第1寺島小学校
(東向島 1−16− 2)
開校 明治12年10月12日
校地面積 6707u
昭和4年10月12日制定
校章は、第一寺島小学校創立50周年記念の際に、一般公募に入選したものです。
形は、隅田川に群れ遊ぶ都鳥『ゆりかもめ』が飛んでいる様子を表しています。
中央に『寺』の字が配され、まわりに4つのマで『4マ』=『シマ(島)』となり、
『寺』と合わせて『寺島』を図案化して います。
今から約66年前、第一寺島小学校の50周年記念の際、
一寺小、二寺小、三寺小の三校を合わせて寺島小学校と
考える地域の人々の意識の表れが出ています。
通学区域
堤通1丁目1番〜34番、7番1号〜7号、14号〜18号
押上2丁目30番〜34番1号、7号〜終号、35番、
36番1号、37番、38番
向島4丁目14番〜16番
向島5丁目48番〜50番
東向島1丁目全域(48番〜50番=言問小学校への変更可能)
東向島2丁目1番〜26番、33番〜37番
東向島3丁目1番、2番、22番〜37番 寺島中学校へ |
校歌 |
1・都の東昔より
月雪花に名も高き
墨田の堤見渡して
古き歴史も輝やかに
我が学び舎聳えたり |
2・紫雲たなびく紅葉山
千代田の森にほど近く
学びの道にいそしめる
吾等のさちを声高く
いざや歌はん諸共に |
3・日に新たなる力もて
きらめき昇る朝日子の
さとし忘れず励みなば
吾等の誉れいや高く
国の光なりぬべし |
4・隅田の流れ絶間なく
業をみがきて桜花
清き操を身にしめて
よく学びつヽよく遊べ
進みぞ行かん諸共に |
あゆみ
明治12.10.12 村立寺島小学校として創立、その後、小学校令改正により、寺島尋常小
学校と改称
〃 19.10 高等科を併置し、寺島尋常高等小学校と改称
〃 41. 4 尋常科6年生となる
大正11. 4.30 木造2階建(建坪140坪)落成
〃 13. 4.
1 第二寺島小学校の新設により学区変更し、第一寺島尋常高等小学校と
改称
〃 14. 7. 3 鉄筋コンクリート2階建(校舎建坪255.7坪)鉄骨綱板組立平屋(体育館
106坪)
昭和 3.12.31 第三寺島小学校の新設により学区域変更
〃 4.10.12 創立50周年式典を挙げる
〃 16. 4. 1 国民学校令の施行により、第一寺島国民学校と改称
〃 19. 8. 茨城県境町、岩井町、宍戸町の3町内の9ヶ寮に集団疎開(児童400
名、派遣教員14名)
ひさご亭、福島屋、橘屋、岡田屋、小林屋
〃 20. 5. 秋田県船越町天王村脇本村の3ヶ町村4ヶ寮に再疎開
(児童200名、派遣教員11名) 自性院他三寺
〃 20.10.22 集団疎開復帰
〃 22. 4. 1 学校教育法の施行により墨田区立第一寺島小学校と改称
〃 24.10.12 創立70周年記念式典を挙げる
〃 34.12.12 創立80周年記念式典を挙げる
〃 39. 7.25 学童用プール完成
〃 39. 9.18 創立85周年記念式典挙行
〃 43. 2.10 放送施設新設
〃 43. 3.10 鉄筋4階建新校舎第一期工事完成(職員室、普通教室6、水洗便所等
999.76u)
〃 44. 3.31 鉄筋4階建新校舎第二期工事完成(特別教室4、普通教室3、変電室(1
6u)、物置等1047.7u)
〃 44.10.12 90周年記念式典
〃 45. 7.21 体育館落成式
〃 46. 3.25 鉄筋4階校舎第三期工事完成
〃 47. 4.30 鉄筋4階校舎第四期工事完成
〃 47.10.19 校舎落成式
〃 54.10.12 創立100周年記念式典を挙げる
〃 55. 2 図書室・準備室・書庫改修新設(3階309.31u)
〃 61. 7〜 8 校舎内照明器具全面改修
〃 63. 8 体育館バスケットボード取付工事
