第1吾嬬小学校
(立花1−18− 6)
開校 明治24年 4月 8日
校地面積 7052u
一吾小は、1891年(明治24年)開校。
卒業生は12500名を越えています。
平成5年、新校舎と体育館が落成。
明るく開放的な環境です。
通学区域
文花2丁目1番〜10、20番
立花1丁目1番〜23、27番
立花2丁目全域
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教育目標
○ 思いやりのある子
○ よく考え行動する子
○ 体をきたえる子
この目標通り、子どもたちは明るく元気で、男女仲良しです。
地域・保護者は、協力的で、PTA活動も活発です。 |
文花・立花
平井聖天宮への参詣の道で、「平井道」と呼ばれていた。江戸切絵図「本所絵図」で見ると、江戸の中心部からのコースは、隅田川を竹屋の渡し(吾妻橋の近く)で本所側に出た。その後江戸後期安永3年(1774)に吾妻橋が出来て、渡った先に細川若狭守の屋敷が有ったため、少し右に行きすぐ中之郷竹町の小道に左折する。その道を中之郷元町〜中之郷瓦町〜八軒町と行き、業平橋まで出た所で大横川を渡る。
細川若狭守の屋敷は安政2年(1855)の本所絵図には出ているが、明治25年の東京全図には既になくなっている。その辺りは竹町という町になり、橋に直通して細道が出来ている。明治37年の本所区全図になると、市街路面電車(都電)が走るほどの道路になっている。
更に北十間川に沿って押上、柳島橋を超え、境橋まで来て左折し、北十間橋を渡る。今左側にオリンピックがある所で向島側に入ったことになる更に少し行くと梅の名所で有名な香取神社の横前に出る。素通りするには信心が足りない。参拝したら平井街道で平井方面へ行くことになる。明治通を超え、後は道なりに真直ぐ進んで行くと東武鉄道亀戸線東あずま駅の踏切、都道丸八通りに出る。そこを超えて立花通りに入り平井の渡し場へ、現在では平井橋に出てくる。平井橋を渡れば、左側に大きな社屋が見える。これが平井聖天様である。
この「平井道」は「東京府南葛飾郡全図」では「旧行徳道」と名が変わっている。この道は中川を渡り行徳を経て、船橋方面への道筋でもある。旧行徳道は平井地区では荒川方水路に取込まれてほとんど消えている。
「平井聖天は、浅草の待乳山聖天、埼玉県妻沼町の妻沼聖天とならんで関東3聖天といわれ、信仰が厚い。燈明寺の別堂である。 --------中略--------歴代将軍が鷹狩をするたびに、御膳所になっている」と川田壽著「続江戸名所図会を読む」にはある。
平井聖天燈明寺で頂いた案内書(由緒書)には、開山は千有余年前で新義真言宗の名刹で、江戸時代には8代将軍徳川吉宗をはじめ多くの諸大名、一般庶民からも厚い信仰を受けた。「聖天さまのお話」というコラムには、「聖天さまは、本名を大聖歓喜天(だいしょうかんきてん)と申します。-----中略----つぎのご利益があります。
●●艶福のご利益:良縁:子宝:夫婦和合
●●福運のご利益:商売繁盛:百戦百勝
●●開運のご利益:出世:入学:交通安全
とあった。
何故、夫婦和合の神なのか調べて見たらなるほどと思った。歓喜天本尊の像が独特の形象をしている。頭が象で人間の姿をしている男女が立ったまま抱擁し、お互いの顔を相手の右肩に乗せている。性神の色彩を強く出し、夫婦和合・子授けの霊験を示している。子孫繁栄・万物豊穣・商売繁盛、間違いなしである。本尊に供える供物のひとつに大根がある。これは歓喜天の象徴物とのこと・・・・・・・。精力は活力の元、その神力を授かる歓喜天は、もとインド神話の神であったが、仏教に取入れられてから人間の障害を取り除く神になった。
