木下川小学校

東墨田 2−15−13
開校 昭和11年11月 6日
閉校 平成15年 3月31日

(木下川小学校、第五吾嬬小学校、更正小学校)
統合により八広小学校となる
校地面積 6,281u



 




通学区域

八広4丁目48番〜51番
八広6丁目53番〜59番
東墨田1丁目 全域へ
東墨田2丁目 全域へ
東墨田3丁目 全域へ                                 
                       吾嬬第2中学校へ
 





下川小学校校歌
木下川小学校校歌選定委員会作詞作曲

昭和35年5月27日)

1 墨田の東煙立ち
  栄ゆる町に映えて見ゆ
  ああ豊かなり木下川校
  若き希望は虹こえて
  はるけき空にひろがりぬ
 
2 武蔵野下る荒川と
  流れをきそい雄々しくも
  ああ盛んなり木下川校
  心まことに身をきたえ
  豊かに実る日を待たん
 
3 若木の風もさわやかに
  なびく校旗もへんぼんと
  ああ清新の木下川校
  幸と平和を守りぬき
  わがまなびやを花とせん
 




               

         


木下川

 ここは、「木毛河」(きげがわ)とか「木毛川」と呼ばれていました。今のように「木下川」と呼ばれるようになったのは、土地の人が「木毛河」を「きねがわ」と読み違えたのが、そのまま「木下川」になってしまったという話や、また、あるお百姓さんが、米を作るのに使う大事な杵を、みんながからかって「きね川」というようになったという話もありますが、どちらもはっきりしたことは分かっていません。

 木下川は、昔は上木下川と下木下川の2つの村に分かれていました。1398年(応永5年)頃の書物には、もう「上木毛河」」「下木毛河」の文字が出ていますから、その頃からかも知れません。上木下川村は、だいたい今の京成荒川駅の周りから、荒川の向こう岸辺りまでの所で、下木下川村は、今の東墨田1・2・3丁目になっている辺りです。

 そのころ、この辺りは、木下川村大荒田といわれていました。明治になってから、今度は新しく南葛飾郡に入れられて、東京府南葛飾郡大木村となり、そして更に1914年(大正3年)には、大木村から向島吾嬬町というふうに名前が代わりました。今のように東墨田になったのは、1966年(昭和41年)からです。

 墨田区は、海にも近くて土地も低くて、昔から大雨が降ると川の堤防が壊れて、たびたび、大水に見舞われました。吾嬬町はもちろん大水が出ると田んぼや畑が流されて、時には家まで水に浸かってしまい、みんなとても困りました。なかでも1910年(明治43年)の大水は大変なもので、墨田区中が海のように水浸しになってしまいました。

 そこで、こういう大水を防ぐために、放水路を作る計画が立てられました。もう一つ新しい川を作り水を海に流しこもうということです。初めはこの計画に大事な田んぼや畑なくなってしまうという事で反対する人達もいましたが、次第に早く放水路を作らなければ、また、大水が出ることになるので、東京府では、早速農民から土地を買いうけて工事に取り掛かりました。
 荒川放水路は、1913年(大正2年)から工事を始めて、今の北区の岩淵という所から海までの24キロメートルという長い距離でした。

 その頃は、今のようにブルドーザーもなければ、パワーショベルもありませんでした。みんなシャベルや鍬を使って手で掘っていたので、掘った土はトロッコに積んで運んだり、モッコで担いで運んでいました。そのため全部掘り終わるのに18年もかかりました。

 この工事がすっかり完成して、初めて水が通るようになったのは、1930年(昭和5年)の事でした。荒川放水路が出来てからは、大水の心配だけはなくなりましたが、幅400メートルの土地が水没しました。荒川放水路が出来てから木下川の様子は大変変わりました。

 大水の心配だけはなくなりましたが、そのかわり、そこにあった田んぼや畑は川の底に沈んでしまいました。放水路の幅400メートルもありますから、木下川の面積は、前の半分くらいに減ってしまったのです。そして今までそこに住んでいた人たちも、今の木下川と、川向こうの本田村(今の葛飾区木根川町)の方へ移っていきましたが、そのまま他所へ移っていった人も少なくありませんでした。

