東武博物館








 東向島4丁目29番7号にある東武スカイツリーライン(旧東武伊勢崎線)の停車場。明治35年4月1日の吾妻橋(現・とうきょうスカイツリー駅)〜北千住間開業にできた駅。当初の駅名は「白鬚」といい、明治38年7月16日休止、明治41年4月4日廃止。大正13年10月1日「玉の井駅」として再開。
 昭和20年5月20日アメリカ軍の非人道的無差別空爆により駅舎が壊滅的な被害にあい業務休止。 昭和24年10月1日復活再開。昭和62年12月21日に現在名になった。
 玉の井から東向島への改称は、東武博物館を建てるにあたり、売春窟玉の井の淫靡なイメージを払拭するために、住民の猛烈なる大反対を押し切って、会社側の功利的な判断だけで、無味乾燥な東向島を採用した。
 だから現在でも駅名表や駅入口の看板には「旧玉の井」と記さざる得ない。旧駅名をこのようにアピールしている駅は全国的にも珍しい。ホームは高架相対式2面2線構造。改札口・出口は1ヵ所のみで地上1階にある。
 明治32(1899)年に開業した東武鉄道の歴史と現在を紹介する博物館です。蒸気機関車や、木造電車、特急電車、バスなど、これまでに活躍してきた実物車両の展示をはじめ、模型電車が走るパノラマ、運転体験ができるシミュレーションなどがあり、本物の機器を動かせる体験型の博物館です。平成元(1989)年5月20日に東武鉄道の創立90周年記念事業の1つとして東武鉄道伊勢崎線東向島駅高架下に創設された。
 東武鉄道は英国のベヤーピーコック社から蒸気機関車を輸入して営業を開始しました。 当初、旅客・貨物輸送の両方で活躍していた蒸気機関車は、その後は主に貨物輸送を担い、昭和41年(1966)に全廃されました。展示の5号蒸気機関車は、開業のため明治31年(1898)に輸入された12両のうちの1両で、均整のとれた優美な形体は旧英国式と呼ばれていました。後ろに連結しているのはテンダー車(炭水車)、弁装置はスチーブンソン式で、同社の蒸気機関車は当時一流品として有名でした。ランニングボードや均整のとれた美しい車体、真ちゅう製の金色の蒸気ドーム、第一動輪のスプラッシャー(はねよけ)に付けられた弓形の銘板が特徴です。東武鉄道のルーツとなるこの蒸気機関車は、開業時の姿に復元されています。
 東武鉄道は、明治32年(1899)に現在の伊勢崎線「北千住〜久喜」駅間で開業した。その後、東上鉄道(東上本線)と対等合併した他に、戦時中の陸上交通事業調整法で総武鉄道(野田線)や下野電気鉄道(鬼怒川線)等を合併し、現在の路線になる経緯があった。
東京都・埼玉県・千葉県・栃木県・群馬県の1都4県に、総営業キロ数は、463.3kmです。
これはJR各社を除いた日本の鉄道で、近畿日本鉄道(508.2km)に次ぐ全国第2位の路線距離を保有、
関東地方で最長の鉄道会社で、1962年に伊勢崎線で営団地下鉄日比谷線と相互直通運転を開始し、さらに、1987年に東上線で営団地下鉄有楽町線と相互直通運転を開始し、2003年に伊勢崎線で営団地下鉄半蔵門線・東急田園都市線と相互直通運転を開始した。
 2006年には日光線とJR東日本宇都宮線の接続駅である栗橋駅に連絡線を設け「JR東日本新宿〜東武日光・鬼怒川温泉」駅間を結ぶ3種類の特急列車の直通運転が開始され、2008年には東上本線で東京地下鉄副都心線と相互直通運転を開始した。
 伊勢崎線と東上線は、別々の鉄道会社からの合併で、両路線の線路は繋がっていない。しかし車両は同じ形式を使っている。転配回送をするのでしょうか?。

 それは秩父鉄道を経由して行われ、秩父鉄道「羽生〜寄居」駅間を経由して新造車両の搬入及び車両検査、転配回送が行われる。秩父鉄道は、羽生駅に東武伊勢崎線、寄居駅に東武東上線との連絡線を持っている。また、東武鉄道とJR東日本は、寄居駅の出改札業務を秩父鉄道に委託している。
 製造された車両は、工場専用線を通じて山陽本線下松駅から東海道本線、高崎線を経て熊谷貨物ターミナル駅までJR貨物が甲種列車輸送を行い、ここからで秩父鉄道三ヶ尻線に乗入れ、武川駅まで貨物専用線で行き秩父鉄道本線に入りる。

「武川〜寄居」駅間の本線を走行し、寄居駅構内で東武鉄道への転線作業を行い、東武東上線寄居駅で 保護カバーが外されパンタグラフが上がり、初めて自力走行で森林公園駅に近接する森林公園検修区
(車両基地) まで回送する。
 東武伊勢崎線の場合は、熊谷貨物ターミナル駅まで同じ経路で、貨物線を経て武川駅から羽生駅まで秩父鉄道本線を走行し、羽生駅構内で東武伊勢崎線に入線し、自力走行で南栗橋駅に近接する南栗橋車両管区まで回送される。
 東武日光線・JR宇都宮線「栗橋」駅にJR東日本の線路と東武鉄道の線路を結ぶ栗橋連絡線が設置されている。2006年3月18日より「JR新宿〜東武日光・鬼怒川温泉」駅間で東武特急列車「スペーシア」とJR特急列車「日光・きぬがわ」」を相互直通運転する事になった為に、栗橋駅舎と連絡線が新造し、JR東日本では新宿駅と東武日光駅・鬼怒川温泉駅を結ぶ特急列車の直通運転を2006年春に開始。