考えてみれば、宗教の根源は、この世にあるすべての物には霊魂・精霊が宿り種々の現象はその働きによるという自然観から成り立っている。このアニミズムの意味と意義を再考しなくてはならない時期に来ているのではないかと思う。理由は、最近の社会現象の歪にある。変に化学・産業が発達した面もあり、地球の自然循環を壊し環境を破壊しつつある。一部先端技術によるクローン羊、大量消費社会によるゴミ氾濫・ダイオキシン問題など、自然の摂理は崩れている。原子爆弾など人間を滅ぼしかねないものを人間が作っている。
昔の人の自然に対する畏敬の念を忘れてはならない。東洋の自然観は人間も自然物の一部であった。人間対自然という考え方はなかった。自然物の小さな一片に過ぎない人間の運命は天神(大自然)の思召しで如何様にもなった。人間の生死は神のみが扱うことが出きる神聖な業であった。聖域を犯してはならない。科学の未発達の時代、昔の人の考え方である。それだけに現代人には考えられないほど強く熱い信仰心があった。信心の深い姿勢を厳粛に受け止めておくべきだと思う。聖天さまの教えに深く頭を垂れるのに吝かでない。
聖天信仰は、本来出家の間まで仏教守護の神として始まった。平安時代の神として始まった。平安末期の頽廃的世相の中で目前の利益・安泰を願う信仰になり、江戸時代の長い泰平の世に商業がさかんになると現世利益の神さまとしての信仰が強くなったと別刷の燈明寺貫主の「聖天さまの話」にはあった。奈良の生駒山聖天(宝山寺)が最も有名な霊場であり、現代も信仰の拠点として知られている。
平井聖天の社殿は今も中川の土手よりも高く台地の上にあり誠に立派である(待乳山聖天も台地にある)。安藤広重が描いた「江戸名所図会」19巻の中にある社殿も棟は高く、建物は大きい。境内などは山門があり、聖天堂の裏には池が堀られ、松の木に囲まれ、今よりずっと広々として実に壮大明美な図である。
江戸の人達が、ここを訪れて願いごとを叶える心情を、充分に満たすにふさわしい風景を具えている。ここでも、昔の信仰心の深さと真剣さを改めて考えさせられる。
ところで、中川は広重の絵にも描かれているように平井聖天さまの近景を支え、奥行きを深める立派な役割を果たしている。しかし、明治以後は富国強兵の国家目標のもと産業工業化の水運に利用され、大工場の立地を支える存在になった。かてて加えて荒川方水路の開鑿により、水門下流は流れが調節されて澱みになってしまった。中川土手一帯は工場街に占有され、灰色のコンクリートと錆びた鉄柵の護岸で水溜去れている。何とかしたくなる程、全く殺風景な状態である。せめて草木の緑を取り戻したい、潤いが欲しい。
人間が歩ける水辺空間を復活して欲しい。今のままでは、聖天さまに参詣した昔の人達に、「この罰あたりめ
!
--------だから聖天さまの神罰(自然の仕返し)を受けたのだ」と、叱られているのかもしれない。と、思っていたが、最近では土手の様子が変わってきて、東墨田地区の中平井橋から木下川水門にかけて土手ののコンクリート塀が取り払われてフェンスに変えてあった。川辺が見え土の堤が復活、水辺に接する空間になっていた。墨田区で旧中川親水公園整備の構想があるそうだ。これから、徐々に改善されるとすれば喜ばしい。
中川土手の明治以後の変貌を地図の上で見てみた。明治30年迅速図修正版では工場の建物は勿論ないし、わずかに木下川梅園らしき屋敷記号が見える。明治42年測図假製版では人造肥料会社工場がその木下川梅園跡地に出来ている。現在の東墨田3丁目の土手際で、工場は、そこ唯一個所あるのみで、まだ土手周辺は、辺り一面タンボが広がっている。
大正5年修正測図になって、明治製革会社が今の墨田地区清掃工場の場所にひとつ増えていた。それは大正10年の第2回修正図でも変化はない。この頃工事中であった荒川方水路の近くには、勝海舟の別荘となった「松樹梅園」という名前が見える。