平成 元.10.17 創立110周年記念式典を挙げる
〃 2〜 3 普通教室を和室に改修する工事
〃 4. 8 FF暖房取付工事(図工室、理科室、家庭科室)
〃 5.10 天水尊(雨水利用装置)
〃 7. 3 東向島児童館学童保育クラブ分室一時開設工事
〃 8. 9 防災備蓄倉庫設置
〃 9. 4 機械警備開始
〃 9. 8 東向島児童館学童保育クラブ分室撤収工事
〃 10. 2 コンピューター室設置工事
〃 12. 8 ランチルーム設置工事
〃 14. 2 転落防止用窓外手摺り取付工事 |
歴代校長
|
名前 |
就任 |
退任 |
初代 |
山下 信行 |
明治12年10月 |
明治14年11月 |
2 |
加村 米次郎 |
15年 7月 |
17年11月 |
3 |
上村 伯太郎 |
17年11月 |
20年 3月 |
4 |
小松 忠三 |
20年 3月 |
20年10月 |
5 |
近藤 孝道 |
20年10月 |
28年 4月 |
6 |
中山 喜之助 |
28年 4月 |
34年 9月 |
7 |
井上千代太郎 |
34年 9月 |
36年 2月 |
8 |
中山 喜之助 |
36年 9月 |
大正11年 8月 |
9 |
友納 友次郎 |
大正11年11月 |
14年 5月 |
10 |
東条 欣一 |
14年 5月 |
昭和 2年 3月 |
11 |
篠崎 勘助 |
昭和 2年 3月 |
20年10月 |
12 |
川田 末吉 |
20年10月 |
27年10月 |
13 |
織田 尚 |
27年10月 |
33年 4月 |
14 |
岡川 典治 |
33年 4月 |
39年 4月 |
15 |
池原 啓治 |
39年 4月 |
42年 4月 |
16 |
加藤 邦一 |
42年 4月 |
42年 5月 |
17 |
日向 吉弥 |
42年 5月 |
47年 3月 |
18 |
斎藤 誠治 |
47年 4月 |
50年 3月 |
19 |
菊地 滋 |
50年 4月 |
54年 3月 |
20 |
近野 兵次 |
54年 4月 |
|
加藤邦一氏は前校長(池原啓治氏、在職中死亡)の死亡校長職務代理 |
学校選択制度
区立小中学校への学校選択を予定している希望者は、
『希望選択票』の必要事項を記入し、自ら希望する学校へ
直接または郵送して申し込む(11月14日まで)。通学区
域内の小中学校への希望の場合は必要なし。
平成16年度 100名 |
寺島
江戸時代の寺島村は、現在の東向島の全域と、墨田、堤通、向島、八広、京島の一部にあたり、向島地区の大半を占めた村落でした。開発は古く、応永5年(1398)の史料にはすでに「寺島」の名が登場します。
村には蓮華寺や法泉寺、鎮守の白鬚神社などの寺社が建てられ、信仰の拠点として栄えました。寺島の名前の由来は、この「寺の島」からきていると伝えられています。文化元年(1804)には、佐原鞠塢が向島百花園を開き、すでに花見の名所としてにぎわっていた墨堤とともに観光スポットとなりました。
佐原鞠塢(さはらきくう)が開いた向島百花園(現・墨田区東向島)は、江戸後期を代表する名園の一つと言われています。その名が示す通り、百花園は、四季を通じて様々な花が咲き乱れる名所として知られ、江戸の人々の遊覧スポットとして有名でした。
また、それだけではなく、大田南畝(おおたなんぽ)や大窪詩仏(おおくぼしぶつ)等、江戸後期文化を担う文人墨客がここに集い、当時の最先端文化の発信源でした。
しかし百花園の文化は、佐原鞠塢等、文人達の独創的な力により、この地域に突如として芽生えたわけではありません。百花園だけでなく、隅田川東郊一帯は、文人達が集う数多くの名園が散在する、江戸郊外の緑園地帯とも言える地域だったのです。
