第五吾嬬小学校
(墨田区八広4−35−17) 開校 昭和 2年 5月 2日
閉校 平成15年 3月31日
(第五吾嬬小学校、木下川小学校、更正小学校) 統合により八広小学校となる
校地面積 7,986u

校章の由来
校章の中央の「吾」は、昔のこの辺の地名の
「吾嬬村」の頭文字をとりいれたものです。
その「吾」を囲むように、「V]のマークがあります。
これは、ローマ数字で「五」を意味します。
第五吾嬬ということから、「V]が五個入れられています。
この校章のもとで、みんな仲良く元気に、
たくましく育ってほしいという願いが込められています。
通学区域
八広1丁目43番、
八広4丁目1番〜47番、
八広5丁目18番〜30番
八広6丁目44番〜52番 吾嬬第2中学校へ |
校歌
山野辺 薫 作詞
芝 祐之 作曲
(昭和27年11月21日)
1.朝日に映ゆる 富士が嶺 むらさき 匂う 筑波ねを 学びの窓に 仰ぎつつ
正しく強く 生いたたん |
2.歴史は長き 吾が町に 四海のいぶき ただよいて
幸い生むひびき 高なるを
大きのぞみに 学びゆく |
3.荒き川波 さわぐとも
心はすみて あずまの子
校訓をとわに 身にしめて
明日の文化を 培わん
あゝ 我等 第五吾嬬 |
旧四つ木橋(木造) 釣舟と桟橋
大昔の吾嬬町は、海底でした。海は、まだ浅草、上野辺りまで入江で何万年も何十万年も、ずうっと海のままでした。長い間かかって、少しずつ自然現象によって、浅瀬にとなり「洲」ができ富士、秩父、榛名、浅間などの噴火があり噴火は度々起り、その灰が大雨の度に陸地から海へ流れ込み、やがて軟弱な地盤が時間と共に硬くなり、人が住める様になりました。
墨田区に、人が住むようになったのは、今から1,600年くらい前からの事です。といっても、そのころは、家もあっちにポツリ、こっちにポツリと建っていたくらいで、人はほとんど数えるくらいしか住んでいませんでした。
そして、それから120年ぐらいしてから吾嬬町にも、だんだん人々が住むようになりました。人々は、葦やつる草の生え茂った原っぱを開墾して、田んぼや畑にして、米、麦、粟、黍、豆などを作って暮らすようになりました。もともと、土地の低い所で砂地だったので米や麦もそれほどたくさんは取れませんでした。
江戸時代の頃までは、この辺りは「葛飾野」と呼ばれて、草原の多いところで、鴨や鷺などの鳥が、沢山住んでいました。そのため昔から狩場になっていました。
狩場というのは、鳥や獣を取って遊ぶ所ですが、江戸の頃も将軍の狩場として使われていました。サムライ達は、獲物を楽しみにここにやって来たのでしょう。江戸城からここまでは、約8キロメートルで、狩をするにはちょうどいい場所だったようです。
実は、東向島と八広(寺島町と吾嬬町)にかけて、むかしの「薬師道」の道筋が今もなおそのまま残っている。江戸時代庶民信仰で栄えた「木下川薬師」への道である。その道筋を案内して見るが、昔は田んぼの農道を利用したと思われるところもあって、今は建物が建てこんでいるその道を追うのはなかなかややこしい。少し冗長になるがお許しを願いたい。
お上がり場(徳川将軍鷹狩の際の船着き場)があった平作堀の墨堤地蔵坂から百花園(元旗本多賀氏の陣屋跡地)の前を通って、東武鉄道伊勢崎線の東向島駅の横を過ぎて向島消防署前の国道6号線(水戸街道)を越し、ヤマニ酒店横の道を入る。鈴和ニットに突き当たったら角を右折し、左に廻り込むように曳舟川通りまでは真っ直ぐに行く。ここには薬師橋が架っていたが、今は信号のある東向島6丁目・八広1丁目交差点。そこを渡って先の道に入る。道の両側はしばらく商店街が続く。これは昭和前半期京成電鉄の向島駅があったためである。その京成電鉄押上線の踏切を越えて八広新中通商店街を通り、八広中央通りまで道なりに行く。八広中央通りに出ると、八広中央通りのすぐ後ろに並行して薬師道が左方向へ少し残っている。並行している二つの道の間は植え込みになっていて交番と墨田区の文化財・江戸時代大畑村講中が建立した「やくしみちの道標」がある。
