玉の井






 電車停車場名にもなった”玉の井”の名は何処から発祥したのか。東武電車”東向島駅”、プラットホームや駅舎表示名に東向島駅、(旧玉の井)と書かれている。街のメインロードの旧大正通りが一部”玉の井いろは通り”と改称。

 明治以来の地図を調べると寺島村→寺島町→東向島町と現代に変遷、玉の井町名は見つかりません。郡部の地名、字(あざ)に係わっていたのです。引越し魔、幸田露伴さんも一時住んだ場所「岐雲園」の住所が東京府南葛飾郡寺島村字馬場255。

 村を細かく区画した表示として「大字」「字」「小字」があり、寺島村はかなり大きな村ですから字に居村、馬場、玉の井、新田、深瀬入、中堰などあった。
 東京府南葛飾郡寺島村字玉の井○○番地一帯が、東京都墨田区東向島5丁目○○番地(一部墨田3丁目など)になった。

 
大正12年(1923)字(小字)で、北玉ノ井と本玉ノ井の二字があった。寺島村が町制を施行して寺島町になる。昭和5年(1930)、寺島町はこれまでの字を廃して新たに1〜8丁目の大字を設置し、このとき正式な「玉の井」の地名が消滅。(字北玉ノ井と本玉ノ井は大字5〜7丁目に含まれた。)昭和7年(1932)市郡合併により東京市向島寺島町(玉の井は寺島町5丁目と7丁目)となる。昭和18年(1943)には都制施行により、東京都向島区寺島町となり、昭和22年(1947)、特別区の再編により東京都墨田区寺島町となる。昭和40年(1965)、住居表示の施行により東京都墨田区東向島、墨田となる。

 近代的住居表示、何丁目何番地しか知らない現代の悲哀か、都心部でさえ江戸由来の町名が失われ、忘れ去られて、当地玉の井は永井荷風の不朽の文学作品のお陰で多くの人々の脳裏に留まり、この田圃と蓮根畑の湿地帯に人が住み着き、字玉の井の地名が戦前のメイシ屋(銘酒屋)街、戦後の赤線時代には好んで使われて象徴的な呼び名という事情もあるのでしょう、今では廃れた。

 玉の井に私娼街が忽然と成立した理由は大正12年の関東大震災で浅草の私娼窟十二階下一帯が焼失した折、警察が再興を認めず追い出されて当地と亀戸天神裏に私娼街が認められ出現し、具体的には象潟(きさがた、浅草)警察署長橋爪警視と警視庁保安課長丸山鶴吉(のち総監)の私娼窟徹底取締りの結果。

 “鬼の橋爪に涙があれば、浅草千束町には蔵がたつ”と十二階下の銘酒屋達が嘆いた。玉の井に関しては当時東武鉄道は業平橋の終点が浅草花川戸に延長移転し、道路は白鬚橋から四つ木方面に大正道路(いろは通り)が開通、鉄道、道路の便の向上が業者の目に適った。

 
また、浅草からこの付近まで一直線に通る道路(現、国道6号)が開通したほか、昭和6年(1931)には東武鉄道が伊勢崎線(現スカイツリーライン)の起点を業平橋駅(現、東京スカイツリー駅)から現在の浅草駅に移したことで、浅草から玉ノ井駅(現、東向島駅)までのアクセスが格段に良くなったことも繁栄を助長した。

 入り組んだ元田圃の水路(ドブ)を外しテンデン勝手に家を建て商売を始めたのが東向島5丁目界隈で迷路の出現とドブの由来とされ、失われて久しい玉の井と呼ばれた遊里が、大正通り(現、玉の井いろは通り)を挟んで南北両側には隔絶した世界が存在した事実がです。

 南側(現、東向島5丁目)は昭和20年の東京大空襲で焼失した私娼街で、永井荷風の作品を彩る”ぬけられます”の街。北側(現、墨田3丁目)は敗戦後のアメリカ占領下に公娼制度(遊郭)が廃止され隠避した私娼街として赤線が発生した。

赤線とは警察が指導監督する私娼街のことで、警察の地図上に赤線で囲い表示した街の事)また、警察の指導を逃れて成立した私娼街を青線といい、新宿ゴールデン街の前身”花園”。

 また、存続年代も南側のメイシ屋(銘酒屋)街は大正12年頃から昭和20年まで、北側の赤線は昭和20年敗戦以後から昭和32年売春防止法施行まで、それぞれ時代で分断しいる。
 
 更にその商売の方法も南側と北側では正反対の思想が盛り込まれて、この種の商売の管理は江戸以来、お上、警察の匙加減と相場が決まっており、戦前派のメイシ屋は象潟警察署長なる鬼の橋爪警視の究極の浅草千束界隈の私娼弾圧策? ”目だけ窓”の実践が慣例化して玉の井メイシ屋も娼婦は通行人に容姿を晒すのが御法度として、屋内に隠れ小窓を介して客と商談する独特奇妙な日本式私娼街が成立った。

 一方、北側赤線街は歴史は変わる。大日本帝国の無条件降伏からアメリカ占領軍(連合軍)総司令官マッカーサー元帥の日本統治が始り公娼は廃止され私娼の時代になり、この種風俗営業は公開明瞭におこない、隠し立ては人権侵害など旧悪習につながる行為と見なされ、我が日本国警察は占領軍至上命令と、さっそく赤線営業建築物の基準を発案して商売のオープン化を実施させた。
 その指示文書の詳細は知りませんが、記憶している警察モデルを記載、外観は装飾に色タイルなどを貼り、ドアーは回天開閉式、窓は回転式で壁の相当部分を占めて、内部一階にはホールにカウンター、酒類棚と簡単な椅子テーブル類と明るく開放的な雰囲気を強調、但し女性が店敷地外でキャッチ行為は固く禁止された関係上複数の女性の接客(呼び込み)用に出入り口数ヵ所を設けそこに立ち、客は究極の目的で買い物に来たわけですから、飾りだけの一階ホールは素通りで部屋へご案内、現在でも江東区の旧赤線洲崎パラダイス跡には比較的大店の警察モデル建築が存在していたようです。 

