更正橋








荒川の橋と共に

 昭和38年(1963)には外郭防潮堤ができ出水期の備えが強化され、昭和39年10月の東京オリンピックが終わり、昭和40年代に入ると、墨田区では区民の身近な生活改善が進められている。特に、この年の6月、昭和初期のばらばら事件で知られた『おはぐろどぶ』が暗渠となったのをはじめ下水道が整備された。

 これと同じ時期、区内の住居表示が行われ、隅田が墨田に、寺島今が東向島、吾嬬町東が東墨田と立花、吾嬬町西が八広、京島、押上となり、厩橋が本所と改名された。このうち『京島』という町名は、新たに命名された町名であるが、新しい町として発展することを願い、大きい・盛んの語意を持つ『京』と旧向島の『島』採って『京島』となずけられた。もう一つの『八広』という町名も8つの町会と末広がりの『広』を組み合わせ、この地域には始めてお目にかかる町名である。また、この町名改正に同調して『墨田をきれいにしよう』という区民運動も高まった。

 昭和44年(1969)はアメリカの『アポロ11号』月に着陸、大きな話題となったが、区内では『あずま百樹園が開園されたのをはじめ、子どもが安全に遊べる児童遊園が相次いで開園された。1月7日、『亀沢つくし児童遊園』をはじめ、12月25日『京島からたち児童遊園』など9園が開園している。

 環境改善が進むなかで、堤通の鐘紡東京工場が明治以来82年の歴史を閉じた。この跡地が東京都の防災拠点として生まれ変わり、昭和53年(1978)3月第一期工事が完成、防災都市墨田の建設は一層進展した。

 墨田の歴史は防災の歴史でもある。水害・震災・戦災の3つの災害を克服することが、墨田区繁栄の基礎で、この時期、その課題が次々と解決された。

 また、8月26日、多くの鉄道ファンに見送られ『C57・105』蒸気機関車が両国駅を離れ、これを最後に旅客列車を引く蒸気機関車は都内から姿を消している。

 墨田区内では、都営地下鉄1号線が走り、総武線の東京〜津田沼間の複々線の工事が完成する一方、区民に親しまれてきた路面電車が姿を消し、バス路線となった。

 路面電車が区内を走ったのは明治36年(1903)12月、両国橋の中央から東に向けて82m走ったのが、最初である。昭和31年(1956)には、区内で8系統を数える最盛期をむかえている。時代が40年代に入ると自動車が急増し、交通渋滞が始まり、昭和47年(1972)11月福神橋〜月島間の路面電車の廃止を最後に区内から完全に姿を消した。

 テレビジョンの普及により大衆娯楽の中心だった『映画館』が、残念ながらこの時期に姿を消す羽目になった。区内の映画館もご多分に、もれず残り少なくなっていたが、昭和46年(1971)1月向島地区最後の映画館、『向島金美館=東向島1丁目』、『吾嬬国際劇場=立花5丁目』が廃館となり、向島地区から映画館が姿を消している。

 昭和40年代はテレビへの普及率が90%を超え、放送開始から約10年間でテレビは国民生活に浸透し、巨大な影響を持ち生活を変えていった。また、一方では『電子ソロバン』と呼ばれる小型計算機が出現、人手不足に悩む事業所を中心に普及し、学校や一般家庭でも盛んに使われるようになり、コンピューター時代をむかえる。