銘酒屋
(めいしや)









 幕末から明治中期に浅草、芝、両国などにおいて、矢場(楊弓店)で接客した矢場女(矢取り女)が売春も行い私娼窟と化した。

それらの矢場が廃れた明治20年頃から、銘酒の酌売を看板にして5、6本のびんを縁起棚に飾り、その裏では数名の私娼を抱える店が流行しはじめた。明治25・26年頃から銘酒屋と書いた軒燈を掲げるようになった。

日清戦争後から日露戦争の頃にかけて、浅草公園五区、六区、千束町に発展し、明治末から大正初期がその全盛期であった。 大正年間、官の黙許のもとに公然と営業した。大正6、7年、一時、警視庁の撲滅方針によってほとんど撲滅されたかにみえたが、まもなく看板をはずして営業し、また表向きは造花屋、新聞縦覧所として営業し、客があれば他に案内して売春するなどして大正10年頃再び隆盛をみた。

関東大震災後、浅草地区での警視庁の取締りの強化のため、本拠は亀戸、玉の井に移った。

 玉の井の銘酒屋は、間口の狭い木造2階の長屋建で、それぞれの店には女性を1〜2人程度置いていた。1階には狭い通りに面して小窓が作られ、ここから店の女が顔を覗かせて客の男を呼んだ。女性が接客する部屋は2階にある。区画整理のできていない水田を埋め立てて作った土地のため、あぜ道の名残の細い路地が何本も、密集した銘酒屋街の中を縦横に入り組んで通っていた。また、その地質のせいで、雨が降ると相当ぬかるんだ。

路地の入り口には、あちこちに「ぬけられます」あるいは「近道」などと書いた看板が立っており、この街を荷風はラビラント(迷宮)と呼んだ。

この土地の遊興費は、荷風によれば平均的な店で1時間3円、「一寸の間」(ちょんの間)で1円から2円程度とのことである。また、銘酒屋は外からみるとあまりきれいではないが、中へ入ると「案外清潔だった」という(断腸亭日乗・昭和11年5月16日)。

 所轄の寺島警察署の統計によれば、昭和8年(1933)には、この街にあった銘酒屋の数は497軒、そこで働いていた女性の数は1,000人いたという。だが、実際にはこれよりもずっと多かったという説もある。

 銘酒屋という店はあ、名前からして銘酒を飲ませる店だと勘違いするかもしれない。生業は私娼だ。永井荷風の「墨東綺譚」によく出てくる。樋口一葉の「にごりえ」も銘酒屋が舞台だった。「銘酒屋」がなくなったのは赤線・青線ができてからだろう。赤線が公娼で青線が私娼だった。これも1958年になくなった。

 その代りトルコができた。トルコとは「トルコ風呂」のことでオスマン帝国の時代女性だけが集まる風呂屋があった。その名称を許可なくいただいたわけだからずいぶんトルコ人には迷惑な話だ。「泡風呂屋」とでもしたほうがよかった。トルコという名称が出てくる前に「**温泉」という言い方がなされていたが本当の温泉から抗議が殺到したのだろう。要するに表看板が酒から風呂に代わっただけだ。

 さて、銘酒屋とはつまりは表向き銘酒を飲ませるかのように装いつつ裏口や二階に案内し男女の営みをさせる商売だった。これは東京じゅうにあったが関東大震災でほとんどが潰れた。区画整理が行われ新しくそういう店が入っていい場所ができた。それが向島や亀戸だった。永井荷風がせっせと通ったのが、この向島の玉の井というところだった。今では玉の井という地名はない。

 こういう新しくできた一角を新開地と呼んだ。関西のほうでは新地という。そして同じく新しくできた街路を新道といった。新開地は三業地でもあった。三業地の三業とは、芸者置屋・待合・料理屋の三業がセットになっている土地のことだ。向島にもそういうものはできただろうが、玉の井はランクがもうひとつも二つも下だった。

 荷風は浅草の踊り子の楽屋に入りびたったり玉の井の銘酒屋にもぐりこんだりするのが日課だった。「墨東綺譚」などに出てくる玉の井の銘酒屋は、お歯黒どぶといわれた真黒になった汚水が流れる下水溝があり、夏になるとその臭気がたちのぼり、蚊柱が唸りながら竜巻のように通り過ぎる、そんな場所にあった。

 何でそんなところに好んでいくのか?彼がスケベジジイだったわけでも性欲のかたまりだったわけでもない。そういう場所に身を落とした女性たちと話をしたり彼女らの生態を眺めたりするのが好きだっただけだ。変人と言えば変人だった。哀しい生活の中にこそある真実を見ようとしたのだろう。といっても、スケベなこともちょっとぐらいやっただろうと私は思っている。というのもこの「先生」は女の子にたいへんもてた。

 樋口一葉の「にごりえ」に出てくる世界も同じようなものだろう。この作品にも銘酒屋が出てくる。「菊の井」という銘酒屋の「お力」ちゃんという女性が主人公だ。ほかに源七というむかしのわけありの男と新しい常連の結城朝之助という男が登場するが、いろいろあったはてにお力と源七は無理心中してしまう。

 これを書いたのが23歳の年でその翌年には亡くなるのだから一葉という女性はたいへんな人だ。小説の出だしはお力が客の呼び込みをやる場面だが、その観察と筆力は大したものだと読むたびに思う。彼女が荷風みたいに銘酒屋に入りびたったわけはない。ただ福山町(今の西片)に転居したとき近くに銘酒屋があったようだ。この土地も新開地でその前は白山下まで一面の水田だったらしい。新開地の住居は家賃が安かったのだろう。そこで銘酒屋ではたらく貧しい女性の境遇をよく観察したのだろう。

 古い小説などには銘酒屋がよく出てくる。戦後、銘酒屋はなくなった。それに代わって赤線という言葉が出てきた。これでは味もそっけもない。