ところが、昭和5年測図を見るとがらりと様相が一変してしまう。土手の両岸は日産化工・ライオン油脂工場をはじめ工場群がびっしりと建ち並んでいる。「松樹梅園」は木下川水門に没してない。関東大震災を挟んでこの時期、吾嬬町東(現墨田区東墨田)の風景変化の激しさを表徴している。
「平井道」にも道標が残っている。現在は立花6丁目17番にある東漸寺内に、道標付の庚申塔が、門を入ってすぐ右に建てられている。もと「平井街道」にあったものが、今東漸寺に安置された。ちなみに、平凡社の世界大百科事典を見ると、庚申塔は天尊隆臨の際の道案内役・猿田彦の尊と結びついて、道祖神として使用さることが多かった。三猿が庚申塔に刻まれるのもそのため。また、庚申は、福神、治病神など多くの現世利益的な機能を果たしていたと書かれていた。
『平井街道」に関する道祖神は、これ一基のみが残っている貴重なものだけに、墨田区登録文化財ともなっている。区の説明板によれば、「この庚申塔は、宝歴13年(1762)11月の銘をもつ駒形のもので、青面(しょうめん)金剛像を半肉彫りし、一鬼・二鶏・三猿を配した典型的な庚申塔ですが、左側面には「左やくし道」右側面には「右市川道」と刻まれており、木下川薬師へ抜ける道と市川へ抜ける道の分岐点に立てられ、道標の役割を兼ねていました。このことから、元は当寺より南を通る平井街道沿いにあったもの』と解説されていた。
さて、その場所とは何処であったのかと推理するのが、また、興味を引く。平井街道の沿道にあったとすれば、多分(かなりの独断を許して頂いて)立花4丁目40番20号の角地が一番可能性が強い。何故かというと、この辺りで北十間川が、もうすぐ中川に注ごうとする所で、「平井道」はこの辺りで土手道になっていた。平井の渡しを渡らず左へ行けば、木下川薬師道に通じる。右側の渡しを渡れば平井聖天さま。参詣した後、逆井道を中川沿いに行けば(荒川放水路がなかったので)市川へ通じる官道・下総街道(立石道)に行き当たるからである。
次に、もう一つ可能性のある場所としては、立花4丁目35番2号の角地。その理由は、明治に入っての向島図に「平井道」に T字型に突き当たるように葛西川という小川があり、その小川伝いに大字界道が木下川薬師道に通じているからである。
ここで、話を少し現代に近づけると平井道の道筋に庚申塚橋という橋がある。曳舟川に架っている橋で、明治42年の日本帝国陸地測量部発行1/10,000「向島図」にも見える。広辞苑によれば、庚申塚とは「路傍などに青面金剛(庚申)を祀ってある塚」とあるので曳舟川の橋際に庚申塔が立っていたとしても不思議ではない。立花6丁目の東漸寺に安置してあるものと、平井街道の庚申塔との関連はどうなのか気になる。
この庚申橋は江戸後期、源森橋(文久3年改正の本所絵図に描かれている)が出来て、浅草側から来た人達がここで向島側に出て、このコースを採ったか、それとも堀切や足立郡方面から平井聖天さまへ参詣する人たちが渡ってのかもしれない。明治13年測量の迅速図を見ると、足立方面から墨堤通りに入り銅像堀まで来て、銅像堀のところで庚申塚橋へ向けて下へ降りる道がある。
榎本武楊が住んでいた屋敷と成島柳北の屋敷跡である言問小学校の間を通って庚申塚橋(今は向島3丁目43番10号桜井歯科医院が橋の袂になる)へ真っ直ぐ伸びる道が現在でも本所高校の脇まで来ている。
浅草・足立・葛飾方面から来た庚申詣での善男善女の群れが、この橋を渡り、押上1丁目2番地と同5番地の間の道を通り北十間川北側沿いの道に出たのかもしれない。この道は明治42年測図では東武鉄道線路で進路を大回りさせられている。その少し前、明治35年4月1日に東武鉄道が開通した。
この頃には、庚申塚橋は名前だけになっていたのではないかと思う。