 昔から上木下川村にあった有名な薬師さま(浄光寺)も、その時川向うに移されました。今、向こう岸の木根川の土手下にある薬師幼稚園の隣りに建っているお寺がそうです。また元からここに住んでいた人たちの中にも、放水路が出来たために、自分の土地が少なくなってしまった人も沢山いました。

 このように、耕す土地が狭くなったので、木下川の人達は農業だけでは暮らして行けなくなりました。そこで、米や野菜を作りながら、他の仕事をする家が段々増えてきました。財布の口金、こうもり傘の骨や石づき、ハトメ、おもちゃ、石鹸箱などが、その主な副業(内職)でしたが、その内にこういう仕事だけを専門にする人も出てきました。

 昔は、こういう仕事を飾りやさんといっていました。そのころ飾り屋をやっている家は、この辺から小村井辺りに、かけて500軒ほどありましたが、その中でも木下川が1番多かったようです。

 農家の副業は、このほかに、お盆の時に使う仏壇のよしずや、供え物、お正月のしめ飾り、浅草のホウズキ市に出すほうずきや花などを作ったりしている人もいました

 また、そのころ木下川には友禅染といって、着物にするきれを色々な柄に染める工場が3軒程ありました。染め粉を使って染めたきれは、その後綺麗な水で洗わなければなりませんが、近くに中川があったので、きれを洗うのには都合が良かったのです。そのころ中川の水は、覗けば顔が写るほど綺麗に澄んで、魚も一杯泳いでいました。

 家で副業をしないで、友禅工場に勤めている人もいましたが、近くに資生堂、花王、ミヨシ、ライオンなどの、大きな石鹸工場が出来たので、そこに働きに通う人たちも、だんだん増えてきました。そしてそれにつれて農業を続けて行く人の数は次第に減って行きました。こうして木下川は年々静かな農村から町の姿に変わっていったのです。

 この木下川に、革をナメス工場(皮革業)が出来たのは1883年(明治16年)ごろで、今から100年以上前からのことです。それまで皮は、ずっと浅草の方でナメしていましたが、人がだんだん多く住むようになると、町の中では皮の匂いや、汚れた水などの始末に困って、仕事がやりにくくなって来ました。

 そこで東京府では、東京の外れにあって、まだそれほど家の建て込んでいない木下川や、三河島の方に皮革業を移すことにしたのです。東京府はその時皮革業者に「斃獣許可証」(へいじゅうきょかしょう)というのを渡しました。これは皮革業をやってもよいという「証明書」で、これがないと木下川や三河島では、皮革業は出来ないことになったのです。

 皮革業の人たちは、おもに浅草の今戸町や新谷町からここに移されてきました。また、それから少し経って埼玉県や滋賀県の方からここにきて皮工場を始める人もいました。でも、皮工場も初めは、今の東墨田1・2丁目に5・6軒ぐらいしかありませんでした。

 皮の使い道は、1872年(明治5年)に軍隊が出来てから急に増えてきました。とくに兵隊の靴や、背のう、バンド、馬の鞍などに皮がどうしても必要になってきたのです。人々の暮らしも変わってきました。今まではみんな着物を着て、下駄を履いていましたが、洋服がだんだん流行ってきて、下駄の代わりに皮の靴を履くようになりました。そのうちに皮はカバンや、ハンドバッグ、ランドセル、手袋のようなものまで使われるようになりました。

 こうして、しなやかで、長持ちする皮は、みんなに重宝がられて、人間の生活になくてはならないものになっていったのです。

 明治の末頃になると、明治皮革株式会社という大きな工場も建てられるようになり、皮工場の数は30軒ぐらいに増えてきました。皮工場は、ほとんど今の東墨田1・2丁目に集まって仕事をしていましたが、初めは今のようにドラム(たいこ)もなければ、バンドマシン(皮の厚みを決める機械)もありません。樽の中に皮をつけて、それを足で踏んでいたので、1枚の皮を仕上げるのに40日もかかりました。今は4・5日ぐらいで仕上がりますから、今の10倍近くかかっていたわけです。