「御成座敷」は、百花園創設当時、百花園に集うお客様のために、酒井抱一が設計したと言われています。座敷は、この地域で「水塚」といわれる、隅田川の洪水に対処するため、池を掘り、その土で塚(基壇)を築いたものの上に立てられています。
この建物は、11代将軍徳川家斉公がお成りになって以降、「御成座敷」とよばれ、多くの賓客をお迎えしました。その後、安政の大地震で倒壊して後、再建されましたが、この二代目の建物は東京大空襲で焼失し、昭和36年に集会施設として再建されました。さらに、この建物も傷みが激しくなったため、昭和61年に改築され現在の建物となっています。
また、当時の江戸に暮らす人々は、日常の憩いを求めて園芸に熱中していました。上は大名の庭園造りから下は庶民の鉢植え作りに至るまで、その熱狂ぶりはまさに現在のガーデニング・ブームの先駆けをなし、人々は鑑賞用の植物を求めて、競って郊外に繰り出しました。
すでに江戸に出荷する蔬菜(そさい)類の栽培で成功していた隅田川東郊の農民や町人達は、こうした需要に応じ、園芸植物を栽培する「植木屋」として発展し、やがて自らの所有地に開放庭園を整備し始めます。亀戸梅屋敷や堀切菖蒲園、本所四ツ目芍薬(しゃくやく)園(牡丹)園など隅田川東郊を代表する花園の成立は、こうした「植木屋」の発展と深く結びついています。
東向島は、昭和39〜40年(1964〜5)の町名改正以前には寺島と呼ばれていました。
地名の由来は、「蓮花寺の縁起に彼寺は鎌倉の執権武蔵守経時鎌倉郡佐介谷に建立したりしを、息頼助弘長元年ここに引移し自ら中興開山となれり、これ村名の起れる所なり、又法泉寺の伝によれば、此寺は葛西三郎清重が開基にして村内大抵かの寺の境内なりし故この村名あり」(「新編武蔵風土記稿」)と、いずれにしても寺の存在が村名につながったと考えられます。
すでに、応永5年(1398)の「葛西御厨田数注文写」にその名が見え、中世から村落が形成されていたことがうかがえます。近世以降は、葛飾郡西葛西領に属し、その多くが多賀氏の知行地であり、「元禄郷帳」によれば村高は621石余でした。多賀氏が絶えた後は、幕府領として幕末に至っています。
江戸時代以来の寺島村の生活文化を継承しているのが、現在東向島にお住まいの松本さんの家です。江戸時代の松本家は、新田開発を行い、米や野菜、はす栽培などの小作経営をしていました。このため、はす田に使われていた独特な農具が継承されています。明治以降には、貸家の経営も行う有力な地主として成長し、また村会議員をつとめるなど村の政治にも関わっていました。
江戸の台所を支える生鮮野菜の供給地としても、寺島村は有名でした。特に「なす」は「寺島なす」という特産品として、江戸市民に喜ばれていました。また、村民と文人墨客との交流も盛んでした。
これにより江戸の都市文化が村に流入し、特に芭蕉や其角の影響を受けた俳諧は、村民の間にも広く流行しました。こうして寺島村は、米作り中心のよくある農村には見られない、江戸の近郊農村とし独特の生活文化を形作り、明治以降に引き継がれて行きました。
この地一帯は、江戸近郊の名所として多くの人々でにぎわうとともに、消費都市江戸の台所をまかなう近郊農村として、生鮮野菜の供給地としても知られていました。享保期に著された「続江戸砂子温故名跡志」には「寺島茄子」の産地として、寺島村の名も紹介されています。
松本家は、村の信仰組織の中心的な存在でした。「講」という、宗教上同一の目的を持つ集団の代表世話人である「講元」をつとめていました。講の種類には、「念仏講」や伊勢参宮を信仰する「伊勢講」、成田不動尊の「成田講」、富士山信仰の「富士講」などがあります。
松本家には、講の道具や、関連文書が現在も数多く伝わっています。なかでも伊勢講に関わる、墨田区登録文化財「伊勢参宮致道中覚之帳」は幕末の庶民の伊勢参宮の旅の様子を伝える貴重な資料でもあります。