今は道標正面が中央通りに向けて立っているのはやむを得ないが、すぐ薬師道は八広中央通りに吸収されてしまう。しかし、八広4・5丁目交差点のところで右折する道は再び薬師道になる。左に廻り込むように故宇田川豊次郎宅の手前・八広あずま公園の方向へ行く。木屋酒店角を右折し、片山はなや惣菜屋で今度は左折、花みずき通りまで出る。左にファミリーマートのある八広6丁目交差点を越し加藤病院を通り過ぎ一軒先で右折、五差路の左斜め先の道は薬師道である。あとは八広6丁目の荒川放水路の土手まで行き、そこから中居堀通りへ入っていたが、今は土手であえなく遮られてしまう。「木下川薬師」も残念ながら荒川放水路の中に没して今はない(葛飾区中川際に移転)。江戸庶民の信仰を集めた有名な社寺だっただけに大勢の人が詰めかけ、その道筋は大変賑わった。いまでもファミリーマートのある商店街の道筋のところどころに古い店が残り、さすがにという感じを起こさせる。
八広中央通りといえば、戦後昭和25年に出来た新しい道である。墨田区の道路課に問い合せたところ、戦時中強制疎開で買収して昭和25年6月頃出来たので、しばらく疎開通りといわれていた。昭和61年8月頃地元との協議の結果、八広中央通りという愛称で看板を掲げたとのことである。その八広中央通りの中頃道路東側に交番がある。その近くに街路樹の細い植え込みがある。植木に隠れるように、江戸享保の頃に建てたと思われる古い「道標」が立っている。墨田区の説明板によれば「享保年間に将軍が薬師参詣の際、大畑村の人々に建てさせたものといいます」と書かれていた。正面に『右やくしみち』、右面に「左えどみち」、左面には「大畑講中」と道標を寄贈した大畑村の人々の名前が刻まれている。昔の薬師道の一部は八広中央通りに吸収されているので、道標は今の道路に面して立てられているが、元立っていた場所は何処にあったのかわからない。
道標が何処に立っていたか、考えてみると興味が尽きない。敢えて推論してみた。寺島側から来て曳舟川を渡った薬師橋のたもと、左手に立っていたいたのではないかと思う。橋を渡って道標と体面したとき右へ行く道は薬師様。道標の右側に廻ったとき左方向は曳舟川通りを行けば吾妻橋、渡れば江戸浅草である。もう一つ考えられる場所は、仲居堀に架っていた橋を渡った左手のたもと、状況が薬師橋と同じ条件だからである。
木下川薬師は貞観2年(869)に誕生した古刹で正式名は浄光寺という。江戸時代将軍家の祈願所となり、住職は江戸城紅葉山の歴代将軍霊屋の別当職(寺務を統括する僧侶)を勤めていた。浅草寺の筆頭格末寺でもある。「江戸名所図会」をみると、木下川薬師浄光寺は将軍家の保護が厚く、毎月8日の縁日には、将軍・御台所の代参や幕臣、お多く女中の参詣などで大変賑わったそうである。3代将軍家光は自ら足を運んで参詣に訪れた。8代将軍吉宗などは、葛西方面に鷹狩に来たときは必ず本寺を参拝したといわれている。。狩装束を纏った吉宗が、共揃いを従え、颯爽(さっそう)と馬に跨り、この薬師道を進んでいく有様は如何なるものであったのか、想像するのも面白い。
江戸時代は、ご存知の通り今と違って優れた医学・医療もなく、疱瘡などでも流行すると沢山の人達が死んだ。3日コロリといわれたコレラなど、病気は恐ろしいものであった。昔の人は流行病を疫病と呼び、「神罰であるとか、疫神(疫病神)という超自然的なものが流行らせるなどと考え、疫神を祭る民族・風習が各地に根強く広がっていた。(世界大百科事典・平凡社)」