 「樽につけた皮は、下駄を履いて踏むんですが、冬なんか冷たくて、足が凍ってしまいそうでしたよ。それを考えると、今の皮造りなんか楽でウソみたいですよ」。
 これは、あるお婆さんの話ですが、朝は5時頃に起きて、夕方7時頃まで、樽の中に足を突っ込んで皮を踏んでいたということです。

 皮のなめしは、初めは牛がほとんどでしたが、明治の末ごろになると、ブタの皮もなめすようになりました。そのあいだに、日本と清国(今の中国)、日本とロシアと戦争があったので、皮が沢山必要になって、牛の皮だけでは、間に合わなくなってきたのです。
 そしてこの頃から、皮工場の設備もだんだんよくなってきました。大正3・4頃には、樽の変わりにモーターで動くドラムも使われるようになリました。そのため、なめす皮の数も、前よりずっと増えて、町も活気付いてきました。

 皮工場の数は、その後も増え続けて、第1次世界大戦の終わった1922年(大正6年)頃には60軒近くになりました。皮工場の数が多くなると、それと一緒に、皮を染める工場や、皮から出る油で石鹸や、にかわ、ラード、豚の毛で刷毛を作る工場なども次々に増えてきました。こうして木下川は、皮の町として全国に知られるようになりました。

 でも、その頃の木下川には、まだ周りに田んぼや畑や蓮田が沢山あったので、静でのんびりしていました。夏には蛙が鳴き、蛍が飛び、秋になると、田んぼの上に赤とんぼが群れていました。建物も、今みたいに建て込んでいなかったので、荒川放水路の土手に登ると、浅草の観音様が手に取るように見え、晴れた日には富士山もくっきりと、よく見えたということです。空気も澄んでいました。

 今木下川小学校のある所には、そのころ大日本人造肥料会社という大きな工場がありました。また学校の裏門の脇には、中川に通じている幅2メートルくらいの堀がありました。掘りはこの外に、正門を出た2つ目の広い道路の所にもありました。これは中井(居)堀といって、綾瀬川と曳舟川から水を引いていました。
 昔は今のように自動車がなかったので、米や肥料のような重いものは、これらの堀を使って舟で運んでいたのです。

 「わしらの子供の頃は、堀には綺麗な水が流れていたな、夏にはよく魚をとったり、水遊びをしたもんだよ。蛍なんかも歩きながら何匹も取れたもんさ」
 しかし、その中井(居)堀も周りに皮工場や家が建て込んでくるに連れて、だんだん汚れて、終いにはドブ貯めのようになって仕舞いました

 そして、それからも長い間そのままになっていましたが、1954年(昭和29年)の春になってやっと土管を通して道路の下に埋められました。今バスが通っている道路がそうです。1923年(大正12年)の9月1日正午前、関東大地震が起りました。震度6という大変大きな地震でした。そのため東京では沢山の家がつぶれたり、焼かれたりして、約6万人の人達が死亡するという大被害を受けました。

 この辺りでは、さいわい屋根のかわらが落ちた程度で、たいした被害はありませんでしたが、荒川の土手には、浅草の方から逃げてきた人たちでいっぱいでした。

 「朝鮮人殺害事件」が起きたのはこの時の事です。どこからか、(朝鮮人が町に火をつけた)とか、(井戸に毒を投げ込んだ)とかいうデマが広まって大騒ぎになり、あちこちで罪のない朝鮮人達が、惨い目に遭わされました。四つ木橋の所でもそういう事があって、朝鮮の人が何人か殺されたということです。

 関東大地震から8年経って、日本は隣りの中国と戦争を始めました。この戦争は日本が勝手に中国に攻め込んで行ったのです。そして、中国の人達をとても酷い目にあわわせました。
 1931年(昭和6年)の事です。