近代教育の推進にも携わり、松本家は、寺島小学校(現第一寺島小学校)の設立発起人として、寄付金を集め、開校後は校務委員をつとめていました。
明治に入って南葛飾郡寺島村および大木村・吾嬬村の大字となり、大字寺島の内に南・北居村、新田、水道向など12の小字に分かれていましたが、大正12年(1923)に寺島村・須崎村・中ノ郷村など7ケ村の一部を合併して、寺島町となり、昭和7年(1932)東京市の市域拡張により、向島区が成立しました。
まだ電気やガスはあまり普及しておらず、調理はカマド等で行い、熱源には薪や炭などが使われていました。また、水道もないため、水は外の井戸から汲んできて、台所に置かれた水瓶にためて使っていました。昭和の初期にもなると、都市部のガスの普及率はかなり高くなりますが、農村部にはあまり普及していませんでした。
今のように炊飯と保温ができる電気炊飯器がなかったころに使っていた道具です。真ん中に写っているのはご飯を炊くための「釜」で、カマドに乗せ、薪の火でご飯を炊きました。左側は炊き上がったご飯を入れておく「おひつ」という木製の器で、湿気を吸収するため、中に入れたご飯が水っぽくなりませんでした。
右側は炊いたご飯が冷めないようにするための道具です。ご飯の入ったおひつをこの中に入れ、すきまに毛布や布団などを詰めて、蓋をかぶせて、保温しました。今では電気炊飯器が1台あればすんでしまいますが、昔は今のように便利な道具がなかったかわりに、いろいろな道具を工夫しながら使っていました。昔の道具にはさまざまな知恵がつまっているのです。
昔は普通に使われていた道具でも、生活が便利になるにつれて使われずに、姿を消した道具はたくさんあります。特に「高度経済成長」といって、第二次世界大戦の後、日本の経済が急激に成長した時期があり、その前後では人々の生活も大きく様変りしていったのです。
近代の日本文学に偉大な足跡を残した文豪・幸田露伴は、慶応3年(1867)に下谷三牧橋横町で幕府の奥お坊主の家に生まれました。
露伴は幼いころから読書好きでしたが、本格的に小説家を志すきっかけとなったのは20歳のころに読んだ坪内逍遥の「小説神髄」です。これに深く感銘を受けた露伴は、その当時仕事で赴任していた北海道を脱出、宿へ泊まることができず、ろくに食べることもできない苦しい旅をしながら、文学への思いを胸に東京を目指しました。
この逃避行中に記した「突貫紀行」の中で「里遠し いざ露と寝ん 草枕」という句を詠んでいますが、露伴という雅号はこの句から生まれたと言われています。
作家としてスタートを切った露伴の処女作「露団々」は、尾崎紅葉から高い称賛を受けました。そして「五重塔」でその地位を確固たるものとしました。その後も露伴の活躍は小説だけに止まらず、歴史、漢文学、随筆、評論にもおよび、昭和12年(1937)にはその功績が認められ第1回文化勲章を受賞しました。
露伴がすみだに住み始めたのは、明治26年(1893)のことです。長兄・成忠の転居がきっかけで、墨田1丁目に入れ替わりで住みました。また明治30年(1897)には、「蝸牛庵」と称した家に移り住みました。これは身一つで簡単に移動できるカタツムリになぞられて露伴雅号はつけたものです。
この当時の隅田川は台風の頃になると決まって氾濫を起こしていたので、露伴の家もよく浸水していましたが、そんな自然の摂理さえ露伴は楽しみにしていたようです。 |
地蔵坂通り
地蔵坂通りといえば、隅田川の入江で白鬚の渡船場・お上がり場であった平作堀(又は鷭堀、現在の墨堤公園になっている)から水戸街道東向島3丁目交差点、又は曳舟川通りまでの道を指す。本来、この道は寺島の地を形作った海岸線であった。それだけに古い道で、この先は曳舟川を越え旧道たから通りとなり、香取神社を過ぎて中川に合流する土手道に沿い平井橋を渡り聖天様に至る。
