更正小学校

八広5−12−15
開校 昭和 9年 5月 1日
閉校 平成15年 3月31日

(更正小学校、第五吾嬬小学校、木下川小学校)
統合により八広小学校となる
校地面積10,222u



 







 校歌

勝 承夫 作詞/団 伊玖磨 作曲

1清い川風 吹けよ吹け
 花に柳に 希望の窓に
 われら更正 なかよくつよく
 あすの日本の 若鳥の
 そだつ 飛びたつ 楽しい母校
 
2行けよ荒川 元気よく
 広い世界の 岸辺にとどけ
 のびる更正 夢大らかに
 いつも変わらず たゆみなく
 はげむ 校風 われらの誇り
 
3揃う緑の 芦の芽に
 負けずもえたつ 自立の力
 意気の更正 墨田のほまれ
 あすの平和を この肩に
 栄の 歴史を 守ろうわれら   
 


           
             


曳舟川

 更正小学校の横を曳舟川通りがあるが、もともとは、ここを曳舟川が本所上水として利用されていた時期がありました。

 曳舟川は、江戸時代の一時期に本所・深川の市街地に飲料水を供給していた本所上水(小梅上水・亀有上水・白堀上水の異称あり)の跡で、上水が廃止されてからは曳舟堀とも古上水ともいわれていた。

 この上水の創設年代は明確ではないが、明歴3年(1657)の大火(いわゆる振袖火事)後、幕府の隅田川東岸の開発と武家屋敷の移転計画によって、本所地域が市街化されてからのことで「御府内上水在絶略記」には万治2年(1659)とある。
 しかし、第1次の開発は十分な成果を上げることが出来ないまま天和2年(1682)の大水で中絶し、武家屋敷や町屋なども一時撤退したので、この上水もまたその必要性を失って廃止されてしまった。

 その後、復活の機運が高まり、元禄元年(1688)に再び開発に着手すると共に上水も修理を加え再開した。以後本所上水は広く住民の利用に供せられ、「とい」や「橋」の修理はしばしば行われた。「御府内上水在絶略記」に「元禄年中本所開発のみぎりまた始まり、亀有より本所法恩寺橋まで白堀にて懸かる、南北本所一円に懸渡す。樋筋2邁間(約36キロメートル)余という」とある。

 本所上水の水源は埼玉郡の瓦曽根溜井(現在の越谷市内)で文政11年(1828)の「町方書上」にも「古上水川、幅5間、右古上水は、邁治寛文之頃、埼玉郡八条領瓦曽根溜井より分水に相成」と記され、給水地域は「武蔵通志」に「小梅村ヨリ大横川ノ東ニ沿ヒ法恩寺前ニ至リ、陰樋ヲ通シ、北本所南本所高橋万年橋辺リ、飲用水トナス」と記されている。

 しかし、本所上水は、本所奉行が廃止され、町奉行の所管となった3年後の享保7年(1722)9月5日、他の千川、青山、三田上水と同様に廃止された。給水が偏っていたからとも、8代将軍吉宗が室鳩巣(むろきゅうそう=儒学者)の迷信的献言を取り上げたからとも言われている。

 大岡越前守の書付によると、水量が少なくなると塩気が出てくるので、堀り井戸や池水を開いて使ったなどと書いてある。いずれにしてもその頃から水舟や水伝馬といわれる船を使い、水を売買していた業者があったことからも、水質の悪かったことや、給水が思うようにいかなかったことをうかがい知ることができる。

 廃止後の本所上水は、業平橋以南が埋め立てられ、小梅村から亀有村(葛飾区亀有)に至るおよそ7・4キロメートル(68町)は奥州方面へ通じる通船運河として改修され、篠原村2艘、四つ木村3艘、亀有村7艘、都合12艘のサッパコと称する田舟同様の小型舟が用意された。

 これは往来の旅人を乗せ、肩に綱を付けて岸から引いた客船であって
《曳舟》の名称もこれから出たものである。

 曳舟川の沿岸の道路は古くは右岸(西側)だけで、これが左岸にも設けられたのは後のことである。サッパコの料金は、時代によってまちまちであったが、文化14年(1817)当時はひとり24文とされ、陸上交通の不便な江戸時代には、簡便な交通機間として想像以上に利用されていたようである。

明治となって四つ木の素法家吉野某なるもの花菖蒲を栽培して堀切の小高園とその絢を競ったが、東京の風流人士がこの曳舟に乗って鑑賞に行く花時は6月初旬から引きもきらず舟中には筵(むしろ)をっ敷き煙草盆を置いて四方の景色を眺めながら曳かれ行く様はこの時代の呑気な世相がうかがわれた。
                                       鈴木君太郎「曳舟川の今昔」
 

 明治も中頃なると人力車も横行し、曳舟の姿も何時しか消えてしまった。明治末期相次ぐ風水害は荒川放水路の開削となり、曳舟は四つ木で分断された。さらに震災を契機としてその下流一帯は工場が立ち並び、人家も密集して、曳舟川も悪臭と蚊・ハエの発生源となりはてた。
 

円通寺といふ、その古い寺のある請地町は、向島の私たちのうちからさう離れてもいないし、それにそこいらの場末の町々は、私の小さいときからいろいろと馴染みのあるところなので、一度ぐらゐはさういふところも妻に見せておかうと思って、寺まで曳舟通りを歩いて行って見ることにした。私たちのうちを出て、源森川に添ってしばらく往くと、やがて曳舟通りに出る。それからその堀割に添ひながら北に向ふと、庚申塚橋とか、小梅橋とか七本松橋とか、さういふなつかしい名まヘをもった木の橋がいくつも私たちの目のまへに現れは消える。ここいらも震災後、まるっきり変わってしまったけれども、またいつのまにか以前のやうに、右岸には大きな工場が建ち並び、左岸には低い汚い小家がぎっしりと詰まって、相対しながら掘割を挟んでゐるのだった。くさい濁った水のいろも、昔のままといへば昔のままだった。
                                 堀辰雄「花を持ってる女」昭和17年8月
 

 戦後、暗きょ化が計画され、川幅5.5メートル、両岸の道路各6メートルも、昭和29年以来地か排水工事が行われ、いまは両側にプラタナスが植えこまれた幅員18メートルの立派な舗装道路となっている。
 また、水戸街道の交通難をやわらげるため、四つ木橋に並行した新四つ木橋の建設が、昭和43年から進められ、昭和48年完成。「曳舟川通り」は荒川を横切って再び葛飾区と結ぶ、重要な交通路として生まれ変わった。
 

片恋

北原白秋 作

あかしやの金と赤とがちるぞえな 
     かはたれの秋の光にちるぞえな
片恋の薄着のねるのわがうれひ
     曳舟の水のほとりをゆくころを
やわらかな君が吐息のちるぞえな
     あかしやの金と赤とがちるぞえな