 日本は、それから15年も戦争を続けて行くわけですが、戦争が激しくなると、若い男たちは、次々に戦地に連れて行かれました。そして弾に当たって死んだり、傷ついたりする人の数も急に。多くなっていきました。

 木下川小学校は、そういう戦争の最中に建てられました。1936年(昭和11年)の春から工事にかかり、翌年の4月1日から授業を始めました。木造2階建てで、教室の数は、特別教室を入れて24、学童の数は1,062名でした。

 木下川の町の人たちは、ここに学校を作るために、色々と骨をおりましたが、そのお陰で教室の設備もよく整っていて立派なものでした。特に、理科の実験器具などは、新しいものが揃っていて、他所の学校から羨ましがられるほどでした。

 ずっと昔は、木下川の子供たちは、今の東墨田3丁目にある万福寺で勉強していました。お寺でお坊さんに字や計算を教わっていたので、寺子屋といっていましたが、明治になってから、今度は京成八広駅の近くのお風呂屋さんを教室に直して、そこで勉強するようになりました。ここは「木毛川学校」と呼ばれ、生徒の数は30名ぐらいでした。

 木毛川学校は、後に今の八広3丁目の正覚寺にあった学校と一緒になって「大木尋常小学校」という名前に変わり「木毛川学校は」大木尋常小学校の分教場になりました。

 大木尋常小学校は、それから25年ぐらい続いていましたが、1913年(大正2年)に廃校になって、代わりに新しく第3吾嬬小学校が建てられました。木下川村を始め、木ノ下、大畑村など周りの4つの村の子供たちは、初めてここで、一緒に勉強が出来るようになったのです。

 しかし、1927年(昭和2年)になって、近くに第5吾嬬小学校が出来たので、木下川の子供たちは、今度はそこに移り、10年程第5吾嬬小学校で勉強していたのです。それだけに、この木下川に新しい学校が出来上がった時には、アーチを建て、花火を上げて、町中でお祝いして喜び合いました。

 その時の名前は「東京市向島木下川尋常小学校」と付けられました。この名前は校舎が出来上がった年の1936年(昭和11年)11月6日に決まったので、今でもこの日を「開校記念日」としています。

 中国との戦争をはじめて11年目になると、日本は、今度はアメリカを相手に戦争を始め、1941年(昭和16年)12月8日のことで、この時から世界中が戦争に巻き込まれてしまいました。これを「第2次世界大戦」といい、日本は、はじめは勝っているようにみえましたが、本当は半年ばかりで、それからは優勢なアメリカ連合軍に次第に押されてきました。また、国民も中国との長い戦争に疲れ、戦闘が激しくなると、配給制が導入され食べ物だけでなく、着るもの、運動靴などのも、ほとんど「切符制」になり、ノートや鉛筆なども自由に買うことが出来なくなってしまいました。

 アメリカ軍の飛行機が飛んできて、時々飛来して爆弾を落とし、初めのうちは沖縄、九州の方が主でしたが、サイパン島が占領されると、間もなく、東京をはじめ日本の大きな町は爆撃される心配が出てきました。

 爆弾を落とされて一番危ないのは子供達で、落ち着いて勉強も出来ないし、イザという時、大人のように思うように逃げる事も出来から政府の命令で、子供達は爆撃の心配のない田舎に移る事になりました。これが俗にいう「学童集団疎開」という。また、これとは、別に「縁故疎開」といって、田舎の親戚、親類、知り合いの家に預けられる子供達も大勢いました。
 第5吾嬬小学校でも1944年(昭和19年)8月に3年生以上の248名の学童が、先生達に引率されて茨城県の笠間という町に疎開しました。そして10ヶ月ほどで、当地も危ないという事で秋田県の矢島という所へ再移動しました。

 子供達は、そこで旅館の部屋やお寺を本堂を借りて、畳の上で勉強をしていましたが、いくら先生と一緒でも、両親のそばにいるような訳にはいきません。
 その上、食べ物も大変少なくて、みんな毎日お腹を空かせていました。「僕らはなるべく動かないようにじっとしていた、動くとそれだけ腹が減るから」、おまけに、衛生状態が悪いからシラミやノミがわいて大変だった。