(昭和7年鉄道補入図になると、この大回りさせられた道は東武鉄道線、京成電鉄線を陸橋で跨ぎ、現在の京成電鉄押上駅ビルの西側を通り、京成橋の西隣りで、北十間川にぶつかるような形で出てきている。戦後もこの道は存在していたが、現在は東武鉄道操車場構内の日立コンクリートに組み込まれて消えている)。
庚申橋を渡り北十間川北側の道に来れば向島側の吾妻森道である。それを通り境橋たもとまで来て左折すれば、香取神社の所で前述の「平井道」に合流するわけである。
それにしても、現在は庚申塚橋もなくなり、道の一部も区画整理のため消えてしまった。平井聖天さまへわざわざお参りする人も少なくなったと思うが、お参りすれば、JR平井駅で降りるのが一番近い。しかし、昔善男善女で賑わった「平井道・平井街道」の道筋の大部分はまだ依然として昔通りに向島の地に跡かたを残して今も昔の在りし姿を伝えていてくれる。そして、きっと昔通った人も今通行している人、心の違いを黙って見守っているかもしれない。 |
区名の起り
墨田区が誕生したのは、昭和22年(1947)3月15日である。戦後まもない昭和21年、東京都は区の自治権の拡張を目指して、人口分布の不均衡や戦後復興施策の上から、それまでの35区の区割りを再検討し、諮問機関として区域整理委員会を設け、22区案の答申をまとめた。
(板橋区は板橋、練馬に分割、23区になる)
この答申が出される前後には、本区では旧深川区との統合、1区独立説などの意見もあったが、旧本所区、向島区ともそれぞれの区議会で統合を議決した。
旧両区の統合で先ず課題となったのは新区名であった。昭和21年1月、東京新聞は新区名の募集を行った。当時の都の人口は343万余で24万余票もの応募があったというから、関心の高さがうかがわれよう。
本区の新区名としては、「隅田、墨田、吾妻、隅田川、江東」らが挙げられている。「隅田」が第1候補であったが、当時の当用漢字表に「隅」の字はなく、公式に使用することが出来ないという事情があった。
旧両区会では議員相互に意見の交換を重ね、新区名の選定に当たった結果、「墨田区」の名称を昭和22年2月25日に議決した。「墨田」とは、墨堤の「墨」と隅田川の「田」の2文字を綴っての命名である。
墨堤はその昔、須崎堤と呼ばれ、隅田川東岸の水除け土手として造られたという。牛島神社蔵の文書から推察すると、永禄年間(1567〜?)には、既にその原形が存在したと考えられる。江戸に入って文人墨客に墨堤と名付けられてより風光風雅の行楽地となった。
隅田川については語るに及ばず、在原業平の東下り以来、また、江戸から東京へと、時の流れと共に川の手の生活と文化を育んできた川である。
本区にとってまさにふさわしい区名の「墨田区」である。墨田区の古今を通じてのシンボル隅田川を詠んだ句歌は数知れないほどあるが、その幾つかを挙げてみよう。
●涼みとる舟のたゆたふ墨田川夕波の上に月も出でたり 加茂 真淵
●墨田川薄氷解けそめてみなかみかすむ春は来にけり 加藤 千陰
●いまも汝は広重の絵をながめつつ隅田川をば恋しと思ふや 吉井 勇
●隅田川眺めはるけき夕川水かもめをきけば古へ思ほゆ 今井 邦子
●わか菜摘む袂の下や角田川 一茶
●白魚や染物洗ふすみだ川
子規 ●行き違ふ隅田の舟の日傘かな 鳴雪
●真帆ゆくや七福神の隅田川 喜舟 ●朧(おぼろ)とは今日の墨田の月のこと
虚子 ●秋出水隅田葛飾領したり 冬葉 |
墨田区の紋章
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墨田区の紋章の中には、どんなカタカナが何文字隠されているだろうか。
そんなクイズを子供たちに出して、くの紋章に関心を持たせ、郷土意識
の芽を引き出して見てはどうだろうか・・・・・。
区の紋章は、区制10周年記念事業として公募され、集まった166点