江戸庶民の間には、薬師信仰は、眼病をはじめとして、不死の病に苦しんでいたとしても「薬師如来」と唱えれば、たちどころにその苦しみから救われ、万病の仏として深く信仰された。
疫病にほかにも、台風、地震、洪水、冷害旱魃などの人災。昔の人々が神仏に縋る気持は、今の医療や科学の発達した時代に生きる我々には想像もつかぬほど強かったと思う。薬師信仰は「えどじだいには(朝観音、夕薬師)といわれるほど庶民に信仰された。(岩波仏教事典)」
薬師信仰は観音・地蔵信仰と並んで最もポピュラーな仏教信仰であった。
また、「日本民俗事典(弘文堂)」によると、「中世に入って講元と呼ばれる世話役のもとに薬師の縁日に集まって宗教儀礼を行って飲食を共にする寄合いに変わり・・・・・中略・・・・・江戸期以降娯楽的色彩を強めた。
縁日は釈迦と結びつく8日とするのが一般的で、12日がこれに次ぐ。特に4月8日の仏生会を縁日とする薬師の名刹には、植木市・見世物・露店などが並んで賑わい、灌仏の甘茶を貰って目を洗えば眼疾が治り・・・・・後略・・・・・」などと書かれている。木下川薬師への道中はさぞかし賑わったことだろう。それにしても宗教儀式が寄合いになり、さらに楽しい縁日に変えてしまう。この江戸時代の人々のエネルギーと精神構造は何であったであろうか考えざるを得ない。
近代科学の恩恵に浴していなかった時代の人々にとって、疫病を含めて生死を決める凡ての災害を防御するには神仏に縋(すが)る強い信仰心以外になかった。と同時にある意味で開き直った強さ、言い換えれば「なるようになれ
!!」という心情や生き様があったように思う。そうでなかったら、いつ、なんどき、起るかもしれない災害を受け流す余裕は生れない。薬師様の縁日をみんなで楽しむ江戸の人々の心底には、このようなしたたかさ・強さがあったのだ。そしてこの時とばかり大いに発散したに違いない。大畑村講中の方達も忙しかったであろう。その頃の文書が残っていない今、「道標」は当時の人々の生活実態を物語る墨田区の貴重な文化財になっている。
また、薬師裏道(明治38年東京府南葛飾郡役所発行)という名称の付いた道がある。東武鉄道鐘ヶ淵駅のそばの円徳寺辺りから荒川放水路が出来て水没した木下川薬師までの曲りくねった、細い忘れ去られた道が、信心深い人達が行き来したと思われる古道が記入されている。
鐘淵の東武鉄道の踏切を渡り、すぐ右側に「藤の家(寿司店)」、三光社(メガネ店)の間の1間ぐらいの細道がある。そこを入り、「墨田西児童遊園」の前を過ぎ2軒先白百合美容室の角を左に入る。その道を右、左、右と3回ほど曲がると「かつら児童遊園」に突き当たる。そこを左に曲がると鐘淵通りに出てくる。続いて、「朝日パリオ鐘ヶ淵」と洋品屋さんとの間に道がある。地図上では里道の記号線が付いている。そこを入って都営住宅団地が並んでいる間を抜けると向島第6消防団の建物に突き当たる。その左隣の第2長生湯の前を右にまわるように行く、Y字形の曲がり角に出たら右へ、そこを進めば荒川放水路の土手に出る。ここまでの道はほとんど間違いなく「薬師裏道」の一部分であると思う。
この先は荒川の土手を越えてしまい、やがてまた墨田4丁目59番地秋田産業と60番地ミズノ電器の土手下道の境道に戻って来る。三代川製作所の角で左折し曲がり込むように道なりに行くと、すると眼前に水戸街道の下にトンネルが見える。それを潜り、出る先は八広6丁目。道は続いて行くのでそのまま行く。元曳舟川の橋があったところは今新四つ木橋下になっている。そこを潜った先の道は直線道に一部短縮されているところもあるが、土手方向へ往く道は確実に「薬師裏道」といって良いと思う。「薬師裏道」の先端部は京成電鉄押上線や八広駅付近で荒川放水路にのみ込まれて木下川薬師と共に消えている。
