墨田



 承和2年(855)の「太政官符」によると、住田河(隅田川)は河幅が広くて橋が造れないが交通が盛んになったので、今までの2艘に新たに2艘を加えた4艘の船を置くことを決めている。武蔵国は、はじめ東山道に属していたが陸路の発達にともない、宝亀2年(771)東海道に組み入れられ、併せて東海道の官路は従来の三浦半島から房総に渡る海路に替わり、相模・武蔵・下総と通じる陸路となった。墨田もその道すじに入ったのである。

 「
吾妻鏡」治承4年(1180)には、「今日、武衛(源頼朝)の御乳母故八田武者家経の息女・・・隅田の宿に参向す」とある。正福寺蔵、宝治2年(1248)の板碑をはじめ、多聞寺・隅田川神社等にも中世の板碑が保管されており、具体的な生活の古さを示している。

 墨田は、住田・隅田・角田・角太・須田・墨沱・洲田など色々な文字が使われているが、幸田露伴は「
望樹記」の中で「隅田川近くの須崎は洲崎であったに相違なく隅田は洲田であろうし、寺島は一寺夙く在った島形の所であろうし、潮入村の名が古を語り、水神祀所在地を浮島といい伝えているのも古を知らせている・・・・・」と述べ、その原意を洲田においている。隅田(洲田)のほとりを流れる川の故に隅田川と呼ばれるようになったものであろう。

 かっての利根本流は時代とともにその流れを変えたが、太田道灌が江戸城を築いた頃の利根川は、埼玉県吉川市で荒川(現在の元荒川)を併せて下流し、さらに隅田(洲田)のところで入間川(現、隅田川)を合流して隅田川となって、東京湾に注いでいた。このため、ひとたび豪雨にあえば下流の地域を洪水にした。

 天正18年(1590)家康が江戸に入ると早速治水工事にかかり、以後、数度の流路変更を重ねながら、次第に流れを東方に変え、銚子から太平洋に注ぐようにしたのである。一方、荒川も熊谷市ふ久下で入間川の支流吉野川に結ぶなど大幅に流路を変更した。しかし、それで洪水がとまったわけでなく、明治29、40、43年の大水は墨田区一帯を水びたしにした。

 そこで、隅田川上流の岩渕から葛西浦に至り、東京湾に注ぐ放水路(現、荒川)の開さくが計画され、明治44年から昭和5年までの満20年の歳月を経て完成した。それによって水害は免れえるようになったが、隅田村の大字若宮、大字隅田字三才のほぼ全域と大字善左衛門の一部は川底に没した。

 現在の墨田の町の地域は、北が綾瀬川、西が墨堤通り、南が大正通りからいろは通り、そして水戸街道、東が荒川に囲まれた範囲になっている。
 昭和40年3月の住居表示改正以前は、墨堤通りの西、隅田川に面する地域と大正通りなどよりもう少し北に境界があった。「すみだ」の名は早くから文献にもみえ、墨田区の発祥の地ともいえる。

 江戸時代のこの地域は、隅田村・善左衛門・若宮村・寺島村の一部にあたり、善左衛門村は江川善左衛門が開拓した新田で、その名をとっている。善左衛門の信仰した稲荷社が、放水路の開さくによって移転させられているが、現在も、隅田4丁目隅田(善左衛門)稲荷神社として残っており、万灯みこしが復活してにぎわいをみせている。この4丁目には、向島弘福寺旧地で高森山と呼ばれたところがあり、森田家の塀外に都内最古の不動像の庚申塔が残っている。

 若宮は、頼朝旗あげ八幡などのいいつたえを持つ若宮八幡社があったことから若宮村と呼ばれるようになったが、若宮全体が放水路に没したので、八幡社は隅田川神社(水神)に合祭された。明治11年南葛飾郡役所下に入り22年町村制の公布によって、若宮・善左衛門・隅田の3村が合併して隅田村となっている。当時の戸数は隅田が150戸ほど、善左衛門46戸、若宮28戸であった。

 農業と瓦・壁土の産出が主だった墨田も、明治20年に、現在は堤通に入るが鐘淵紡績会社が、29年には天野車両工場(後の日本車両製造株式会社)、33年に右川ゴムなどができるにおよび、急激に変化していった。戦後、それまでの位置よりもやや北の地域に移動した特飲街玉ノ井の家並も、窓やタイルにかっての面影を少し残すだけである。

 

 

鐘ヶ淵駅(明治35年)