 子供達は、生れて初めて親のそばを離れて、寂しくて、みんな家に帰りたくて、夜になると両親家族の事を思い出して、ふとんをかぶって「そっと」泣いているこもいました。

 1944年(昭和19年)秋になると心配していたように、アメリカ軍のB29という大きな飛行機が爆弾や焼夷弾を一杯積んで、日本の上空に飛んでくるようになりました。そして、東京をはじめ大都市の町々が次々に焼かれていきました。そのため、逃げ遅れて焼け死んだ人も沢山いました。そのなかでも、あくる年の3月10日の大空襲は、それこそ、地獄のような激しさでした。

 この夜は、B29が一度に150機もが襲ってきました。東京の下町は、たった3時間足らずのうちに全滅してしまいました。燃え上がる火は一晩中空を赤く焦がして、その火は遠く千葉県や埼玉県や茨城県の方まではっきりと見えたということです。人々はその火の中を着のみ着のままで逃げて行きましたが、逃げ遅れて焼け死んだ人も沢山いました。その晩は下町だけでも8万人近い人達が焼け死にました。隅田川には、そういう可愛そうな人達が、折り重なるようになって、いっぱい浮いて流れていたということです。

 木下川小学校も、この夜の空襲で、とうとう焼けてしまいました。まだ、建てて8年しか経ていない校舎でしたが、たちまちの内に灰になってしまいました。

 もちろん学校だけではありませんでした。木下川の町も、今の東墨田3丁目辺りの家がほんの少し残っただけで、後は全部焼けてしまいました。皮の町はこうして灰の町になってしまったのです。でも、ここは近くに荒川の土手があって、みんなそこに逃げる事が出来たので、幸い、ほとんどの人が助かりました。焼け出された後、町の人たちは、戦争が終わるまで、バラックを建てて、ここに住んでいましたが、親戚や知り合いを頼って、田舎の方へ移っていった人たちもかなりいました。

 中国との戦争が始まった頃には、木下川の皮工場の数は91軒に増えていました。大正の末頃から、昭和の初めにかけて急に増えてきたわけです。皮は戦争で必要だったので、幾らなめしても足りないくらいでした。この頃が皮工場の1番景気のいいころだったようです。

 しかし、その景気も長続きはしませんでした。戦争が長引くにつれて、原皮が、だんだん少なくなってきたからです。原皮は朝鮮からも取り寄せていましたが、それも殆ど入って来なくなりました。
 そして、1942年(昭和17年)の春頃から統制になり、そのあくる年の10月には「企業整備」という命令が出されて、91軒の皮工場は「江東皮革工業組合」という、ひとつの会社にまとめられました。こうなっては、もう自由に皮をなめす事は出来ません。それに組合に配給になる原皮の数も極く僅かでした。そのため多くの皮工場では仕事が出来なくなってしまいました。

 また、そこで働いていた人たちも、別の働き口を探して工場を去っていきました。もちろん油脂や石鹸工場なども原料がなくなって、仕事を休むようになりました。こうして木下川の町が再び立ち直るためには、戦争が終わるのをじっと待っていなければなりませんでした。

 何時まで続くかと思われていた長い戦争も、やがて終わる時がきました。1945年(昭和20年)6月には沖縄が全滅し、それから2ヶ月後の8月6日広島に、9日には長崎に恐ろしい原子爆弾が落とされました。この爆弾で広島だけでも一度に15万人以上の人が死にました。