更に、一方は行徳街道へ、他方は中川沿いの逆井道から帝釈様方面へ行く。(今は荒川放水路があり共に通行できない)逆井道の途中で下総街道(立石道)、佐倉街道と交差し、市川、千葉、佐倉へ、また葛飾新宿で陸前浜街道へも接続し松戸・水戸ヘも通じていた。
墨田区は北部の寺島・隅田の地から陸地化されてきているが、時代が経つにつれて隅田川の上流の利根川、荒川、入間川などが運んだ土砂が寺島の形作ったとき最初に出来た海岸線が地蔵坂通りになる。その後も堆積が進み銅像堀が次の海岸線となる。更に、その先に三角州が出きる。それが牛島である。隅田川はその後しばらくは牛島を起点にして二股に分かれて、一方は海(江戸湾)に、他方が亀戸方面へ行き北十間川から中川へ注ぐ形になる。従って、古代・中世の頃までは寺島と牛島の両島の間は川が流れていた。
やがて、浮島(請地)、汐の押上げ現象(風涛化現象)で押上という洲や島が各所に出来て徐々に陸地が増してくる。江戸時代に入ると、荒川の入間川筋への瀬替え、利根川を銚子へ流す東遷もあり、川も浅瀬になり、沼地も残る。寺島村新田や周辺にも新田が開拓造成されてくる。というような具合で海岸線である地蔵坂通りには小川と土手道が残される。銅像堀の入江は鳩の街通りと古川跡となった。牛島の海岸線側にも排水用の川と道が出来てくる。
「新編武蔵風土記稿巻之二十一」寺島村荒川の項に、「此川の間に御上がり場あり、此の邊御遊獵(狩りに出る)の時、御船より上がらせたまふ所なり、川に傍って汐除けつつみあり」とある。
今の平作堀のことである。明治20年9月版内務省地理局「葛飾郡」図には、御上がり場入り江の前に中州が見える。
ここで少し地蔵坂通りから逸れるが銅像堀から流れる古川に関する一つの発見があったので述べてみたい。「葛西志附圖・北十間川以北至古隅田川略圖」をみると、墨堤通りが長命寺の北・言問だんごのところで、右に入る隅田公園への道と、左斜めに下りる道とに分かれる。後者左斜めに下りる道は元銅像堀入江から流れる古川の分流が流れてその跡に出来た道であることがわかる。
また、「新編武蔵風土記稿巻之二十」では、北十間川は「昔は業平橋の北より横川の枝流となり、押上請地龜戸の内を斜に東の方中川に達せしが、・・・・・云々中略・・・・・此川古は柳島村の邊より請地古川と唱ふる川にも通じて、洲崎村長命寺の北にて隅田川に合流せしさまなり」。
以上これらの記録から、銅像堀から鳩の街へ流れる古川の本流とは別にもう1本長命寺手前まで流れる古川の分流があり、それが長命寺の北から業平橋あたりへ達していたこと、それを隅田川の入堀で寛文3年(1663)に堀割りした源森川と接続させた。北十間川の成立過程を考えると、これが江戸から現在の北十間川の姿ではないかと思われる。
さて、明治時代の地図をみると、地蔵坂通りの北側・寺島図書館寄りには結構広い川が流れていた。写真集「墨田の今昔」(みどり図書館発行)に明治末と思われる地蔵坂通りの写真が載っている。それをみると川の幅の方が堤の道巾より広い。この川と道は水戸街道を越えて長く伸びて、旧たから通りのコースを辿っている。
地蔵坂通りという名称は、墨堤からこの道に入る左際に子育地蔵尊が祀られていることから何時とはなく、言い慣らされて地元に定着した名前であると思う。「子育地蔵尊御由来」碑に書かれた伝承によると、江戸文化年間隅田川堤の改修の際に石造りの地蔵尊が掘出され、当地の植木屋平作が庚申塔のある道辻に祀ったものとされている。地蔵堂には、区内で2番目に古い笠石塔婆型の「10ヶ年庚申奉待塔」をはじめ6基の庚申塔が建っている。地元では有名な、お地蔵さんで、毎月4の付く日に縁日が開かれ地蔵坂商店街も賑わっていた。しかし、最近はその商店街も櫛の歯が欠けたように店を閉めているのが目立つ。