この「薬師裏道」は明らかに千住、綾瀬、堀切方面から来た人達への道である。ということは、木下川薬師に参詣した人達は江戸の人達だけ出なく、当時は近郊農村地域の足立、葛飾、埼玉県辺りからも多くの信心深き参詣人が来たのであろう。緑以外は何もない田んぼや畑の真中の畦道・字境の道。自らの健康と家内安全を願いこの道を歩いたに違いない。講の人達の列、数人の語らいもあったかもしれない。或いは、ひとり黙々と歩いていた人もいたかも・・・・・。
この道は東武鉄道鐘ヶ淵踏切を境にして、「円徳寺前道」と名付けられ、現在の墨田5丁目側では、ハッキリ残っている。駅そば「柳」と丸口屋(中村屋)との間に鐘淵駅前商店街の広告アーケードがある。そこの道を入って、最初の角を左折し円徳寺の前をとおり右折すると、多聞寺へ行く道(中世以来の古道、鎌倉市下ノ道)になる。「東京府南葛飾郡全図」では、この道は堀切道へ、更にその先は亀有の辺りで水戸や佐倉へ行く「陸前浜街道分道」へと繋がっている。
もう一方、堀切に入る手前で(古綾瀬川を超えて堀切へ行かず)新綾瀬川を渡る道がある。この道は千住方面(日光街道)へ行く道であるが、「綾瀬新道」〜「牛田道」〜「御殿道(小菅御殿)」ヘとも続いている。面白いのは、この道はまた「吾妻橋道」ともかかれているので≪「綾瀬新道」には綾瀬川をわたると「至吾妻橋」とも書かれている≫。旧千住街道を江戸方面へ行くと千住大橋を渡り、吉原近くの三谷堀、花川戸、浅草の方へ行く道だったのであろう。
墨田区は、海にも近くて土地も低くて、昔から大雨が降ると川の堤防が壊れて、たびたび、大水に見舞われました。吾嬬町はもちろん大水が出ると田んぼや畑が流されて、時には家まで水に浸かってしまい、みんなとても困りました。なかでも1910年(明治43年)の大水は大変なもので、墨田区中が海のように水浸しになってしまいました。
そこで、こういう大水を防ぐために、放水路を作る計画が立てられました。もう一つ新しい川を作り水を海に流しこもうということです。初めはこの計画に大事な田んぼや畑なくなってしまうという事で反対する人達もいましたが、次第に早く放水路を作らなければ、また、大水が出ることになるので、東京府では、早速農民から土地を買いうけて工事に取り掛かりました。
荒川放水路は、1913年(大正2年)から工事を始めて、今の北区の岩淵という所から海までの24キロメートルという長い距離でした。
その頃は、今のようにブルドーザーもなければ、パワーショベルもありませんでした。みんなシャベルや鍬を使って手で掘っていたので、掘った土はトロッコに積んで運んだり、モッコで担いで運んでいました。そのため全部掘り終わるのに18年もかかりました。
この工事がすっかり完成して、初めて水が通るようになったのは、1930年(昭和5年)の事でした。荒川放水路が出来てからは、大水の心配だけはなくなりましたが、幅400メートルの土地が水没しました。
1919年(大正8年)第3吾嬬小学校が建てられました。大畑村、木ノ下村、木下川村などの、4つの村の子供達は、初めてここで、一緒に勉強ができるようになったのです。しかし、1927年(昭和2年)になって、第5吾嬬小学校が開校したので、木下川の子供達は、今度はそこに移り、10年ほど第5吾嬬小学校で勉強していました。
