたる
  幸を思えよ 
  歴史のいしずえ われらもきずく
  母校ぞ       第2吾嬬小学校







運動会のうた


1 はためく旗を青空に
  あおげば意気がもえ上がる
  こ胸 この足 このかいな
  元気いっぱい 走れ飛べ
  今日は楽しい 運動会
 
2 高なる合図 風切れば
  とどろく拍手 応援歌
  綱引き きば戦 と競争
  元気いっぱい 歌おうよ
  今日は楽しい 運動会
 



紅組応援歌

青空のもと 元気よく
 力をあわせ がんばろう  
あか勝て あか勝て
      フレフレフレフレ  
あか勝て あか勝て
      フレフレフレフレ
 

 

白組応援歌

みんなにこにこ 元気よく
 力いっぱい 一 二 三
 (てびょうし)
 フレ白    フレ白
       フレフレフレフレ   
 


  











学校の歩み

明治26年 1月     学校設立願提出          
        5月10日   創立、東京府知事設立認可
                校名、吾嬬村立第2吾嬬尋常小学校
                位置、東京府南葛飾郡吾嬬村大字請地20番地(押上3丁目交差点)
        6月 1日  授業開始、(男11名、女9名、国語、算術、体操、修身)
   27年 3月28日  第1回卒業、男24月15日  校舎全焼(花火不発弾により向島須崎
                の大火)、仮校舎(請地5番地)
   30年12月21日  新校舎落成(請地793番地)
   36年 3月      第10回卒業、男7名、女5名
   40年 6月15日  校舎増築(22坪、同年4月1日、2学級編成になる)
   45年 4月 1日  尋常6年生設置、6学年6学級編成になる
        4月28日  新校舎落成(約1,800坪、請地230番地、現在地)
 
