吾嬬立花中学校
開   校:平成26年4月1日
校章制定:平成26年4月1日
校歌制定:平成26年4月1日

校地面積:7927u

 


◎計画の性格

(1)この計画は、吾嬬第1中学校と立花中学校を対象として策定する。
(2)この計画は、当該統合の実施における基本的な方向と具体的な
方策を示すものである。
(3)この計画は、平成20年3月に策定された「新たな墨田区立学校の
適正配置等実施計画」に基づき、実施するものである。

 吾嬬第1中学校の生徒数は昭和37年をピークに減少してきた。平
成16〜18年は各学年1学級まで減少したが、その後全学年4〜5学
級程度で推移している。
 立花中学校は、平成20年に全学年で5学級に減少したが、その後
増加に転じている。
 









通学区域
文花2丁目1〜10番、20番
文花3丁目21〜24番
立花1丁目全域
立花2丁目全域
立花3丁目全域
立花4丁目全域
立花5丁目全域
立花6丁目全域
東墨田1丁目1〜2番、3番1〜3号、4〜9番
 
◎統合新校の位置

 統合新校の位置は、現立花中学校の位置とする。ただし、
区実施計画上、現吾嬬第1中学校の位置に
統合新校の校舎を改築するための
基本設計を平成26年度から
行うこととしている。





校歌

     







教育目標
 






地域環境・景観

◎立花1〜3丁目

サンタウン立花や立花通り商店街、東あづま本通り商店街など地域の生活拠点としての役割を担う東あずま駅の周辺では、近隣型の商業機能の充実を誘導する。

河川や線路に囲まれて行き止まり道路などが多いことから、木造住宅の密集する地域では、建物の不燃化・耐震化及び建替えに合わせた道路の拡幅を推進し、防災性の向上を図る。

学校の統廃合が予定されていた立花小学校については、平成20年4月1日第1吾嬬小学校と合併し、当校に立花吾嬬の森小学校と新校が発足した。立花小学校跡には、有料の老人ホーム清風園が開設された
立花4〜5(一部))6丁目

特に防災面で不安を抱える地域であることから、建物の不燃化・耐震化及び建替えに合わせた道路の拡幅を推進し、防災性の向上を図る。

工場の建替えや跡地開発にあたっては、周辺との共同化や敷地での緑化、沿道の壁面後退その他の誘導を行い、周辺の街並みや住環境との調和を図り、適切な土地利用を推進する。

生活利便施設や福祉施設の立地する平井街道沿道では、沿道敷地での壁面後退や駐車場等必要施設の整備により、利用者の利便性向上を図る。

大正民家園や白髭神社など地域内の歴史資源と旧中川とのアクセスの向上をめざす。

 旧中川の整備が進められており、水質の浄化とに水辺やその他の自然環境に身近に触れることのできる貴重な場となっている。また、荒川や北十間川などの河川や比較的規模の大きな公園が地域内には多く、自然環境に恵まれた地域です。
 現在、荒川では沿川の環境整備とあわせて、スーパー堤防の整備が進められており、河川敷へのアクセスの向上についても検討していく必要がある
 工業を主体とした土地利用が誘導されてきましたが、近年産業構造の変化などを背景に、地域内の工場の閉鎖が続いている。そのため、工場跡地の適正な土地利用、土壌汚染も大きな課題となっている。

 親水空間が整備された旧中川、今後のスーパー堤防の整備が期待される荒川、護岸等の改修が期待される北十間川などの自然資源のほか、清掃工場やその他の工場施設や公営住などの大規模施設が多く、ランドマークとなりうる場所が多い地域です。

 これらの地域固有の資源を活用した景観づくりを推進していくことが求められ、これまで工場誘致や公営住宅の建設など大きくまちの姿を変えてきたため、それ以前の歴史資源などが伝えにくい地域ですが、工場の建ち並んだ街並みや住民の思い出に残る団地内の空間など、今後開発や建替え等を契機とした景観づくりが求められる。







◎吾嬬の森碑

 この碑は、明和3年(1766)に儒学者山県大弐により建立されたと伝わります。「吾嬬の森」とは、吾嬬神社の代表的な呼び名で、江戸を代表する神社の森のひとつとして「葛西志」や「江戸名所図会」にも紹介されています。碑の内容は、地元に伝わる神社の来歴となっており、日本武尊の東征、尊の妃・弟橘媛の入水により海神の怒りを鎮めたこと、人々がこの神社の地を媛の墓所として伝承し、大切に残してきたことなどが刻まれています。「新編武蔵風土記稿」には、碑は神木の傍らに建てられていたと記されています。
 神木とは、墨田区登録文化財である「連理の樟」のことです。一つの根から二つの幹を見せる姿は、歌川広重の「江戸名所百景」にも描かれています。広重の作品「江戸名所道化盡・吾嬬の森梅見」で、中央にひときわ高くそびえるのが「連理の樟」です。
 明治43年(1910)の大水や関東大震災、東京大空襲などにより森は失われましたが、長く地域に根ざした伝承は、この碑を通じても垣間見ることができます。(墨田区教育委員会掲示より)


境内社福神稲荷神社について

福神稲荷神社は、吾嬬神社近く江東区側に鎮座していましたが、1922年に当地へ遷座したといいます。
福神稲荷神社
御祭神:宇賀之魂之命、大国主之命、金山彦之命
当社は元亀戸四丁目地蔵川岸のほとりに鎮座していましたが(1922)吾嬬神社旧社務所の位置に有縁の地とし御遷座もうしあげました。その後第二次世界大戦の災禍をうけ周囲家屋他草木に到る迄焼け尽きた中この社殿全く無被害の不思議な現象に奇跡なりと御神徳に人々は驚異の目を見張りました。吾嬬神社復興事業(1946)執行の折社殿を現在の場所へ再び御遷座申し上げ此処に吾嬬神社と共に庶民の守護神とて奉祭申し上げて居ります。尚この奇跡の社殿を出来る限り永く保存して次世代に伝え様と略して印す次第であります。(境内掲示より)





