文花



 吾嬬町西2・3・4丁目と吾嬬町東1・3・5丁目の地域が昭和41年5月の住居表示による変更によって、文花1・2・3丁目となった。
 文花の地域は、南側が北十間川に面して、明治通りと十間橋通りに囲まれた5角形を呈している。文花を名乗るようになったのは、「
この地域の中心に小学校、中学校、青年館、図書館など文教施設が集中し、他の地域に例を見ないところから(文)の字を冠し、旧町名由来の吾嬬神社の主祭神オトタチバナ姫の名から(花)を合わせ、文化の花を開くの意も含んで(文花)とした」といわれている。
 吾嬬町は、吾嬬村から大正元年町制となったものであるが、村は明治22年5月、請地村、小村井村、亀戸村吾嬬耕地等が合併して、東村の名も考えられたが吾嬬神社の吾嬬にあやかり誕生したものである。そして大正4年、かっての大畑村、木ノ下村、上木下川村、下木下川村が合併して大木村となっていた部分の大半が、吾嬬町に編入された。
 この文花のあたりは、文花1丁目の大部分が請地村の一番端の地域で、あとはほとんどが小村井村であった。当時の請地村は西に細長く、向島の秋葉神社のあたりまで拡がっていた。
 「
新編武蔵風土記稿」に「請地村は浮地なり。元大河に辺せし地なれば、浮地の義を以て村に名づけしを仮借して今の字を用ゆ。小名に沖田、1本木等の名残れり。沖田は蒼海の変より起り、1本木は船埋り帆柱の残りたり唱へ来ると言」とみえ、銅像堀のところから、十間橋の方へ流れていたかっての古川が、かっての葛西領の請地・押上・小村井・亀戸、平井・一之江、そして市川へと続く海岸線の一部であったと思われる。小村井の地名も古く、伊勢神宮に葛西氏から寄進された御厨に関する文書、応永5年(1398)の「葛西御厨注文」に記された38郷の内に含まれ、「小村江15町」とみえている。さらに永禄2年(1559)の「小田原衆所領役帳」にも「遠山丹波守葛西小村井六拾五貫文」などと記されている。
 小村井は、応永の「
葛西御厨」の中にもみられたように「小村江」と呼ばれたものと思られ、入江に面した小さな村という意味から、そう呼ばれたものであろう。
 文花の真ん中を中居堀が流れていたが、現在は暗渠となり中居堀通りとなっている。中居堀は、「瓦曽根溜井より分水し四つ木村までは古上水掘(後の曳舟川)の東に並びて引来り、同村内より次第に東の方に分かれ、渋江・木ノ下・大畑・請地・小村井、数村を歴、亀戸村の北にて北十間川に注ぐ。是は始まりより西葛西領本田筋村々の用水なり。堀巾2間ばかり、疎通の年月詳せず」と「
新編武蔵風土記稿」にみえている。古上水よりも後の江戸時代中頃に開さくされたものではなかろうか。
 明暦大火後の本所開拓の時に開さく整備された北十間川に注ぐ中居堀を少しあがった所に香取神社があるが、明治の初め頃までは目通り3bに及ぶ樟・松・杉などの大木がうっそうと繁っていたといわれている。その東側に名主小山孫左衛門の江東梅園(小村井梅園)もあった。更に、東武鉄道亀戸線の踏切を越えると、向島警察署があるが、ここは、かっての吾嬬町の役場のあったところである。昭和7年10月、吾嬬・寺島・隅田町が合併して向島区ができたので、そのあとを吾嬬警察署が使い、寺島警察署が戦災で焼け吾嬬警察署と合併して、向島警察署となっている。
 昭和5年11月に字名を廃止して、吾嬬町東・西と丁目制をとっている。
 げんざいの文花の地域の南半分は、戦後区営グラウンドになったりしたが、その後、曳舟中
学校、吾嬬第三中学校、西吾嬬小学校、あずま図書館、中小企業センター、あづまま百樹園、都営住宅団地、文花小学校などが建設されている。かっては「女工哀史」などにもみられる東京モスリン吾嬬工場があった。明治29年に設立され、明治31年7月現在の記録をみると紡績機16台、織機660台、手織機350台を備え、職工1285名(内、男165名、寄宿舎930)によって操業されていた。
 また、墨田区と石けんとのゆかりは深いが、ここには花王石けん東京工場がある。明治29年新宿から向島須崎町(現、向島5丁目)に工場を移して本格的な生産に入り、その後、請地に移り、大正11年現在の地に拡張移転したものである。福神橋畔に、大沢梅次郎銅像と吾嬬町道路整備記念の築道碑がある。