大正 2年 3月25日  第16回卒業(尋常6年、第1回卒業19名)
    4年 8月 1日  校舎増築落成、77坪、10学級
    6年10月 1日  津波のため床上浸水、30cm
    7年 4月15日  尋常夜学校併設
    9年 8月20日  校舎増築、2階建て、119 
   10年 3月31日  高等科併置認可、第2吾嬬尋常高等小学校と改称
        9月 1日  後援会設立、会長、小宮仁三郎
   11年11月      校舎増築、7教室
   12年 3月24日  第26回卒業、208名(尋常科183名、高等科25名)
        9月 1日  関東大震災、東校舎6教室倒壊、その他使用不能
                転居、行方不明児童(およそ400名、10月7日まで臨時休校)
       10月 8日  講堂を使用して授業開始(2部授業)
   14年 6月12日  商業補習学校併設
        7月11日  校舎増築完了
昭和 2年 4月 1日  第4吾小開校、校舎貸す(18学級、911名、6月20日まで)
        5月31日  商業補習学校廃止
    4年 9月21日  校舎増築、木造2階建て、9教室
    5年 4月 1日  高等科併置廃止、第2吾嬬尋常小学校と改称
       11月 1日  字名番地変更、吾嬬町西2丁目92番地
    7年10月 1日  東京市編入、向島区となる、東京市第2吾嬬尋常小学校と改称
    8年 3月25日  第36回卒業、366名(男187名、女179名)
        3月30日  校舎増築完成、2階建、6教室、講堂128坪、教室その他316坪
                隣接地購入(西北部、約200坪、計1947坪となる)
   11年 1月 8日  請地、第4吾嬬、曳舟の3小学校へ児童転出638名
   14年10月28日  校歌制定認可、作詩 宮川宗七、作曲 福井直秋
   16年 4月 1日  国民学校令施行、東京市第2吾嬬国民学校と改称
   18年 3月14日  市川市真間に学校農園を開く
        3月25日  第46回卒業、281名、累計6,501名
        5月10日  学校創立50周年式典挙行
        7月 1日  東京都第2吾嬬国民学校と改称
   19年 3月31日  国民夜学校が第3吾嬬夜学校に統合され廃止となる
        4月 1日  学校給食開始
        8月12日  学童集団疎開、茨城県石下町、下妻町、各3宿舎
                3年生以上児童、508名、教員16名
   20年 3月10日  戦災で全校焼失、第4吾嬬小学校借用
        5月19日  秋田県大館町、扇田町に催疎開、児童180名、教員18名
       10月24日  疎開引揚げ
   21年 3月25日  第49回卒業、36名
        4月 1日  第4吾嬬小より曳舟小へ移転(3教室、6学級編成、2部授業)
   22年 1月12日  学校給食再開
        4月 1日  東京都墨田区立第2吾嬬国民学校と改称
        7月 1日  仮校舎落成、平屋(150坪、5教室、その他)曳舟小より児童復帰
   23年 3月25日  第51回卒業、69名、累計7,027名
   24年 4月 2日  校舎増築、57坪
   25年 5月 1日  校舎増築、137.7坪、4教室、その他
        9月 1日  小学校でパン・ミルクの完全給食実施
   27年 6月 9日  校舎増築、246.75坪、8教室
       10月30日  野外ステージ完成
   28年 3月25日  第56回卒業、154名、累計7,594名
        5月 9日  校旗制定(同窓会寄贈)創立60周年記念式典
                校歌制定(作詩、作曲野上 彰/編曲、宅 孝二)
   29年 3月30日  校舎増築、157.7坪、6教室
   30年 3月19日  校舎増築、108坪、4教室
   31年 4月 1日  児童190名、西吾嬬小学校へ転出
        5月10日  給食作業室改築、33.502坪
   33年 3月25日  第61回卒業、101名、累計8,436名
        6月20日  校舎増改築、160.488坪、普通教室4、図書室、理科室
        9月26日  台風のため、27日臨時休校
       12月30日  校庭舗装
   34年 3月12日  子ども会発足
   35年 4月 4日  増改築、191.42坪、職員室等
   36年 7月18日  体育館落成
   37年 8月22日  プール落成
   38年 3月25日  第66回卒業、163名、累計9,431名
        5月10日  創立70周年記念式典
   43年 3月25日  第71回卒業123名、累計9,948名
   45年 3月23日  鉄筋校舎第1期、8教室落成
   46年 4月 7日  鉄筋校舎第2期、8教室、資料室落成、プール落成
   47年 5月 4日  鉄筋校舎第3期、普通教室3、特別教室3、職員室、給食室
                放送室、保健室等完成
       10月31日  校庭舗装、緑地、池、砂場等完成、学童保育クラブ開設
   48年 3月25日  第76回卒業、120名、累計10,758名
        3月31日  音楽室改造、ジャングラミン等運動設備完成
        5月10日  創立80周年記念式典
   49年10月     校庭西側緑化工事完成
   50年 6月      焼却炉新設、8月、図工準備室設置、10月、校章(体育館)取り付け
   51年 6月      プール更衣室新設
   52年 3月      体育館塗装工事、8月、倉庫新設、学童保育室改築移設
   53年 3月      音楽室、図書室改築、遊び場新設
        3月25日  第81回卒業、93名、累計11,281名、8月、校庭舗装工事完成
       11月      体育館床張り替え工事及び電気設備改修
   55年 3月     屋上金網改修工事、給食室換気扇新設
   56年 7月23日  図工室流し場改修、作品棚新設
   57年 9月15日  ポンプ室の揚水ポンプのパイプ取替え工事
   58年 1月     鉄柵非常階段等塗装
        3月25日  第86回卒業103名、累計11,767名
       11月 7日  創立90周年記念式典
   59年10月13日  自転車置き場屋根取り付け・総合教室ガス栓増設
   60年 3月25日  校舎北側フェンス・緑化工事完成
   61年12月26日  体育館窓・強化ガラスに取替え工事、校舎壁面雨漏り修理
   63年 2月17日  陶芸窯・給食室ボイラー取替え
       3月11日  プール点検口・排水溝改修、体育館倉庫屋根防水工事・校庭遊具補
               習工事
        3月25日  第91回卒業、61名、累計12,160名
        4月 1日  特色ある学校づくり推進(4年計画)
                「学校のミニアスレチックを活用した体力づくり
        6月 5日  プールろ過機取替え
       11月16日  開校95周年記念式典
平成 1年 3月 9日  校章旗ポール設置
        3月25日  第92回卒業、67名、累計12,227名
        8月 9日  ミニアスレチック改修
        8月30日  グランドピアノ設置(体育館)
    2年 1月10日  図工室改修
        1月      廊下階段ペンキ塗替え
        3月24日  第93回卒業、55名、累計12,282名
        3月      東側フェンス改修
        8月 1日  校庭舗装改修
        9月〜10月 アスレチック改修(シャボン玉わたり他)
       11月〜1月  管理室冷房化工事
    3年 3月25日  第94回卒業、58名、累計12,340名
    4年 3月25日  第95回卒業、50名、累計12,390名
        4月 8日  石綿吹付け材撤去改修工事(給食室、図工室)
        4月12日  プレイルーム室内改葬
        9月      玄関照明の増設
    5年 3月25日  第96回卒業、48名、累計12,438名
       10月27日  プール・屋体解体工事開始
       12月      砂場わく取替え
    6年 3月25日  第97回卒業、38名、累計12,476名
        3月31日  第2図書室改装、廊下、床張替え工事、廊下2,3階照明の増設
    7年 3月10日  プール、体育館落成
        3月24日  第98回卒業、37名、累計12,513名
       10月31日  校庭舗装整備工事
       11月 7日  開校100周年及び体育館・プール落成記念式典
    8年 3月25日  第99回卒業、57名、累計12,570名
       10月 1日  給食室水道配管改修工事
    9年 3月25日  第100回卒業、37名、累計12,607名
       11月 3日  東側非常階段補修工事
   10年 3月25日  第101回卒業、44名、累計12,651名
       11月13日  開校105周年記念式典
   11年 2月27日  閉校式
        3月25日  第102回卒業、34名、累計12,685名
        3月31日  閉校
 