 この時になって、日本はようやく戦争に負けた事を認め、8月15日、中国、アメリカ、イギリスなどの連合軍に「無条件降伏」をしました。

 そして、9月2日に東京湾でその調印式が行われ、日本はその日からアメリカ軍をはじめ連合軍に占領されたのです。また、それと一緒に日本の軍隊は解散され、兵隊達は武器を破棄し、各自の家に帰っていきました。こうして1931年(昭和6年)から15年も続いていた戦争もやっと終わって、平和が戻ってきましたが、この15年の間に戦争で亡くなった人の数は310万人にものぼりました。そのほかには、小学生や、それよりもっと、小さい子供達も、沢山含まれていました。戦争が終わると、町の人達はホットしました。もう恐ろしい空襲の不安もなければ、他所へ逃げて行く事もありません。みんなは平和のありがたさを、しみじみと噛みしめました。

 秋田県に疎開していた子供達も、その年の10月の末にせんせいにと一緒に帰ってきました。やっと両親のそばに帰ってこられたのですから、みんなとても大喜びでした。いままで、子供達のいない寂しかった町にも、急に賑やかな声が響き渡りました。

 木下川小学校が焼けてしまった後、田舎に行かずに残っていた1・2年生の学童たちは、第3寺島小学校の教室の一部を借りて、勉強していましたが、秋田から戻った学童達も、他に教室の空いている学校がなかったので、第3寺島小学校のお世話になっていました。

 そして、その間に焼け跡にバラックの校舎が建てられて、あくる年の3学期(昭和21年1月)から、ここで勉強が出来るようになたのです。雨が降ると、天井から雨が漏って来るような平屋建の粗末なバラックでした。

 教室も6つしかなかったので、「2部授業」が低学年と高学年が、1日おきに午前と午後に分かれて、交代で勉強していました。

 教科書も天皇の事や戦争のことが書いてあるところは教えてはいけないという命令が出て、墨で塗りつぶしてしまったりしたので、満足に揃っていませんでした。

 食べ物も戦争中から足りなくなっていましたが、その頃から取り分け酷くなりました。お米はタマにしか配給にならないので、その間みんなカボチャやサツマイモばかり食べていました。中にはトウモロコシの粉や牛の餌にするフスマや荒川の土手の草の根をカジッタリしなければなりませんでした。もちろんそんな物ばかり食べていたのでは体がもたないので、町の人達は、時々、田舎の農家に着物や洋服を持っていって、米や芋と交換したりして、やっと飢えを凌いでいました。子供の好きなお菓子もなかなか手に入りません。ましてや進駐軍がカジッテいたチョコレートなどは高嶺の花だった。また、たまに配給になる米も、玄米といって、籾殻をむいただけのものだったので、何処の家でも、それを1升ビンに入れて、糠が出るまで棒で何度も突いて食べました。

 学校給食が始まったのは、1947年(昭和22年)1月からで、そのころは、粉ミルクが一週間に2度か3度くらいでしたが、その内に時々簡単なオカズも出るようになりました。食べられる物が乏しい時だったので、学校給食は学童達に喜ばれました。今のような完全給食が行われるようになったのは、東京都では1950年(昭和25年)9月からの事です。

 木下川小学校のバラック校舎は、2年後には4つの教室を増やし、それから3年後にまた4教室を作ったので、やっと不便な2部授業もなくなりました。

 そして、それから1年置きぐらいにバラック校舎を壊していって、1956年(昭和31年)には2階建ての校舎に建て直されました。なお、ここに今のような鉄筋校舎が完成したのは、焼け跡にバラックを建ててから22年目の1967年(昭和44年)3月の事です。

 終戦のあくる年になると、皮工場の数は、もう30軒ぐらいに増えてきました。兵隊で戦地へ行っていた人たちが引揚げて来たり、工場を止めて、一時田舎の方にいっていた人たちが戻ってきたからです。また、新しく他所から来て皮革業を始める人もいました。皮工場が仕事をはじめ出すと、油脂の工場も豚や牛の油で石鹸を作り始めました。物がなかったので、石鹸はどんな物でも、作る傍から高い値段で飛ぶように売れました。

 皮工場は、その後も年毎に増えて、1950年(昭和25年)には50軒を越えるようになりました。そして、この年に、朝鮮戦争が起りました。皮工場は、この戦争のお陰で、また急に景気がよくなりました。石鹸と同じ様に皮もなめす傍から、羽が生えたように売れました。