 
連絡線は、両社の土地の境界線付近に設置されて東武の側線跡の土地も利用され、連絡線の途中には、両社の乗務員が交代するデッキ及び乗務員詰所が設置されている。
 JRと東武を直通する特急は、当駅で乗客の乗降扱いはないので旅客用ホームはない。両社連絡線設置に伴い、長さ80メートルのデッドセクション(死電区間)が設置された。
 この直通運転では,両社の連絡駅である栗橋駅構内に接続線を新設して、JR宇都宮線と東武日光線を直通化することで、東京西部地区の交通の要衝である新宿と、世界遺産の社寺や日本有数の温泉地を有する日光・鬼怒川地区を最短経路で直結するものである。
 JR東北本線「東京〜黒磯」駅間と東武日光線はいずれも直流1,500ボルトの電化路線ですが、双方の電源の混触を防ぐ為にある。万一、列車がデッセクション内に停止した場合は、東武側からの加圧で列車を動かす事が出来るそうです。

 東武鉄道の新造車両搬入は、栗橋連絡線を使用せず、JR熊谷貨物ターミナル駅から秩父鉄道線を使用しています。

 東武博物館は、東武鉄道から東武博物館の管理・運営を受託しているほか、交通道徳の啓蒙活動や少年野球大会など、青少年の健全な育成に資する事業、文化振興事業などの事業活動をしています
 
なお、平成24年4月1日に、財団法人 東武鉄道共助会から名称を移行いたしました。一般財団法人 東武博物館は、公益法人制度の改革により、東武博物館は、交通文化の普及と交通道徳の昂揚を目指すとともに、交通産業に関する資料を収集し、広く後世に伝えるほか、東武鉄道沿線のスポーツ・文化の振興による地域の発展と鉄道バス利用者の安全・福祉の増進を図ります。


◎館内施設


ドイツの鉄道模型ジオラマ
ミュージアムショップ
博物館ギャラリー
博物館ホール
お子さま用トイレ・多機能トイレ・授乳室
休憩コーナー


◎山梨の記念館

 近代日本を代表する事業家で、「鉄道王」と呼ばれた初代根津嘉一郎(1860〜1940)。彼を顕彰する「根津記念館」(山梨市正徳寺)は、旧根津邸を修復・復元。昭和初期の和風建築や日本庭園が、落ち着いたたたずまいを見せる。嘉一郎は教育振興など慈善事業に力を注いでおり、同館の展示はそんな功績にも光を当てている。
 旧根津邸は敷地6700平方メートル。東京に出た嘉一郎は、この邸宅を故郷・山梨での迎賓館として使った。2003年に根津家から山梨市に寄付され、08年10月、記念館としてオープンした。
 正面の国登録有形文化財「長屋門」をくぐると、まず見えるのが同じく有形文化財の「旧主屋」だ。1933(昭和8)年の完成で、木造2階建て。ボイラーや屋内消火栓、壁への電気配線埋め込みなど、当時の先端技術を採り入れている。
 「嘉一郎の進取の精神が、表れています」と山梨市教委の大野慶人さん(26)。おいの啓吉に対し、家の造りを事細かに指示する手紙が残っている。多くの資産家が風水に凝って家屋を建てたというが、嘉一郎は違った。風通しの良い造りにしたほか、天井のすりガラスから自然光を採り入れるなど、あくまで使い勝手を重視したという。
 主屋に向かって右隣には、建設当時の図面から復元した「青山荘」が続く。「青山」の名は、古美術品や茶の湯を愛した嘉一郎の雅号から。和室や茶室「燕子花(カキツバタ)」などを再現。一般利用を受け付け、お茶会や百人一首のイベント、会議などに使われている。
 
青山荘の西側には庭園が広がり、まず目に入るのが「大磯の松」だ。幅7、8メートルはありそうな枝ぶり。主屋の完成のころ、神奈川・大磯にあった別荘から移植した。見渡すと、はるか先には借景の富士山。山梨県ならではの景観を生かし、賓客をもてなそうという配慮がうかがえる。
 嘉一郎は、篤志家としても知られる。旧制武蔵高等学校の設立、地元の平等(ひらしな)尋常高等小学校(現山梨小学校)の校舎建設、県内各小学校にピアノなど教材を寄贈、笛吹川への根津橋架橋……と限りない。
 開館と同時に建てられた展示棟「八蔵」は、パネルや資料で生涯をたどる。贈ったピアノの実物も置いており、それら慈善活動について紹介する。1919(大正8)年の啓吉宛ての手紙では、社会貢献についての考えを述べている。「人間ただ生まれて食って死ぬだけでは鳥虫と同じ。私は、何か社会のために尽くして生涯を終えることこそ第一と信じている」
 大野さんは「ここは四季折々の風情が感じられるところ。移りゆく季節を楽しみながら、山梨が生んだ偉大な人物に触れてほしい」。(岩城興)

     ◇

 午前9時半〜午後4時半。月曜休館。同館(0553・21・8250)。

     ◇

 〈根津嘉一郎〉 山梨市(当時、正徳寺村)生まれ。投機家の若尾逸平や雨宮敬次郎らと「甲州財閥」をなし、同館によると判明分だけでも136社に投資・経営参加。電力、金融・保険、紡績など多岐の業種に渡った。
 特に鉄道経営では東武鉄道の再建や国内初の地下鉄開通に携わり、「鉄道王」と呼ばれた。東京・青山の旧私邸は現在、自ら集めた古美術品7400点を基礎にした「根津美術館」となっている。