押上

 平成11年3月31日墨田区立学校適正配置計画の第1次順位校として、西吾嬬小学校・文花小学校・第2吾嬬小学校の3校が統合して105年間にわたる耀かしい歴史に幕を閉じた。
 本校は、明治26年児童数20名で開校した。しかし、運悪く翌年には、花火の不発弾により、校舎を全焼してしまった。そのため、校舎は飛木神社
前に移り、茅葺屋根の一教室に1年生から4年生までが、一緒に勉強した。

 
そして、明治30年新校舎(東京府南葛飾郡大字請地20番地)は、瓦葺きの廊下のある一教室でした。当時の先生は黒紋付に袴を穿き、ひとりで教育から事務一切をしていた。学校のまわりといえば、田んぼや蓮田に囲まれの長閑なもので、蛙の声を聞きながらのマルで田舎の学校の様でした。国語は今と同じ様に先生がハタ、タコ、コマと読むと、生徒が声を合わせて読んだり、書き取りをし、体操、唱歌(楽器はないので指揮棒に合わせて歌う)と1人で4、学年を教えていた。だんだんと先生も増え、オルガンも入り、唱歌も楽しくなった。

 時は、大正になっても相変わらず、辺り一面、田んぼや蓮田でハスの花や黄金色の稲穂が美しかった頃の大正12年9月1日の関東大震災があり、この日、ちょうど二学期の始業式を終えて一息入れていると、地響き大きな立て揺れと横揺れが長くあり、新築の2階校舎がぺしゃんこに倒れ、附近の家屋もどんどん倒壊した。下町は総なめの災禍で地獄絵巻となった。