1923年(大正12年)の9月1日正午前、関東大地震が起りました。震度6という大変大きな地震でした。そのため東京では沢山の家がつぶれたり、焼かれたりして、約6万人の人達が死亡するという大被害を受けました。
この辺りでは、さいわい屋根のかわらが落ちた程度で、たいした被害はありませんでしたが、荒川の土手には、浅草の方から逃げてきた人たちでいっぱいでした。
「朝鮮人殺害事件」が起きたのはこの時の事です。どこからか、(朝鮮人が町に火をつけた)とか、(井戸に毒を投げ込んだ)とかいうデマが広まって大騒ぎになり、あちこちで罪のない朝鮮人達が、惨い目に遭わされました。四つ木橋の所でもそういう事があって、朝鮮の人が何人か殺されたということです。
関東大地震から8年経って、日本は隣りの中国と戦争を始めました。この戦争は日本が勝手に中国に攻め込んで行ったのです。そして、中国の人達をとても酷い目にあわわせました。
1931年(昭和6年)の事です。
日本は、それから15年も戦争を続けて行くわけですが、戦争が激しくなると、若い男たちは、次々に戦地に連れて行かれました。そして弾に当たって死んだり、傷ついたりする人の数も急に。多くなっていきました。
中国との戦争をはじめて11年目になると、日本は、今度はアメリカを相手に戦争を始め、1941年(昭和16年)12月8日のことで、この時から世界中が戦争に巻き込まれてしまいました。
これを「第2次世界大戦」といい、日本は、はじめは勝っているようにみえましたが、本当は半年ばかりで、それからは優勢なアメリカ連合軍に次第に押されてきました。また、国民も中国との長い戦争に疲れ、戦闘が激しくなると、配給制が導入され食べ物だけでなく、着るもの、運動靴などのも、ほとんど「切符制」になり、ノートや鉛筆なども自由に買うことが出来なくなってしまいました。
アメリカ軍の飛行機が飛んできて、時々飛来して爆弾を落とし、初めのうちは沖縄、九州の方が主でしたが、サイパン島が占領されると、間もなく、東京をはじめ日本の大きな町は爆撃される心配が出てきました。
爆弾を落とされて一番危ないのは子供達で、落ち着いて勉強も出来ないし、イザという時、大人のように思うように逃げる事も出来から政府の命令で、子供達は爆撃の心配のない田舎に移る事になりました。これが俗にいう「学童集団疎開」という。また、これとは、別に「縁故疎開」といって、田舎の親戚、親類、知り合いの家に預けられる子供達も大勢いました。
第5吾嬬小学校でも1944年(昭和19年)先生達に引率されて茨城県笠間という町に疎開しました。そして10ヶ月ほどで、当地も危ないという事で秋田県の矢島という所へ再移動しました。
子供達は、そこで旅館の部屋やお寺を本堂を借りて、畳の上で勉強をしていましたが、いくら先生と一緒でも、両親のそばにいるような訳にはいきません。
その上、食べ物も大変少なくて、みんな毎日お腹を空かせていました。「僕らはなるべく動かないようにじっとしていた、動くとそれだけ腹が減るから」、おまけに、衛生状態が悪いからシラミやノミがわいて大変だった。
子供達は、生れて初めて親のそばを離れて、寂しくて、みんな家に帰りたくて、夜になると両親家族の事を思い出して、ふとんをかぶって「そっと」泣いているこもいました。
1944年(昭和19年)秋になると心配していたように、アメリカ軍のB29という大きな飛行機が爆弾や焼夷弾を一杯積んで、日本の上空に飛んでくるようになりました。そして、東京をはじめ大都市の町々が次々に焼かれていきました。そのため、逃げ遅れて焼け死んだ人も沢山いました。そのなかでも、あくる年の3月10日の大空襲は、それこそ、地獄のような激しさでした。