吾嬬製鋼所

1933年8月8日株式会社吾嬬製鋼所設立。 
1987年10月1日
 鋼管商事株式会社に合併。
 当社はトーア・スチール株式会社(昭和25年(1950)8月鋼管商事株式会社として設立、
昭和54年(1979)4月より営業停止、昭和62年(1987)5月社名変更)を形式的な存続会社  として、昭和62年(1987)10月に東伸製鋼株式会社及び株式会社吾嬬製鋼所を合併し新発  足いたした。
1987年5月 商号を鋼管商事株式会社から、トーア・スチール株式会社に変更
 
1987年10月東伸製鋼株式会社及び株式会社及び株式会社吾嬬製鋼所を合併、資本金57  億1,800万円
 
1987年11月 本店を東京都千代田区五番町に移転
 
1988年2月 株式を東京証券取引所及び大阪証券取引所市場第一部に上場
 
1995年1月 姫路製造所に新大形工場を新設
 
1996年3月 鹿島製造所完成、これに伴い、東京製造所を閉鎖
 
1997年3月 姫路製造所の大形工場を閉鎖
 
1998年9月3日 取締役会で会社解散(1999年3月末)、NKKグループへの営業譲渡を決議(負債総額:約2,500億円)トーア・スチール(株)(以下トーア)は、昨日取締役会を開催し、自力再建を断念、会社解散及び当社グループへの営業譲渡を決議致しました。当社はこれを受け、本日、当社グループ事業を再編する中で、トーアの事業を継承することを、取締役会において決議致しました。 トーアは1987年10月に当社の系列電炉メーカーであった旧東伸製鋼(株)と旧(株)吾嬬製鋼所の合併により発足し、その後業績を伸ばしたものの、バブル崩壊後の鋼材需給環境の悪化と鹿島製造所の稼動に伴う固定費の負担増により一転して厳しい収益状況となりました。 
 本年2月には財務体質改善のため第三者割当増資の引き受け要請があり、当社はこれを受け、その後同社の「収益改善計画」の実現に向け支援してまいりましたが、予想を超える経済環境の悪化の下、このたびのトーアの自力再建断念、解散の取締役会決議を受入れざるをえないと判断致しました。





◎東墨田

 東墨田地域には大きな運動公園など公共スペースや都営住宅、ゴルフ練習所などが存在しますが、実はタンナー(革なめし業)産業衰退の実証で大中企業の撤退跡地です。ここの典型的な下町路地は家業のタンニング(皮なめし)に必要な有機的構成のラインの役割を果たしている。
 明治初期に浅草地域などからの移住者により始まり、ここを核として大企業が集まり大規模な地場産業に成長した過程があり、戦後の景気の浮沈により大中の工場が廃業撤収して昔に戻り盛業時の1/10の規模です。
 それでも国内のピックスキン(豚革)生産の7,8割が東墨田地区なのです。聞いた時には“なに、それ”と矛盾を感じましたが、皮革の輸出入から地場産業の現状、高級ピックスキンは服飾用にフランス著名ブランドなどと取引する高度技術製品として世に出回っている。

 路地に面した狭い工場はそれぞれ開け放たれ、直径3・4mの木製ドラムが回転しているのが見える。 これは“と畜場”から来た生皮を処理して"鞣す最重要過程で薬品処理し水洗いされた皮を次の工程に運ぶ車から洩れる水なのです。
 移動する理由とは、皮鞣(かわなめし)業の行程を大別すると、鞣し→染色→絞り→張皮→皮漉き→計量などあり、各行程がそれぞれ独立専業化し密集した街が生産ラインとして機能し完成品に至るのです。ドラム(タイコ)が廻りアフリカ系の作業員が働き、部分的には昔日の光景が道路脇に存在する。 

 工場建物の屋上の乾燥場は技術革新なのか不明だが皮は見えない。路地歩きで得た知識はドラムの操業と処理した皮の積んである光景とタンニングの副産物油脂類の処理工場の操業です。この油脂工場はかなりの産業臭を発生して、企業の脆弱体質の改善策が必要なのかも、ところが、この業界は動物の骨、屑皮、生脂などを原量として生産物は精製油脂、コラーゲン、ゼラチンなどで石鹸原料や現代女性のお世話になる先端の化粧品、薬品の原料ですが、更にゼラチン、コラーゲンを必要とする関連食品を列記すると、アイスクリーム、ババロア、プリン、マシュマロ、ケーキ、生クリーム、シャーベット、ぜりー、ヨーグルト、キャラメル、あられ、柿の種、せんべい、ハム、ソーセージ、スープ、日本酒、ワインなどが東墨田地場産業のお世話になっている。なお、ゼラチン、コラーゲンは大企業ニッピ(旧日本皮革)などが精製、信頼できる原料として販売され、更に薬のカプセル、ハムソーセジのケーシングなどにも利用される生活密着型の原料です。
 東墨田の産業と私達の接点が分りますが、残念な社会問題が一つ存在するのです。特に江戸時代顕著であった身分差別の問題が、一部の人々に未だに尾を曳いて存在する事です。有名な長吏頭浅草弾左衛門(弾直樹)の特権事業として幕府に認められて来た皮革製造売買は明治の御一新で自由化され配下の従業者はそれぞれ独立、家業として浅草近辺で皮鞣業を始めた。だが政府の命令で明治25年(1892)木下川地区(東墨田)に強制移転させられ、現在の地場産業“皮鞣業”の核となり関西方面などからも事業者、人材が集まったのです。