太平



 太平は、明治2年に新しい町名として生まれたもので、同時に命名された千歳と同じように本所の尾上町、松坂町、相生町、緑町にあやかって祝賀の意味から太平とつけられたものであろう。

 なかには、ひねって太平にある法恩寺が太田道灌とゆかりがあり、山号を平河山というところから、太田道灌の「太」、平河山の「平」をとって命名したのだともいっている。

 明治2年成立時の太平町は1丁目、2丁目だけで、その地域は錦糸町の北側から大横川沿いに春日通りまでのびていた。後、昭和6年に1〜4丁目と東西に広がり、昭和42年の住居表示変更後の現在と同じ地域になった。その地域は、法恩寺橋を渡り、天神橋を渡る蔵前橋通りを真ん中にして、南北に1ブロックの範囲で、大横川から横十間川までの東西に細長い町である。

 江戸時代には、小梅代地町、南本所出村町、深川元町代地、深川六間堀代地町、柳島村で、武家屋敷と寺院、それに幕府によって上地にあったものの代地(替地)や他村の耕地であったところが多い。

 明治になると、太平町、花月町、柳島横川町、柳島春秋町、本所柳島町などが現在の地域におかれ、明治24年には、柳島梅森町ができたのと、花月町、春秋町などの合併、編入などがあり、昭和6年の区画整理で現在の地域にまたがる太平町1〜4丁目が町域となった。

 春秋町のいわれはわからないが、花月町は深川六間堀から移ったものである。梅森町は小梅代地と柳島村字森耕地の併合地で「梅」と「森」を合わせて一つの町名としたものである。ところで、太平1丁目にある法恩寺は、はじめ江戸平河の地にあった小庵にすぎなかったが、長禄2年(1458)太田道灌が日住上人に助力して、本住院と号する一寺となったものである。

 その後、大永4年(1524)道灌の孫にあたる太田資高が、父資康追善の為に、堂舎を造営し、資康の法名によって寺号を法恩寺と改めた。家康の江戸入府後の慶長11年(1606)江戸城本丸造営のため神田柳原に移り、さらに谷中に移転し、元禄元年(1688)日定上人の時に、本所の今の地に定まった。

 江戸時代には、本堂、鐘楼堂、北面堂、番神堂、経蔵、常題目堂などの伽藍がそろい、12にもおよぶ塔中が集まっていた。その名残は今でも感じられる。

 太田道灌は文明18年(1486)、主君上杉定正によって相模糟屋で謀殺されているが、この法恩寺にも墓碑が建立されている。

 また、境内には、入江町(現在の緑4丁目)小茶屋中(六軒)が天保12年(1841)に建立した無縁塔があり、はかなく命までも売った72名もの女たちの戒名が連ねられている。墓域に徳川家お抱え絵師狩野家の墓がある。また、陽運院(合同墓域)には、歌沢節の哥沢芝金、俳人合歓堂沾徳の墓がみられる。

 太平3丁目の四ツ目通りに面して、サリドマイド児治療で名をはせた賛育会病院がある。大正7年、吉野作造等を中心とした社会事業として開設され、「施療ならびに実費診療」、「無料ならびに軽費助産哺育」を目的としていた。

 わが国の近代的時計工業は明治20年に名古屋愛知時計会社の掛時計製造に始まるといわれているが、明治25年、服部金太郎は本所石原町に時計工場を設けた。しかし、警視庁の動力使用許可がもらえず、翌26年12月、本所柳島町(現在の太平4丁目)に工場を移転した。これが現在の服部セイコー(精工舎)の創設である。

 この太平の地域は、明治の末頃の産業をみると、丸芳工場、中山染工場青木染工場、泉染工場などの染物工場が、大横川・北十間川沿いに点在していた。また、法恩寺橋通りは、本所では繁華で、浪花節定席の太平亭や石原の方に清水亭、若宮亭などの寄席などもみられた。
 ガラス工芸を見て、知って、制作の体験もできるタキナミグラスファクトリーショップも平成13年には長い歴史の幕を閉じてしまい残念です。