 魚がよく取れたドブ川も暗渠なり、ニ分された校地も一つなり広い運動場と徐々に整えられて、親から子、子から孫へと校名も色々変わり、戦時色も濃くなり、第2吾嬬国民学校と変わり、学童集団疎開が昭和19年7月10日第1陣として5・6年生が集合ラッパで一同校庭に整列し両親兄弟別れ歓呼の声に送られて上野駅を常磐線で出発した。行く先は茨城県真壁郡下妻町光明寺、鬼怒川(或いは小貝川)から少し離れた小さな町の古寺が疎開先だった。

 1日中匂う線香、周りの墓地、始めて親と離れた寂しさ、凡てが始めての経験だった。朝は起床ラッパ、夜は消灯ラッパと規則正しい生活の始まりだった。幼い心にも戦争に耐え、愛や情け苦しみが1日1日募り乗り出した。東京の空はこっちの方角だと教えられていた方角に冬から春が訪れる矢先の昭和20年3月9日に空襲警報と共に真っ赤に染まった恐ろしい光景を目の当りにした。その時は、我が家も学校も焼失した事は知らず、数日たってから何となく耳にした。

 それからというもの、敵機(B29、戦闘機、双胴のロッキード)は上空をひっきりなしに飛び交うようになり、秋田県大館の方に移り昭和20年8月15日、この太平洋戦争は日本の敗戦で終わり、日本人の尊い犠牲を払ったが、互いの同朋愛で慰め合い戦後の復興には目を見張るものだった。

 一方、東京では昭和20年3月9日を前後して雨、霰と焼夷弾が降り木造家屋は一たまりも無かった。学校では、4人の教員が防衛宿直した。昭和20年1月27日には校庭に50キロ焼夷弾が落下。そして、遂に昭和20年3月10日全焼の憂き目にあった。第4吾嬬小学校から、曳舟小学校にと間借りしていたが、昭和22年9月、5教室の仮校舎が建ったが、相変わらず二部教育だった。校名も第2吾嬬小学校となった。荒れ果てた校庭は全校生徒で毎日整備のため骨を折った。また、給食とは名ばかりの、当時の在校生に聞けば100人中100人が、幾ら、食べ物が無かった時代とはいえ、腹の足しにはなったが、あんな不味い飲物は無かったと答える、脱脂粉乳を水で溶かして温めて、アルマイトのコップに1杯ずつの代物だった。

 昭和25年には、パンとミルク(脱脂粉乳)におかずのついた給食が始まった。最初は希望者だけだった。

 野外ステージ(職員と生徒がモッコを担いで、1年以上、石や土を運んだ)は全国的にも珍しく、学芸会や七夕まつりと使われましたが、後にプールと変わりました。

 この頃から池田内閣の所得倍増計画と東京オリンピックで世の中では、もう戦後は終わったといわれだし、校舎も生徒数に合わせるように建ち、すし詰め教室も解消されてきた。体育館、プール、木造校舎から鉄筋校舎へ建て替えられ始め、校舎が4階建になり、校庭も僅かなり共広くなった。生徒数も最高は昭和8年度に2,719名、閉校時は236名と1/10以下になってしまいました。残念ながら平成11年3月31日閉校となった。新に当校が新校として出発した。

 明治26年開校以来明治、大正、昭和、平成と1世紀以上のながきに渡り、火災、洪水、関東大震災、第2次世界大戦とさまざまな困難にもめげず、閉校の記念式典が盛大に催され105年に幕が下された。そして、新らしい押上小学校(第2吾嬬小学校、西吾嬬小学校、文花小学校)が誕生。
 



東京大空襲

 
1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲は、約2時間半余りのアメリカ軍の爆撃により、墨田区域を含む下町全域で、死者約10万人、焼失家屋約27万戸、被災者約100万人という甚大な被害を出したと言われています。

 墨田区には、今も、心の奥底に空襲の記憶を刻む数多くの人々が暮らしています。そして、その記憶を後世に伝えて欲しいとの願いから、100点以上に及ぶ戦時下の資料が区に寄せられています。それらの資料は、罹災証明書などのような、直接、空襲の被災を伝えるものばかりではなく、防空体制や統制経済に関わる戦時統制下の生活をしのばせるもの、また、満州事変や日中戦争などに従軍した出征兵士関連資料など、その種類は多岐にわたっています。