 こうして、朝鮮戦争を境にして、皮工場の数はまた増えて、それから4・5年後には100軒近くになりました。そして、その2・3年前辺りから、それまで皮工場は1軒もなかった東墨田3丁目の方にも、皮工場がどんどん建つようになりました。戦争中から続いていた皮の統制も、1949年(昭和24年)に廃止されて、皮をなめす事も自由になりました。

 戦争になって皮のなめし方も大分変わってきました。なめしには、今までは主にタンニン(柏の木の皮を細かくしたものに含まれている薬)を使っていましたが、1960年(昭和25年)頃からクロームという薬品を使うようになりました。タンニンは、匂いが強いようですがクロームの方は余り匂いがないし、なめす日にちもずっと短くて住むのです。でもタンニンでなめした方が、皮の艶や持ちがいいといって、今もタンニンを使っている工場もあります。

 工場の設備の方もこの頃からシェービングマシン(皮を削る機械)とか、アイロンプレスとか、いろいろ新しい機械が入れられて、仕上げる枚数も今までに比べてぐんと伸びてきました。

 でも、戦争が終わってから10年くらいの間は、木下川は、まだドブや下水のみぞが、昔のままだったので、皮の血や、タンニン、石灰で汚れた水などが、時々道路まで溢れていました。道路は舗装されていなかったのです。だから、雨が降ると道は沼のようにヌカッテ、長靴でも履かないと通れないほどでした。学童達は、遊んでいてよくドブに落っこちたり、登校する時滑って転んで泥だらけになったりして、泣いて来る子もいました。

 荒川の土手も、今のようにコンクリートではなく、草が一杯生えていました。春になると、つくしや、すみれ、タンポポなどが咲いて、子供たちのいい遊び場でした。学校でも理科の時間には、時々土手に行って、草の種類を調べたり、虫を取ったりしました。

 またその頃は、皮工場には乾燥機が備えつけてなかったので、皮は板に張って土手に干していたのです。天気のいい日には、そんな皮張りの板が陽光を浴びて土手一杯に並べられていました。

 しかし、町の道路も1960年(昭和35年)頃から次第に舗装されて、今ではすっかり綺麗になりました。下水道も出来上がって、道が汚れる事もなくなりました。

 皮工場は、大変水を使う仕事です。水がないと皮をなめす事が出来ないので、今までは、どの皮工場でも水道の他に井戸を掘って間に合わせていました。しかし、長い間地下水を汲み上げて来た為に、この辺の土地が、だんだん低くなってくる事が分かったので、1960年(昭和35年)になって、新しく工業用水が引かれ、水の心配もようやくなくなりました。

 1976年(昭和47年)の木下川には、95軒の皮工場があります。なお、皮につながりのあるものとして、原皮の問屋、油脂、石鹸、計量、乾燥、染色などの工場が35軒ぐらいあるので、それらを合わすと工場の数は130軒になります。

 原皮は、牛と馬は、その70%をアメリカやカナダから羊の皮はオーストラリアから輸入しています。原皮は、塩漬けにされて船で運ばれてきます。ただ、豚の原皮だけは、全部、日本で取れたもので賄われています。

 これらの原皮を元にして、現在木下川でなめされる豚の皮は1ヶ月に約45万〜50万枚、1年にすると、600万枚ぐらいにもなります。ただ、牛は1ヶ月に3万枚ほどで、豚の数に比べてずっと少なくなっています。このように豚と牛を合わせりと、その数は日本でなめされる皮のおよそ75%に当たります。中でも豚が1番で、全国の95%が、この木下川で、なめされています。

 なめして仕上げた牛や豚の皮は、浅草の皮革問屋に運ばれて、それからランドセルや鞄や靴などに加工されました。

 豚皮は、その内の約80%が韓国、香港、カナダ、フランス、オーストラリアなぢの国々に輸出されています。

 また、牛や豚の皮や骨からは、石鹸の材料の他にラードやゼラチン(ゼリー・アイスクリーム・キャラメルなどに使われる)や肥料にする骨粉や工業用の骨油などが作られています。