地蔵堂のすぐ隣、今の羽衣不動産が建っているところに10数年ぐらい前までは塀をめぐらした古い屋敷と庭があった。植木屋平作邸で、11代将軍家斉のお手植えといわれている唐楓の木があった。地蔵堂裏手の記念の碑には「御接木唐楓御用木永々御預り・・・・・(云々・・・・・天保3年壬辰(みずのえたつ・1832))4月25日植木屋平作58歳」とある。唐楓はカエデとは別種で、フウと呼ばれ、鷹さ3メートル、幹廻り1.3メートルもあった。かなりの老木で根も張り、中がガランドウで移植に耐えられぬということで切られてしまったそうです。
地蔵坂を下りてすぐ右にある八百長さんが、「昔は地蔵坂の傾斜はもっときつかった。時には荷馬車の馬が滑って倒れた」と、先代の親父から聞いた話をしてくれた。
地蔵坂通りを下りて中ほど右側に第1寺島小学校がある。創立は明治12年10月12日。寺島村にはじめて出来た村立(公立)小学校であった。校舎は木造茅葺屋根の平屋建で、元は、現在の寺島図書館のある場所に建っていた。
昭和54年発行された「墨田区立第1寺島小学校創立百周年記念誌」によると、その後、児童数の増加が続き、瓦葺き校舎の新築や改築を重ねながら、先ず明治41年に3教室分の校地を川と道(地蔵坂通り)を越えた向こう側の地(現在地)に求めて新築したのが移転の初めである。
更に翌42年には明治34年に新築した校舎を現在地に移転改築している。大正に入っても増改築を繰り返しいる。大正8年に卒業したOBは、「地蔵坂通りを真中にして両側に学校があった」と「記念誌」の座談会で話している。
関東大震災後の大正14年に鉄筋コンクリート2階建ての新校舎を完成して、40年以上使用した。現在の鉄筋4階建て校舎は昭和43年から47年にかけて4期に分けて行われた工事で完成した。
「創立百周年記念誌」には、明治の頃の様子が次のように記載されている。「地蔵坂通りは今は商店街ですが、昔は巾も広く、大正の初め頃までは、子供たちの水泳場となっていました。その川と1寺小の西側を流れていた川(今は埋められています)に挟まれたところが中堰、それ以西が新田になるわけです。寺島と洲崎町の境は、古川あと(現鳩の街の裏道)といって、十間川まで続く古い川で鷭(ばん)土手と呼ばれ、地蔵坂通りの方を鶴土手と呼んでいました」。
また、この文章の前に次のようなことが書いてあった。長くなるので省略しようと思ったが、昔の有様がわかり参考になるし第一面白いので紹介します。
「当時(明治の頃)の寺島の中は、字寺島、字新田字長浦の三つに分かれ、更に、その中に小字として北居村、南居村、前沼馬場、深瀬入、中堰(または中どて)、本玉の井、北玉の井などがあり、曳舟川以東を『水道向こう』と呼んでいました。
居村というのは、人家が多く集まっていたためつけられたもので、人の住んでいるところという意味です。昔は南を前、北を後ろとか奥とかいいましたが、それで居村からみて前の方、つまり南は蓮田が多く、ちょうど沼のようになっていたので前沼と呼ばれました。また、居村からみて、曳舟川の向こうは『水道向こう』と呼んでいました。
後年鉄道(東武鉄道)が敷かれたときも、居村に住む人達は、線路より東側を「汽車向こう」といっていました。(中略)『水道向こう』は一面の田畑で、たまにある人家では、蓮田を利用して金魚の飼育が行われていたそうです。宅地続きのところも、畑を隔てた隣家まで、夜は途中狐や狸が出るとかの噂が高く、いたち等も多かったようです。蛙、ホタルはいうには及ばない程田園調の豊かな村でした」。
明治後期の寺島村は現在では想像もつかない緑の景観を呈していた。「明治20年葛飾図」では、地蔵坂通りは今の図書館(1寺小)前の川と堤の道(堰)とで出来ていた。字前沼に属し、西隣りの字中堰との区境となっていた。