 これら墨田区に寄贈された戦時下の資料を一堂に展示し、人々の戦争体験と記憶がいかなるものであったのか、また、下町に暮らした庶民1人1人に戦争は何をもたらしたのか、その意味について考えてみたいと思います。

 朝は起床ラッパ、夜は消灯ラッパと規則正しい生活の始まりだった。幼い心にも戦争に耐え、愛や情け苦しみが1日1日募り乗り出した。東京の空はこっちの方角だと教えられていた方角に冬から春が訪れる矢先の昭和20年3月9日に空襲警報と共に真っ赤に染まった恐ろしい光景を目の当りにした。その時は、我が家も学校も焼失した事は知らず、数日たってから何となく耳にした。

 それからというもの、敵機(B29、戦闘機、双胴のロッキード)は上空をひっきりなしに飛び交うようになり、秋田県大館の方に移り昭和20年8月15日、この太平洋戦争は日本の敗戦で終わり、日本人の尊い犠牲を払ったが、互いの同朋愛で慰め合い戦後の復興には目を見張るものだった。

 一方、東京では昭和20年3月9日を前後して雨、霰と焼夷弾が降り木造家屋は一たまりも無かった。学校では、4人の教員が防衛宿直した。昭和20年1月27日には校庭に50キロ焼夷弾が落下。そして、遂に昭和20年3月10日全焼の憂き目にあった。第4吾嬬小学校から、曳舟小学校にと間借りしていたが、昭和22年9月、5教室の仮校舎が建ったが、相変わらず二部教育だった。校名も第2吾嬬小学校となった。荒れ果てた校庭は全校生徒で毎日整備のため骨を折った。

 また、給食とは名ばかりの、当時の在校生に聞けば100人中100人が、幾ら、食べ物が無かった時代とはいえ、腹の足しにはなったが、あんな不味い飲物は無かったと答える、脱脂粉乳を水で溶かして温めて、アルマイトのコップに1杯ずつの代物だった。

 昭和25年には、パンとミルク(脱脂粉乳)におかずのついた給食が始まった。最初は希望者だけだった。

 野外ステージ(職員と生徒がモッコを担いで、1年以上、石や土を運んだ)は全国的にも珍しく、学芸会や七夕まつりと使われましたが、後にプールと変わりました。

 この頃から池田内閣の所得倍増計画と東京オリンピックで世の中では、もう戦後は終わったといわれだし、校舎も生徒数に合わせるように建ち、すし詰め教室も解消されてきた。体育館、プール、木造校舎から鉄筋校舎へ建て替えられ始め、校舎が4階建になり、校庭も僅かなり共広くなった。生徒数も最高は昭和8年度に2,719名、閉校時は236名と1/10以下になってしまいました。残念ながら平成11年3月31日閉校となった。新に当校が新校として出発した。

 明治26年開校以来明治、大正、昭和、平成と1世紀以上のながきに渡り、火災、洪水、関東大震災、第2次世界大戦とさまざまな困難にもめげず、閉校の記念式典が盛大に催され105年に幕が下された。そして、新らしい押上小学校(第2吾嬬小学校、西吾嬬小学校、文花小学校)が誕生。

 なお、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲に関わる原体験が、多くの人々の戦争の記憶と認識を規定しているという点を鑑みて、はじめに東京大空襲の実相を人々の戦時体験と人々の個々の空襲体験をしのばせる思い出深い品々を、「学童疎開」、「軍隊と出征」、「戦時下の統制生活」、「戦時下の組織」というテーマに類別して紹介し、大局的な時代状況に関わる資料にこめられた「個人」としての戦争体験や「思い」が浮かび上がる「個人」の体験と記憶を抜きにして戦争の実相を把握することはできない。と、いう過去の戦争の惨禍を真摯に見つめ、未来につなげていく平和の一里塚としての役割をいささかでも果たすことができるよう、切に希望いたします。