八広


  八広は、昭和40年12月の住居表示によって新たに生まれた町で、その範囲は、東を荒川、南を中居堀通り、西を明治通り、北を曳舟川通りに囲まれた地域である。面積は墨田区の約10%にあたる1,192Kuで区内の町では墨田についで広い。

 八広のいわれは、住居表示以前の町名が、寺島町6・8丁目の一部、吾嬬町西5・6・7・8・9丁目の一部、隅田町4丁目の一部にまたがる8つの丁目から成っていたことから、末広がりから八方広がりを縁語として、町がより一層発展するように名づけられたものである。

 応永5年(1398)に記された「葛西御厨」には寺島、木下毛河、小村江郷の名があり、八広の地域もその中に含まれていたようにみえる。葛西御厨とは、当時このあたり一帯を支配していた葛西氏が伊勢神宮の神領として、その墾田を寄進したもので、かなり広大な地域にわたっている。小田原北条氏の支配地となっていた永禄2年(1559)の「小田原衆所領役帳」によると、葛西寺島、葛西小村井、葛西葛西川、葛西木毛川となっている。

 江戸時代になると、寺島村、小村井村、下木下川村、葛西川村の他に、大畑村、木ノ下村などが新たに加わってくる。特に、大畑がこの八広の中心地域を占め、「新編武蔵風土記稿」では「大畑村は元禄の改御帳に始めて大畑新田村と載す。後、新田の二字を省けリ、江戸より2里、戸数73、東は下木下川村、南は小村井村、坤(ひつじさる)は請地村、西は寺島村、北は木ノ下村、艮(うしとら)は、村なり」とみえる。

 また、木ノ下村については「木下村はもと木下川村の荒地なりしを懇闢(こんびゃく)して分村せし故、本村の名を下略して木下村と名付、唱へは木ノ下と呼来ると云、元禄改の国図郷帳等には木之下村と記せり」とみえる。

 明治になって、この地(旧向島区地域)は4ヵ月ほど武蔵県に所属するが、すぐ東京府に移管された。そして明治11年郡区町村編制法の公布によって、南葛飾郡となった。さらに明治22年、小村井村、葛西川村、請地村が合併して吾嬬村が生まれ、大畑、木ノ下、上木下川、下木下川村が合併して大木村が誕生した。

 吾嬬村は大正元年に町となり、荒川放水路開鑿(かいさく)に伴って大正3年には大木村の大部分を併合した。範囲も広がったので、明治5年には大字小字制を廃止して、丁目制をとり吾嬬町東、吾嬬町西に二分する。

 そして昭和7年寺島町、隅田町と合せて向島区が設置される。さらに、昭和22年には向島区と本所区が合併して墨田区となった。

 かっての大畑村周辺は、名前にも示されるように畑を中心とする農村地帯であったが、その立地条件から副業として植木業が盛んであった。また、曳舟川、中居堀沿いには、さらし屋、紺屋なども多くできている。日清日露戦頃から家庭工業も進み、金属屋といわれるブリキかん、こうもり傘の骨、ライター、おもちゃなどの製造が行われはじめた。

 真ん中を東西に横切る京成電鉄は、大正元年11月に押上から市川、柴又間に開通したもので、かっての駅は、押上、請地、曳舟、向島、荒川(現、八広)そして四つ木へとつながっていた。

 向島駅は戦災後復興せず、昭和22年2月廃止され、現在は、この八広地域には八広駅が荒川の土手とはなみずき通りの間にあるだけである。昭和3年から11年まで、向島駅から白鬚駅に至る京成白鬚線が走っていた。木下川薬師に通じる道で、この付近随一の繁華街に南竜館通りがあった。南竜館は、相当の入場者がある映画館だったが今はない。

 八広3丁目には、通称「こんにゃく稲荷」で知られる三輪里稲荷神社がある。慶長の頃、出羽の羽黒山の修験者が祠を建て稲荷の霊である倉稲魂を祭ったもので、地域の信仰を集めている。とりわけ羽黒山修験に伝わる「コンニャクの護符」は、これを煎じて飲むとノドの病に効くといわれている。毎年2月の初午の日はその祭りで賑わっている。

 昔の疎開道路の八広4丁目交番脇の植込みの中に、大畑村の人々の建立した「やくしみち・・・・・」の道標がある。また、八広庚申堂(八広5丁目32番)にも、大畑村講中建立の元禄2年(1689)の庚申塔など3基がある。

 曳舟川通りの養護学校の所には、ミツワ石けん工場があった。また、明治通りとの角のところには、東京駅の化粧レンガや高級マントルピースなどを焼いた鳥井陶器製造所があり、現在は書店になっている。


中居堀(大正10年)