この夜は、B29が一度に150機もが襲ってきました。東京の下町は、たった3時間足らずのうちに全滅してしまいました。燃え上がる火は一晩中空を赤く焦がして、その火は遠く千葉県や埼玉県や茨城県の方まではっきりと見えたということです。
人々はその火の中を着のみ着のままで逃げて行きましたが、逃げ遅れて焼け死んだ人も沢山いました。その晩は下町だけでも8万人近い人達が焼け死にました。隅田川には、そういう可愛そうな人達が、折り重なるようになって、いっぱい浮いて流れていたということです。
何時まで続くかと思われていた長い戦争も、やがて終わる時がきました。1945年(昭和20年)6月には沖縄が全滅し、それから2ヶ月後の8月6日広島に、9日には長崎に恐ろしい原子爆弾が落とされました。この爆弾で広島だけでも一度に15万人以上の人が死にました。
この時になって、日本はようやく戦争に負けた事を認め、8月15日、中国、アメリカ、イギリスなどの連合軍に「無条件降伏」をしました。
そして、9月2日に東京湾でその調印式が行われ、日本はその日からアメリカ軍をはじめ連合軍に占領されたのです。また、それと一緒に日本の軍隊は解散され、兵隊達は武器を破棄し、各自の家に帰っていきました。こうして1931年(昭和6年)から15年も続いていた戦争もやっと終わって、平和が戻ってきましたが、この15年の間に戦争で亡くなった人の数は310万人にものぼりました。そのほかには、小学生や、それよりもっと、小さい子供達も、沢山含まれていました。戦争が終わると、町の人達はホットしました。もう恐ろしい空襲の不安もなければ、他所へ逃げて行く事もありません。みんなは平和のありがたさを、しみじみと噛みしめました。
秋田県に疎開していた子供達も、その年の10月の末にせんせいにと一緒に帰ってきました。やっと両親のそばに帰ってこられたのですから、みんなとても大喜びでした。いままで、子供達のいない寂しかった町にも、急に賑やかな声が響き渡りました。
教科書も天皇の事や戦争のことが書いてあるところは教えてはいけないという命令が出て、墨で塗りつぶしてしまったりしたので、満足に揃っていませんでした。
食べ物も戦争中から足りなくなっていましたが、その頃から取り分け酷くなりました。お米はタマにしか配給にならないので、その間みんなカボチャやサツマイモばかり食べていました。中にはトウモロコシの粉や牛の餌にするフスマや荒川の土手の草の根をカジッタリしなければなりませんでした。もちろんそんな物ばかり食べていたのでは体がもたないので、町の人達は、時々、田舎の農家に着物や洋服を持っていって、米や芋と交換したりして、やっと飢えを凌いでいました。子供の好きなお菓子もなかなか手に入りません。
ましてや進駐軍がカジッテいたチョコレートなどは高嶺の花だった。また、たまに配給になる米も、玄米といって、籾殻をむいただけのものだったので、何処の家でも、それを1升ビンに入れて、糠が出るまで棒で何度も突いて食べました。
学校給食が始まったのは、1947年(昭和22年)1月からで、そのころは、アメリカの援助品(ガリロア、エロア)の西ドイツでは牛の餌にしか使われなかったという代物の粉ミルクが1週間に2・3度だった。このミルクは名前こそミルクだったが、普通には飲めない嫌な匂いのする、鼻を摘んで一気に飲まないと飲めないものだが、必ず、「アメリカさん有難う」といわさせられて飲んだものだった。その後、時々簡単なオカズも出るようになったが、食べ物の乏しい時だったので、学校給食は子供達には喜ばれたようでもあったが、中には給食費が払えない家庭も多々あり、外で水道の水を飲んで済ましている子もいました。