また、現在の1寺小学校表校門のある西側の道は「明治20年図」では川というよりは堀が流れて、字中堰と字新田の境界線を作っていた(新田先の境は古川跡・鳩の街商店通りになる)。
また、地蔵坂通りの入口付近両側には複数の屋敷も見える。「明治図」以前の江戸から明治前期にかけて中堰側に一部水泳の出来る広い川が残っていた可能性は十分考えられる。いずれにせよ地蔵坂通り西側部分は堤道(土手・堰)であったことが分かる文章である。現在学校が建っている付近は中堰地区で、当時蓮田や沼が広がるのどかな田園地帯であったようだ。それが大正の中頃になると、川は大分汚れたらしく、ドブ川という表現が当時の在校生回顧座談会に出てきている。
先ほどの1寺小学校表校門のある西側の道も川と堰(堤・土手道)があったところで、現在この道は、刈谷肉店の前で水戸街道を越え、百花堂薬店とベアーズ写真館の間を入り曳舟児童遊園までの道になる。この道は東武鉄道が出来る前は曳舟川通りを越え吉野家牛ドン屋の横に入る道に繋がる。
1寺小学校は寺島村で最初に出来た小学校で他には小学校はなかったので、ただ寺島小学校といえば通じた。日本の近代化は明治後半の日清・日露戦争、大正3年(1914)の第1次世界大戦と軍事産業の発展と相まって向島の地も大工場、家内工場が輩出して、人口、児童数が増加。後者の増改築を繰り返しているだけでは収容しきれず、一時は3部授業も行われていた。
大正13年、前年の関東大震災罹災者の影響もあり、ついに寺島町(大正12年に郡制の廃止で村が町になる)にも、もう1つの学校が必要になり、誕生したのが第2寺島小学校。寺島小学校は、第1番目に出来たので第1寺島小学校と改称した。その後、昭和3年には第3寺島小学校も生れている。
次に、寺島図書館開館の経緯について話を移すと、明治39年(1906)に寺島小学校は校舎の一部を瓦葺き木造平屋建に増改築した。
昭和4年に小学校の創立50周年記念式典が行われた時、明治39年に建てたその校舎を改築転用して記念事業の一つとして転用したのが町立図書館の誕生となる。
その頃、寺島では識者の間に文化的施設の一つとして図書館の設立が求められていた。今、寺島図書館の門を入ったすぐ右に、創立80周年記念に寺島小学校を卒業した書道家西川寧揮毫の「公立小学校発祥の碑」の記念碑が建っている。
「墨田区教育概要平成9年版」によれば、昭和20年5月の戦災で寺島図書館は焼失して閉館。昭和27年のようやく新築再開にこぎつけた。現在のコンクリートの3諧建は昭和40年に落成したものである。
地蔵坂通りといえば、東京府立第7中学校(現墨田川高等学校)がある。
寺島小学校「百周年記念誌」には、大正11年(1922)、寺島小学校の一部を仮校舎として開校したと記載されている。東京都教育庁高等学校教育課に問い合せたところ、府立7中は大正10年10月4日に設立と記載されているとのことである。
同窓会「墨水会」の会報によれば、現在地に木造3階建ての本校舎が竣工したのが大正12年1月8日とある。第1期生は約1年間の仮校舎生活後、晴れて立派な本校舎を使い始めたようだ。
その校舎も昭和20年(1945)5月25日の戦災で焼失する。その間戦前、戦中の22年間、府立7中の3階建て木造校舎は東京一の大きな木造建築としてその威容を誇っていた。それもその筈で明治・大正時代、国内産業・貿易の発達のため日本政府が国力誇示するため上野公園で盛んに挙行した博覧会の建物をリサイクルし、建て直したものである。
いまでも、その誇り高き校舎で学んだ卒業生は語り草として思いで深く話している。
今回の太平洋戦争では、昭和23年4月に急造の2階建て木造校舎が建設されたが、10年程使用されただけで建てかえられた。