から昭和32年(1957)4月30日、記念行事委員会でこの作品が選ば
れ、同年5月15日の記念式典で公開された。 |
以来、墨田区のシンボルマークとして園児、小・中学生はもちろん、広く区民に親しまれてきている。この紋章を作成したのは、墨田区登録無形文化財でもある蒔絵師の渡辺武山さん(当時32歳)である。渡辺さんをその仕事場に訪ねと、菊花の文様をお椀に描く手を休めて、この紋章に込めた思いをお話し下さった。
14歳の時から京橋の蒔絵師宅に弟子として、住み込みで修行を積んだ渡辺さんは、戦後、生活用具を中心とする仕事が多いことから、墨田区押上2丁目5番3号に移り住み、以来、この道一筋に高い伝統技術を磨きあげてこられた。
椀・銘々膳などの什器類、硯箱、文箱などの文具類、茶器類の蒔絵、特に、修行時代から数少ない江戸紋章の蒔絵師として高い評価を集めてこられた。また、宮内庁から勲章箱の菊の紋章を高蒔絵で施す仕事なども手がけられた。たまたま、区の紋章の公募を知り、関心を持ち応募されたという。
カタカナの「ホ」と「ム」の組合せは、昭和22年の本所区と向島区の合併を表わしている。また、墨田区の「ス」を墨(スミ)の「ミ」であり吉数字でもあることから三つ組み合わせ、限りなく墨田区が発展していくという願いを込めて、剣のように三方に伸ばしているデザインである。
審査に当たった当時の東京芸大図案研究室の首藤主任教授も「日本古来の紋章と比べても少しも劣っていない。しかも、近代的で美しい構成の紋章である」。と激賞されている。
渡辺さんは、この紋章が後々の世まで自分の作品として残ることに誇りを持ちながら、座り仕事の蒔絵に日がな精進を続けておられる。 |
すみだ音頭
8月は、盆踊りや夏祭りのシーズン。区内には街中のそこかしこに櫓が組まれ、「すみだ音頭」が太鼓の音と共に区内に響き渡る。
この「すみだ音頭」が作られたのは、昭和52年(1977)、区制30周年を記念してのことである。歌詞は、墨田区の今昔を表現し、平易で親しみやすくしかも郷土愛を育む内容をということで、広く区民から募集した。応募作品は260点にも及び、入選作と佳作6点が選ばれた。
当時、日本作詞協会所属の丘灯至夫を委員長とする20名の審査委員がその審査に当たり、生っ粋の本所っ子、古川喜久子さん(石原1丁目)が入選の栄に輝いた。その後、入選作品は、丘氏が補作し、作曲は市川昭介氏に委嘱、歌手は当時、コロンビア所属のキはるみ、大川栄作、の二人に依頼した。
歌詞は五連からなり、「ハァー 春は桜よ 夏には祭り 月を見るなら隅田川」で始まり、各連とも3行目は「すみだよいとこ みんなの町よ」と繰り返され、「よい よい よいとさの シャン シャン シャン」で結ばれている。
踊りについては、どの年齢層にも親しめ、踊りやすいものをということで、コロンビア専属の舞踊専門家の榊原保夫氏と墨田民謡連盟が振り付けを担当した。
こうして、昭和52年7月23日、「すみだ音頭」の発表会が両国公会堂で盛大に催された。引き続き、26日から4日間、区内4会場で民謡連盟による披露と実技指導が行われ、2,000枚のレコード(B面はすみだ音頭行進曲)も完売、追加注文をするほど、広く区民に普及したのである。
ところで、この事業を献身的に推進した影の功労者は、当時、すみだ家庭センター館長だった月岡祥次氏である。月岡氏は夏の夜に流れる「すみだ音頭」を耳にすると、東奔西走した、そのころの想い出が甦り、いつまでも歌い踊り継がれることを祈りたい思いに駆られるという。
ハァー 春は桜よ 夏には祭り
月を見るなら隅田川
すみだよいとこ みんなの町よ
今日も元気で(ハソレ)今日も元気で
よい よい よいとさの シャン シャン シャン | |
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