東京都では、今のような完全給食は1950年(昭和25年)9月から行われるようになりました。 1949年(昭和24・5年)頃から縁故疎開から続々戻って来る学童が増え、教室も足りず、「2部授業」が低学年で始まり、一部は青空教室もあり、午前、午後に分かれて交代で勉強をしていました。
戦前の校舎は、昭和20年3月10日未明の東京大空襲で全焼した。この字型の2階建ての正面玄関の上がバルコニーになった瀟洒(しょうしゃ)な、学び舎も大量の焼夷弾には、何の術もなくたちまち焼き尽くされてしまいました。
校舎の無くなってしまった生徒は、隣りの更正小学校を借りて授業を受けた。そして、日本国民全員が忘れる事の出来ない、外国との戦争で初めて敗戦という経験を味わいました。終戦後の焼け野原の写真を見ると、本当に見事な焼け尽くされ方だった。だが、我々国民は悲しさに打ち勝ち、戦後を見事に復興させ、「所得倍増」、「東京オリンッピック」、「万国博」「オイルショック」、「札幌、長野冬期オリンピック」、「バブル崩壊」など、様々な浮き沈みはありましたが、イベントを開催する度に高度成長を達成し、昭和、平成の2時代の生き証人として閉校を静に見届けました。
平成15年2月22日(土)に閉校式典とお別れ会が平成6年に改築された体育館で挙行され、生徒、関係者合せて、490名が列席した。
戦後の校舎は、昭和22年3月22日に木造平屋建てバラックの職員室を含めた6教室が完成し、戦後国民学校が廃止されて、この年4月1日に校名が「東京都墨田区立第五吾嬬小学校」となった。校舎も昭和23、25年とバラック建ての平屋建てが増築され、28、32年と2階建ての木造モルタル造りに、改築され、すし詰め教室も段々と解消に向い始めた。体育館兼講堂、プールが完成し、鉄筋コンクリートの4階建ても第1期(昭和46年5月1日)、第2期(昭和47年5月1日)も完成し、戦後2代目のプール、体育館が昭和51年6月30日、平成6年3月31日に、改築され現在に至っている。
平成15年(2003)3月31日を以って閉校となりましたが、第5吾嬬小学校「ありがとう」とはいうものの「さびしい、口惜しい」気持でいっぱいです。
町内回覧 (墨田区教育委員会スポーツ振興課)
平成15年8月9日の町内回覧板のお知らせには、『総合型地域スポーツクラブを作ります』と書かれたチラシには、旧第五吾嬬小学校を拠点として、総合型地域スポーツクラブを設立したいと考えています。
総合型地域スポーツクラブというのは、地域の皆さんが『いつでも』『どこでも』『いつまでも』生涯にわたってスポーツに親しんでいただけることを目的としたものです。
今後の総合型地域スポーツクラブで、地域の皆さんに親しんでもらう、いくつかの種目を現在検討しています。
●カーリング
●ソフトバレーボール
●フットサル
など、皆さんにご希望があればお気軽にお知らせください。
今回は、カーリングを紹介します。日時は、8月24日『日』子供会サマーフェスティバルの際に、屋内体育館で用意して、お待ちしています。きっと、どなたにも楽しんで頂けると思います。
自分にふさわしいスポーツ種目を自由に選んで、興味、体力に合わせて、参加し、目的を果たせれば幸いだと思います。
平成16年度の設立を目指しています。今年度は皆さんのご理解を深めて頂き、準備を進め行きます。さらに、試行的に『いくつか』の新しいスポーツ種目をご紹介し、皆さんにチャレンジしていただこうと考えています。さらに、楽しんで頂けるスポーツイベントも予定しています。
総合型地域スポーツクラブは区民の皆さんの企画から運営までを行うもので、会費を納めていただき運営して行くことになります。
   
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