昭和36年に建てた鉄筋4階建の校舎も地盤沈下の影響を受け予定より早く20数年で取壊し、現在の校舎が体育館運動場などのレイアウトを思い切って変えて落成したのは平成3年3月のことである。
東京府南葛飾郡大字寺島村1,666番地に寺島村役場があった。
今の東向島2丁目7番地墨田朝鮮人商工のところである。寺島村役場は「墨田誌考」(墨田区発行)では、明治34年10月に寺島村1,553番に移転したと記載されている。
旧1寺小学校・現図書館の場所である。明治44年東京遞信管理局発行の地図では蓮華寺の隣に村役場があった記号が付いている。
昭和7年向島区が発足したときに寺島町役場は寺島町1丁目7番地(現東向島1丁目26番)に開庁している。少しヤヤコシイので整理すると、先ず寺島村役場は明治34年以後寺島図書館の所へ移動。次に蓮華寺の隣へ、更に大正時代は地蔵坂通りの墨田朝鮮人商工の所へ移動した後、昭和7年に鳩の街商店街へと順次移動したことになる。
曳舟川までを地蔵坂通りと考えれば、本局・向島郵便局所在地の変遷に付いても触れなくてはならない。本局向島郵便局が現在地(東向島2丁目32番25号)に開局したのは昭和45年。
明治通り東向島6丁目9番・今の三菱キャタビラー販売所の場所から移動した。向島郵便局誕生の地(前身、寺島郵便局が大正12年11月開局)は戦災で焼けるまで大正通り(東向島4丁目42番5、6号)にあった。
その頃、(戦前の話だが)現在地には向島高等女学校が建っていた。昭和18年、太平洋戦争も敗戦色が濃厚になり始めた、2月1日には日本軍がガナルカナル島から撤退し、政府は3月に増税を実施している。
東京府の財政も当然苦しかったと見えて補助金等カット、学校統廃合やいくつかの学校が閉鎖処置をされている。向島高等女学校も、その一つになった。在校生は大妻女学校など数校に吸収転校させられている(これは向島郵便局と向島高等女学校を共に建築請負をした当時の棟梁「大長」からの話)。
その後、戦後の昭和21年から同39年までここに向島映画劇場が開業し、娯楽の少ない庶民に親しまれた。昭和29年頃には、ちょうどテレビが普及し、プロレスの力道山が活躍した時期である。その後、しばらく映画館の建物を借りて「熱海静観荘」が経営したキャバレーが開店した。(元区議会議長中沢進氏より)。
ちなみに、向島地区最後の映画館・鳩の街通り「向島金美館」が廃館したのが昭和46年1月である。
地蔵坂通り商店街の最近の様子であるが、ご多分にもれず、このところ活気がない。商店の数も歯が抜けたように一時の半分ぐらいに減ってしまった。安売りとかアイデアに富み、購買欲をそそる店が見当たらないのも事実だが、ヨーカ堂や系列ファミリーストアなどが開業。
大資金を投入して品数が豊富でディスプレイも垢抜けした魅力・明るさには適わない。それに打ち勝つ力は個人商店にはない。経営のうまみも薄れてきて、後継者たちも高学歴でサラリーマン志向で若い力も不足している。
「4」のつく日の地蔵様に因んだ縁日は今も続いているがマンネリ化し、それに頼りっきりの姿勢も垣間見える。時代の流れともいえるが、向島の老舗商店街であるだけに水道向こう(曳舟方面)の客を再び取り戻し再起してもらいたいと願っている。
もっとも、スーパーの大資本を動員しての攻勢にはほとんどの商店街が被害を受けている。地蔵坂商店街も例外ではないが、いうは易く行うは難しか・・・・・。いまでは、露天商がビッシリ立ち並んで大勢の人を呼び集め、人の間を泳ぐように歩いた、つい最近までの賑やかさが懐かしい。
最後に、私事で恐縮ですが、わが父親の出身校でもあります(関東大震災前の大正10年)。 |
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