 いろは通り北側墨田3丁目にも住居に改修された往時の警察モデル店が散見され、私娼街玉の井には形態の異なる2つの商売が存在した事になり、色々とユニークな街でしたが、併せて34年間と極端に短い期間でした。

 大正末期の東京市外映画館のリストで向島玉の井館をみつけますが、この映画館が昭和11年頃は寄席に転向していた事が”寺じまの記”で確認できた。 その後は再び映画館となった事が、「滝田ゆう」の作品”昭和夢草紙”ちくま文庫に。

 大正下期から《玉の井館(活動)》→玉の井館(寄席)→玉の井文映(活動)→現在はスーパー(グルメシティー)と変化、更に創業以来の同一建物の盥回しである。

 当然外装はその都度改装しているでしょうが、今のスーパーの裏側に周ると、”あっと驚く”…屋根の切り妻がRの付いた”むくり屋根”が露出し、かなり古い様式の建物と判明、その大きさも正に昔の活動写真小屋の形態をしており、最初の玉の井館(活動小屋)が関東大震災後の大正13・4年に新築されたと考えると、荷風が最初に玉の井を訪れたのが昭和7年日乗(荷風の日記)と記されており、建築後僅かな時間で建物を壊したのではなく、活動小屋を改装して寄席として転用した。

 “濹東綺譚”の街玉の井を、そわそわと探訪する方も多いのではないか。残念な事にその醸し出す雰囲気、匂いなど全く感じられない町に、往年の玉の井私娼街は1部に始まり5部まであったそうですが、1部とお雪の居た2部が中心的な場所で、特に1部と2部の変化は、木で鼻をくくった様な住宅が昔のままの迷路に雑然と密集するばかりで、人影すらまばらです。

 
終戦後の玉の井は焼け残った地域に移り(焼失前の位置は寺島町5丁目、6丁目、現在の東向島5丁目、6丁目の一部。戦災後の位置は寺島町7丁目、現在の墨田3丁目の一部)、営業が続けられた。場所が移ったこと等から戦後の玉の井を新玉の井という場合もある。銘酒屋街は警察の指導により、「カフーェ」風の店に改めさせられ、いわゆる赤線地帯となった。

 売春防止法施行後は、この地区に娼家はなくなり、ほとんどは商店や住宅が建ち並び、一部に町工場のある東京の普通の下町となった。多少、飲み屋やバーがある程度で、吉原のように歓楽街にはならなかった。

 だが、赤線廃止後何年かは、娼家はなくなったのにもかかわらずまだ営業している店があると思い込み、この街を訪ねてくる男たちが絶えなかった。

 昭和20年の空襲で焼失したこの街で商売をしていた人たちは浮き草の如く場所を求め、仕事を求め去っていった。
また、一部の店は1キロほど離れた場所に作られた「鳩の街」に移転した。

 焼跡に残った迷路とドブの地に住居を求めた新住民達が新たな東向島5丁目を構成し、現在の東向島5丁目は昔から迷路で構成された、「抜けられます」の街で、住民の大半は”玉の井”時代との接点がほぼ無い人々の住居であり、さらに敗戦後70年近くを経過している事実から、珠玉の文芸作品“濹東綺譚”や“寺じまの記”、滝田ゆうの“寺島町奇譚” “昭和夢草紙”などから自分のイメージが出来ていれば、かなりエキサイティングですが単なる散策の方には趣向の乏しい街。

 反面“玉の井いろは通り”北側の墨田3丁目、旧赤線地帯は空襲の焼け残りの街でもあり、戦前の東京下町のはずれの生活地帯が存在して、結構若い方々でも珍しい迷路散策が出来る。

 昭和20年の敗戦迄の公娼、遊郭で接客した女達を娼妓、女郎、おいらん、など江戸以来の呼び方でしたが、それでは私娼は何んと呼ばれたのか。江戸・明治の比丘尼宿は比丘尼で、夜鷹とか姫君など街娼の類になると、戦後は”タチンボ”、夜の女、ストリートガール、パンパン、街娼、その他娼婦、売春婦、淫売婦などはっきり区別のつかない多様な呼び方が地方によっても色々あった。

 玉の井の業界では窓口に座る娼婦を出方と呼んだそうで、ここの街独特な主人出方と呼ばれる経営者兼娼婦と効率的な形や、事情絡みで元陸軍将校夫人、大学教授夫人とか鶴が降り立った様に参入して人気を集め、一転娼家経営者に変身する話とか、十二階下の辣腕娼婦が経営者で成功し一躍玉の井のお大尽と呼ばれて大邸宅を構えたエピソードなどがあったり、女性の多様性が遊郭(公娼)と違う人気を集めたともいわれる。

 ユニークなメイシ屋街として玉の井が耳目を集めた要因はこの街のシステムです。

 営業許可区域の娼家の小窓は家主の権利に属し娼家経営者はそれを借りて1〜2名の娼妓を置き利益を得る。誰でも参入出来る反面、主人出方などと高率性や多様性も要求された結果、客にとっては歓迎すべき面白い街になったのでしょう。

 昭和4・50年代の新宿ゴールデン街が物書きから文化人、映画、マスコミの人士が顔を見せたように戦前の玉の井は、その先鞭をつけた存在だった。