 木下川の町には、皮や皮につながりのある工場のほかに、メッキ、溶接、金属プレス、おもちゃ、プラスチック金属加工などの小さな工場が一杯あります。皮工場を合わせるとその数は200軒余りになるでしょう。そして、どの工場も毎日人々の暮らしに必要ものを一生懸命作っているのです。どんな小さな仕事でも人々の暮らしに役立っているのです。例えば木下川の主な産業である皮について考えて見ましょう。

 皮は今の人間の生活になくてはならない大事なものです。もしかりに皮工場が皮をなめす事を止めてしまったらどういう事になるでしょう。人々は靴を履く事も、バンドを締めることも出来なくなって、たちまち困ってしまいます。皮屋さんは汚れの激しい大変な仕事ですが、木下川では、毎日そういう大事な皮をなめしているのです。

 木下川の町は、小さな工場がちょうど積み木を並べたようにびっしり建っているために、道路も狭いし、緑もほとんどありません。また、町の中に、普通なら何処にでもある病院、クスリや、風呂や、食堂、床屋さんなどは1軒もありません。他所の町に比べて不便な事がいろいろあります。いままで、見てきたように、木下川は昔に比べて随分変わってきました。そして、これからも様々に変わっていくと思いますが、皮造りの町として、どうすればいいか?もっと明るく住みよい町になるか?皆さんも知恵を絞って、これから、いろいろ考えて見てください。

 
私達の町はそこに住んでいる私達の力でよくして行かなければならないのです。 


旧中川

 旧中川の始まりは荒川放水路と分水される木下川水門だ。その荒川放水路に沿って2回ほど大きく抱こうし、途中で隅田川に合流する北十間川、竪川、小名木川と出合い、終わりは工事中の小名木川水門でふたたび荒川放水路と合流する。全長6・68km。残念なのは、自然の川のように流れていないことだ。

 橋は上流から「ゆりのき橋」「中平井橋」「平井橋」「江東新橋」(蔵前橋通り)、JR総武線鉄橋「ふれあい橋」(人道専用)、逆井橋(首都高速7号線)「中川新橋」「もみじ橋」(人道専用)「さくら橋」(人道専用)「船堀橋」(新大橋通り)、都営新宿線東大島駅(河川上の駅の大1号)「中川大橋」「平成橋」の13橋。

 左岸はすべて江戸川区で、右岸は上流から江東新橋上流の竪川までが墨田区、それから下流は小名木川水門まで江東区となっている。散歩が出来る親水護岸造りが進んでおり、総武線の上流では上流から中平井橋下流のライオン東京工場辺りまでは完成している。

 不思議なことに、その下流から総武線までの未着工部分に「カワウ」や「野ガモ」が群れており、両岸をよく見ると「アシ」や「カヤ」が自然の姿で残っている。

 水質は上流部分(水門〜ゆりのき橋)の白老化を除けば透明度50センチほどの全河川できれいな水をたたえている。魚影も多く、ボラの稚魚やハゼが釣り人を楽しませている。流れがないため、川底がどんな具合か気になるが、ちょっと昔を思えば贅沢はいえない。河川管理の関係者の話では、小名木川閘門(こうもん)が完成すれば定期的に荒川放水路の水を流入して浄化する予定なので、それまで待つしかないだろう。

 荒川放水路に分断される以前、遠く江戸期には広重の名所江戸百景「逆井の渡し」や江戸名所図絵の「平井聖天」(燈明寺)、新編武藏風土記稿の「逆井渡船場図」などで、風雅な川であったことが証明されている。えんがんの史跡にその名残があり、訪れるとなるほどと思わせる。川辺の散歩に併せて訪れる事をお勧めしたい。川は黙って流れ、澱んでいるが、長い歴史に耐えているだけに教わる事が多い。閉塞感に満ちた現代には、川と対話する事は無駄なことではないだろう。